タロット売りの善き処
さくりさくりと雪を踏み、ぽつりぽつりと降る雨に、サファリは感謝を歌います。どこかの教会でいつか聞いた讃美歌だったかもしれません。
あの後、ジェニファーはジュリーに抱きつき、今まで泣かなかった分、たくさん泣きました。お母さんが死んじゃわないか心配だったの、と泣き叫ぶいたいけな姿はとても健気で愛らしく、周りにいたおじさんたちはもらい泣きをしていました。
ジュリーが時折こぼしていたあの空咳。長く続いているのなら、医者にかかった方がいい、とサファリは指摘しました。このまま放置すれば、ジェニファーの危惧する通り、死んでしまうかもしれませんから。どんな些細な症状でも放置すれば大きな病となるのです。
ですが、医者はこの村にはいません。雪深いこの村に医者が来るのは難しいでしょう。ジュリーはそれを気にしていました。
しかし、サファリの[ベルの行商人]の人脈をもってすれば、それは容易く解決できることなのです。
この山を越えれば、北には北の[配り屋]がいます。おそらく、この時期は雪により人の行き交いが困難になるため、脚力のあるヴェンが担当をしていることでしょう。それなら、下手に馬や鳥を飛ばすよりも速く北の街に手紙を届けられるはずです。
北の街には町医者のランドラルフがいます。彼は町医者なので、基本、街に留まっていますが、知り合いからの知らせで病に倒れた人がいると聞いたなら、どこまででも駆けつけてくれます。そういう人の好さがラルフを有名にさせているのでしょう。
北の街からこの北東の村までは他と比べれば距離は近いですが、そこそこな距離があります。その上雪や雨といった悪天候が続いているとなると、どうしても時間がかかってしまうでしょう。それも見越して、サファリは北の街の地主であるハクアにも一筆書くことにしました。
ハクアに一筆書けばハクアも動いてくれるのです。馬車の一つくらいは出せるでしょう。馬車が出れば、駆けつけるのも速くなります。幸いなことに、ジュリーの症状はまだ空咳のみの初期症状ですから、二、三日の遅れをそこまで深刻に捉えるほどではないです。
と、サファリの尽くせる手は尽くそうと、準備を整え、ジュリーには地に頭がつきそうなほどに頭を下げられました。病気でなければそれに越したことはありませんが、サファリも父の晩年に空咳が続いたことがあったのを話し、ジュリーに注意を促しました。
「おにいちゃんも、おとうさんがいないの?」
「うん。病気で死んじゃったんだ。元々、この荷車も看板も、僕のお父さんのものでね、お父さんが死んじゃったから、僕はお店を引き継いだんだ」
その話をすると、ジェニファーは目一杯背伸びをして、手を伸ばして、ようやく届いたサファリの頭をくしゃくしゃと撫でました。その手つきはなんとなく、スープを飲みに来ていたおじさんのものに似ています。
「サファリおにいちゃんえらいえらい。いっぱいがんばってえらい。サファリおにいちゃんも、つらいことやくるしいことはおともだちにはなすんだよ」
拙い言葉。けれどそれはサファリの胸によく響きました。
「サファリ、よくやった。えらいぞ」
いつか父も、そう言って頭を撫でてくれたのを思い出します。
「ふふ、ありがとう、ジェニファー」
そうして、ジェニファーたちと別れ、山の中を荷車を引いて歩くのでした。
雪かきがされ、整備された山の道は時折石に引っかかったりするくらいなもので、とても歩きやすいです。あのおじさんたちにも感謝しませんとね。
麓に降りれば、速すぎてもはや神出鬼没とさえ言えるヴェンに会いました。やはり目を見張る健脚の彼がこの時期は北の区域の担当のようです。
ちゃんと忘れ物がないように二人で確認し、ヴェンはあっという間に雪の向こうへ消えて行きました。相変わらず、忙しない人です。
雨脚も弱まり、雪の姿も見えなくなってきた頃、ほとんどの動物が眠りの時期に入っている森の中で、サファリは一休みすることにしました。雪山さえ抜けてしまえば、野宿をするのは苦ではないのです。
幹の太い木の前に荷車を止め、ふう、と息を吐きます。先ほどまでは白かった息もここでは色のない普通のものに戻ります。
すると、そんな静寂も束の間、遠くから「サファリさーーーーーん」とサファリの名前を呼ぶ声がします。声の方を見ると、その姿は驚くべき速さで近づいてきて、サファリの荷車の前をだいぶ通りすぎてから、慌てて引き返してきました。
「サファリさん、北の街にお手紙届けてきましたよ。領主さまとお医者さまがすぐに向かうとのことでした。お手紙は山の中腹のジュリーさんのお宅ですよねっ」
「いや、速くない? いつもだけどさ」
「自分、足が速いのだけが取り柄なもので! でも、ジュリーさんはご病気なのかもしれないでしょう? 何もかも、速いに越したことはありませんよ。ぼくは、もうベルさんのように手遅れになる人を見たくありません」
ヴェンは珍しく暗い面持ちになります。サファリは何も言いませんでした。
ヴェンの言うベルさんとは、サファリの父のことです。この世界では一つしか名前を持たないのが通常ですが、サファリの父は黒人で、家族から迫害し、自分から家を出たため、元々の名前の他にもう一つ[ベル]という名前を持つようになりました。サファリの父は元の名より[ベル]という名前を名乗る方が多かったです。それが根づいて[ベルの行商人]と呼ばれるようになったという経緯があります。
サファリの父は病死でした。サファリが気づく頃にはもう遅く、医者も近くにいない街にいたので、処置ができなかったのです。最初の処置が遅れると、病気は治るまでに時間がかかったり、侵攻が進んだりします。
「ぼ、ぼくは、ベルさんに救ってもらいました。とても治安の悪い街にいたんですが、ぼくはそこで、こ、ここ、怖い人たちから搾取される側で、取られたくなくて、逃げて、仲間は次々捕まって、足の速いぼくだけが逃げ延びたところで、ベルさんに会って……ベルさんがぼくに配り屋の仕事を紹介してくれなかったら、今もまだ逃げ続けていたか、もう野垂れ死んでいたかもしれないと思うと……本当に、本当に、いくら感謝を伝えても足りないくらいで」
「父さんとは、ヴェンの方が付き合いが長いんだよね」
「ええ、でも、ベルさんが奥方を迎えたなんてお話、ぼくはついぞ聞きませんでしたよ」
「うん、僕も、母さんが誰かは知らないんだ」
「恋愛したわけじゃないんですかね? ベルさん、モテそうなのに。ってあ! 長々とすみません! そろそろ行きますね!」
「うん。忘れ物はない?」
「今回は大丈夫です! では!」
というなり、ほんの一瞬でヴェンの姿は森の向こうに消えました。本当に足が速いです。
噂では馬よりも速いということで評判のヴェンですが、彼は人を担ぐことだけはしません。おそらく治安の悪かったという故郷で人を担ぐことに良い思い出がなかったのでしょう。
「治安の悪い街、ね……」
サファリはよいしょ、と荷車の隣に座ります。すると、その腰の辺りから、声が聞こえてきました。
「主よ、今回は嘘を一つも吐かなかったのだな」
荘厳な雰囲気を纏う女性の声。サファリは意外そうにウエストポーチを見ました。その中から夕焼け色のケースを取り出します。ツェフェリのタロットカードが入っているものです。
「あなたが話しかけてくるのは珍しいですね、[女帝]さん」
「珍しく占いに出たからな。あの地の豊穣の気配は濃かった。次の年には豊作となるだろう」
「それは何よりです」
「……良い結果だから、嘘を吐かなかったのか?」
喋っているのはタロットカード。No.Ⅲの[女帝]です。はきはきとした物言いをする彼女はカードの中で身動ぎをすることはありませんが、じっとサファリを見つめているようでした。
サファリはその眼差しを細めた目で受け止めます。黙したまま、もう一枚、カードを取りました。
[女帝]と並ぶ荘厳であり誠実の象徴[皇帝]。お喋りなタロットたちの中では寡黙な彼は、サファリに出されたことに、言葉一つ漏らしません。
「今回の占いで、あなたたちが出てきたからですよ。ちょっと感傷的になってしまったんです」
「主には病死した父がいたということだったな」
「ええ」
サファリは静かな森の中、呟きました。
「実の親ではなかったんですけれど」