タロット売りたちと町医者
これから向かうのは[北の街]と呼ばれている場所です。何故明確に[北]と示されているのかというと、その街は人間が街を暮らしている北の最果てなのだそうです。
東西南北とある通り、他にも西の最果て、東の最果て、南の最果てがあります。サファリの父は西の最果ての街の出身で、そこは神様への信仰が深く、黒人への当たりがひどいのだと言います。サファリの父は幸いにも雨風凌げる家の中にいることができましたが、赤ん坊は黒人に産まれただけで、路地裏に捨てられるような、そんな街なのだそうです。サファリの父は生きましたが、家での扱いはひどく、家事や雑務をやるのは当たり前で、分刻みで勝手に組まれた予定を時間通りにできないと、良くてごはん抜き、最悪の場合は折檻も受けます。
幸か不幸かはわかりかねますが、黒人は白人より体が丈夫であるため、多少の折檻くらいなら耐えられた、とサファリの父は語りました。
けれど、栄養のある食事を確実に摂れるわけでもないことは肉体に大きな影響を及ぼします。
「俺が今日まで生きて来られたのは、俺に懐いて食事を分けてくれたちびたちと、これから行く[北の街]にいる先生のおかげだ」
「せんせい?」
「ああ。お医者さまだ」
「!」
サファリはびっくりしました。何がびっくりしたって、神様にすら[さま]なんて敬称をつけたりしない父が[さま]とつけて呼んだからです。
医者というものがこの世界には存在します。人が病気になったとき、怪我をしたときに治療をしてくれる存在です。有名ですが、世界中を探しても、指折り数える程度しか医者はいません。
このことにも宗教が関わっていて、神様は人間に困難を与え、それが病気だったり、怪我だったりするのです。病気や怪我を治療することは神様の行いを否定する不敬なことだとして、世界的に医療行為というのはあまり認められていません。
それでも医者が存在するのは、誰だって、痛い、苦しい、つらい思いばかりし続けることに耐えられないからです。人間は世界に生まれたからにして[生きる]という使命を帯びています。故に本能的に[死にたくない]と思うのです。[生きたい]と思えば思うほど、医療行為は必要となります。だから、黒人ほど医者の存在は騒ぎにはなりません。
医療にはかなり専門的な知識と技術が必要なので、医者を名乗る人間は少ないのです。
「先生は趣味で絵画収集をしているお得意様でもある。[北の街]でも地主に次ぐ権威を持つお方だ。お前も挨拶をして、何かあったとき、助けを求められるようにしておくといい」
「……僕はお父さんさえいればそれで充分だよ」
サファリの言葉に父はサファリの頭を撫でます。
「サファリ、俺だけではどうしようもないことがある。肌の色とかな」
サファリは何も言えませんでした。
いつかは、ベルは死にます。そうなったら、自ずとサファリは一人になるでしょう。そうなったときのためのことを思って、父は子どもにパイプを繋ごうとしているのです。
黒人は時に黒人であるというだけで命を狙われることがあります。あまりにも理不尽ですが、黒人を差別しない人より、黒人を差別する人の方がたくさんいるのが世界の実情です。けれど、父とてなろうと思って黒人になったわけではありませんし、肌を白くすることなんて、そう簡単にはできません。
黒人であることが、本当の本当にどうしようもないことで、父なりに手を尽くしているのです。
そこでサファリは気づきました。サファリが生まれる前からずっと、父は行商人をしています。黒人であることで苦労したことは言わないだけで数知れずあることでしょう。そんな父が何の躊躇もなく頼ろうと考える相手です。少なくとも、差別主義者ではないでしょう。人を見る目が優れているために、黒人でありながら世界に名の通る商人になった父です。そのお医者さまはいい人の可能性すらあります。
「……わかった。その人と仲良くする」
「ああ。それはそうと、[北の街]は[北の街]で、最近何か良くない噂を聞くから、俺からはぐれないようにな」
その言葉には、サファリも何も言わずに頷きました。
ふと、何かの気配を感じ、サファリは立ち止まります。ざわざわざわざわと、風は吹いていないのに、木々がざわめくような、木々の精霊が動揺しているような、そんな感覚です。
父も立ち止まっておりました。父は惑うことなく、真っ直ぐ何かを見つめています。
その先には、弓矢をつがえた少女が一人、すん、と立っておりました。動きやすそうな皮鎧に身を包み、相応の膂力がいるであろう弓矢を淀みなく、ぴん、と真っ直ぐ……ベルに向けていました。
「父さん」
危ない、とサファリが警告しようとするのをベルは手だけで止めます。ベルは臆することなく、荷車を置いて、両手を挙げ、少女の方へ真っ直ぐ歩いていきました。
とす、とす、とす、とす……
「[北の森の守護者]か?」
「そうだ」
少女は少女にしては低く通る声で答えました。その声には何か力があり、短い一言だったのに、やけに耳に残ります。
しかし、それで気圧されるようなベルではありません。
「よかった。俺は[行商人カヤナ=ベル]だ。[北の街]に立ち寄りたくて、この森に入った」
少女は弓矢をつがえたままです。サファリは胸がどくどくと嫌な音を立てるのを抑えられませんでした。父と違い、サファリはその場から一歩も動けません。顔から……いや、全身から血の気が引いていくのを感じます。たぶん、サファリは今、かなりひどい顔をしています。
それもそうでしょう。少女が現れたその瞬間から、森の空気ががらりと変わったのですから。今までは和やかな普通の森だったのに、肌を刺すような痛みを覚えます。あの少女の敵意がそのまま森の意思か何かを介して、サファリに当たっているかのよう。あまりにも生々しい気配と緊張感は、齢幾何もいかぬサファリには恐怖しか感じられません。
こんな空気を出す人をサファリは知りませんでした。
そんな中を父はずいずいと少女に向かって進みます。少女が弓矢を下げる様子はありません。張り詰めた空気が、呼吸をすることすら憚られるほどの静けさをもたらしています。
「これ、ハクア」
そこに差し込んだのは、老人の声でした。気づくと、少女の背後に背の小さい老人が立ち、その頭をはたきます。
「こやつは儂の客人じゃ。武器を向けるでない。というか、普通は人間にいきなり武器を向けてはならん。緊張しているのはわかるが、見誤るな」
「師匠……」
ハクアという少女は老人に諌められて、ようやく弓矢を下ろしました。老人はハクアの前に出て、ベルに頭を下げます。
「突然の無礼を詫びよう。ベルの坊やはまた随分とでかくなったな」
「いえ。先生」
サファリはようやく緊張が解けて、へなへなとその場に崩れました。真っ先に父が気づいて、サファリを介抱します。
その様子を見て、老人はにやにやとし、「子連れとはやるのう」と紡ぎました。
む、と珍しく父の顔に表情が浮かびます。からかわれるのが不服なようですね。
「さて、坊やはどうやら[そちら側]の人間のようじゃな。顔が真っ青ではないか。うちに来るといい。甘いココアでも出そう」
「おじいさんは?」
「儂はランドラルフ。しがない町医者じゃよ」




