タロット売りの細やかな記憶
サファリの一番最初の記憶は土の香りです。土の上でべしゃあ、と転んで、父がサファリを抱き起こしてくれました。
心配そうな黒い目がサファリの海とばちりと合わさります。サファリは森の静かな夜空みたいな目に吸い込まれるような心地でした。
「大丈夫か」
サファリを抱き起こす父の手は黒く、ふと、いつも虐げられていることを思い出します。人々は父が黒い肌というだけで「コクジンメ、アッチヘイケ」と言っていたのをサファリは微かに覚えていました。
この大きな手のどこが悪いのか、サファリには微塵もわかりません。黒かろうが白かろうが、この手はサファリを撫でてくれるサファリの大好きな父の手です。
返答のないサファリを見て、父はつんつん、とサファリの頬をつつきます。サファリはそれが気に入らないのか、父の手を両手で捕まえると、自分の頭をぽんぽんと撫でさせました。意図を察した父が、サファリの誘導に抗うことなく、ゆっくり、丁寧な手つきでサファリの頭を撫でました。
サファリは満足して、手を放します。そうしたら、父は大きな腕でサファリを抱きしめました。
サファリはびっくりして身を固くしますが、父の柔らかな温もりに、次第に体の緊張が解けていき、ゆったりと父の腕の中で体を寛げるのでした。
その後、近くの川で水浴びをして、温かいスープを飲んで、野宿をしました。
「お父さんと一緒に寝たい」
「駄目だ。火を見ていないと」
サファリの父は、駄目なことは駄目、とはっきり言う人です。サファリも物分かりが良く、わがままを言ってもあまり食い下がることはありませんでした。
寡黙で、素っ気ない感じがしても、父がちゃんとサファリのことを愛してくれている、と実感していたからです。黒い肌と白い肌。黒い髪に白い髪。暗い目に淡い目。容姿が全然似ていなくとも、サファリは父が自分の[父親]だと確信すらしていました。
朝、火の後始末をして、森を出ると、大きな街に着きました。馬車が道をよく行き交う街です。港があって、向こうには海が広がっています。
サファリは海が好きでした。たぶん、海のある街でなくとも、サファリは心の中で海の匂いを感じることができます。それだけサファリの本能に深く海というものが結わい付けられているのです。きっと、海のある街に生まれたんだ、と心のどこかで思っていました。
馬車にぶつからないように、父はサファリと手をしっかり繋いで、道を歩いていきます。父が真っ先に向かったのは、車輪のついた図書館の看板のあるところです。
「キャペット」
「ああ、ベルかい。久しいね。サファリは元気にしてるかい?」
「キャペットおばさん」
サファリが澄んだ声でそう呼ぶと、[キャペット道端図書館]の車の中から、ずい、とキャペットが姿を現します。ちょっと目付きが悪く、若白髪のある女性は、ちんまりとしたサファリをじろ、と睨みました。
「おばさんはおやめ。あたしゃあんたの父さんより年下だよ」
「じゃあキャペット」
「相変わらず聞き分けがいいねえ」
キャペットは呆れたような溜め息を吐きます。そういえば、父の手が空いていないときはキャペットのところでお世話になっていたのでした。
そのことからサファリが気づき、父を仰ぎ見ます。
「お留守番?」
「ああ。宿をとってくる。キャペット、サファリを頼んだ」
「はいはい。お前さんらはテレパシーでも使えるのかい? 普通の子どもなら、駄々を捏ねるところだよ。まったく、もう」
何を言ったらいいかわからない、といった様子で、キャペットは頭をがしがしと掻きます。サファリはきょとんとそんなキャペットを見つめました。そんなうちに、父の姿は雑踏の中に消えていきます。
サファリはキャペットの方へとてとてと歩きます。
「キャペット、文字、教えて」
「もうそんなことに興味があるのかい?」
サファリはこくりと頷きます。
サファリには企みがありました。企みというと聞こえが悪いでしょうか。父の商いを手伝いたい、という思いがあったのです。
以前の記憶はあまり思い出せませんが、父が[コクジン]であるために苦労しているところをサファリは何度も見た覚えがあります。だから、[コクジン]じゃない自分が父の助けになれたら、と考えるのです。
「お前さんは別にそんなこと考えなくてもいいんだけどねえ。アレは好きでやっていることだし」
「だったら、お父さんを助けるのは、僕が好きでやることだよ。駄目?」
上目遣いで問うと、キャペットはお手上げのポーズを取りました。無意識なのか、わざとなのか、いずれにしろ、サファリは普通の子どもとするには人の心を惹き付ける仕草や言葉遣いが得意なようです。それを悪用するくらいなら、父の役に立ちたいという幼心を育む方が良いでしょう。キャペットはサファリを移動図書館の中に乗せました。
[キャペット道端図書館]は様々な種類の本を取り揃えています。それを管理するキャペットは当然のように蔵書を全て把握していました。当たり前のようにやっていますが、キャペットの記憶能力は凄まじいものです。確か、子ども用の読み書き学習用の本はこの辺りだったな、と本棚から本を出しました。
その拍子に、表面が少しくっついていた隣の本がすとん、と落ちてきて、ぱたん、とサファリの足元に倒れました。
「キャペット、これ」
「ああ、ありがとう。怪我はなかったかい?」
サファリは首を横に振ります。ぶつかったとしても、その本はさして厚くも重くもありません。けれど、本よりサファリ自身の心配をする程度には、キャペットの中でサファリの占める割合は高いのです。
キャペットは本の虫、という言葉そのままで、自分の生命活動よりも本を読むことを優先させてしまうような気質を持っており、その異常性から、たまたま故郷を訪れた移動図書館の引っ付き虫となり、そのままこの[キャペット道端図書館]を引き継ぐことになりました。今では自分の本名すら覚えておらず、看板のキャペットという名前をそのまま名乗るくらい、キャペットは自分に対する執着すら薄いのです。
そんな彼女が移動図書館を管理するのには大変な苦労がありました。治安の悪い街では本は簡単に盗まれていきますから、警戒を怠ってはなりませんし、先代より築いてきたあらゆる街との交友を保たなければなりませんでした。人にも自分にも執着がなく、コミュニケーションというコミュニケーションを全て蔑ろにしてきたキャペットが一人前になるまではたくさんの労苦があり、それを支えてくれたのはベルでした。
故に、キャペットはベルにサファリを一時預かりする程度では返しきれないほどの恩があるのです。
それが赤ん坊を連れてきたときは驚いたものです。色恋の[い]の字もなかったベルに隠し子ができたのか、と驚きのあまり、ベルに一度平手打ちをしたほどに気が動転していました。
その赤ん坊が育って、誰に似たのか寡黙で、随分と利口そうになったものです。
「キャペット、この文字はなんて読む?」
「それは数字だよ。一から十までは数えられるかい?」
「うん」
「じゃあ、これがね……」
キャペットは決してサファリの母親にはなれません。けれど、サファリの知りたがる知識の面くらいは補ってやろう、と本を広げ、学ばせるのでした。