タロット売りは魔法使い?
少しひんやりとした空気に充てられて、サファリはゆっくりと瞼を上げました。
むく、と起き上がると、隣ではジェニファーが健やかな寝息を立てて眠っています。起こさないように、そっとベッドを抜け出して、サファリはキッチンの方へ向かいました。
そこからは温かい匂いがしてきます。こほこほと空咳の音もしました。
サファリが歩いたことで、床が軋み、音を立てます。その音で気づいたようで、ジュリーは振り向き、微笑みました。
「あら、サファリさん、おはようございます。早起きなんですね」
「ジュリーさんこそ。雪の朝は冷えるのに、お早いんですね」
「ええ」
ジュリーは火にかけた鍋に目を向けた。
「この辺りの朝は冷えますから、スープにはじっくり火を入れないと、温まらないんです」
穀物と野菜のスープ。郷土料理というか、この北東の村の家庭の味です。雪の降る季節は早朝に雪かきをすると、体が芯まで冷えてしまいます。それを温めるのが、お母さんの作るこのスープ。素朴な味つけながら、どこか安心と郷愁を覚える味わいです。
外の雪は止んでいました。山ほど積もったわけではありませんが、いくらか片付けた方が歩きやすいでしょう。
「麓の村からここまで、雪を退けに来てくれる人たちがいます。その方たちがうちに立ち寄って、スープを飲んで、麓に戻るんです」
温かい縁の巡りです。旅人としても、道を整えてもらえるのはありがたいこと。特に山道は整っている方が歩きやすいのです。
道を整える人たちを温めるのも人。この巡りがあって、人の社会は保たれているのです。
「じゃあ、雪の季節も人に会えるんですね」
「ええ。ジェニファーは人懐っこいから、人が来るととても喜ぶんです」
「素敵ですね」
ふふ、とジュリーは微笑むと、窯の中に薪を入れます。ころん、と音がして、ぱちぱちと火が弾けます。
ガスの通らない山の中では、まだ窯で料理を作っていました。けれどどんなもので温められて、温度が同じでも、なんとなくこのスープの方が温かそうに感じるのは、どうしてなのでしょう。
サファリはいつか飲んだ、具のないスープを思い出しました。サファリがまだジェニファーくらい幼く、人と上手く話せなかったとき、父がもらってきてくれたオレンジ色のスープと固いパン。
「俺が黒人なせいで、不自由をさせて悪いな」
父がそう言ったのを、ふるふると首を横に振って否定したのをよく覚えています。そんなサファリの頭を撫でてくれた大きな手。
薄い塩味のスープがとてもとても味気ないのに美味しかったのを覚えています。その味を知っているから、サファリは具だくさんのスープをもっと美味しいと思えるのです。
「サファリさん、ありがとうございます。サファリさんが分けてくださった食材のおかげで、皆さんにちゃんとしたものが振る舞えます」
「いえいえ。僕は旅から旅への根なし草なので、料理はあまりしないのですよ。食材は生き物ですし、ちゃんと使える方の手に渡ってよかったです」
「ふふ、食材を生き物というのはお料理がそれなりにできる方の証拠ですよ。本当にありがとうございます」
「何か、お手伝いできることはありますか?」
んー、とジュリーは辺りを見回します。それからサファリに振り向き、首を横に振りました。
「ジェニファーについていてあげてください。雪が止んでも、雪崩の危険がありますから、すぐに出立できないでしょう?」
サファリはふ、と笑いました。
「わかりました。では一つだけ、お伺いしたいことがあります」
「なんでしょう?」
けほ、とジュリーが空咳をします。失礼しました、と口を塞ぐのに対して、サファリはいえ、と続けます。
ジェニファーがぱちりと目を開けると、広いベッドの上でした。
ジェニファーは知っています。ベッドが広く感じるのは、この家の住人が足りないからです。
ジェニファーの母はいつからか、ジェニファーの隣で眠らなくなりました。どんなにジェニファーが早起きしても、ジュリーは台所にいます。雪の季節じゃないときは、山にきのこを採りに行ったり、家の周辺の掃除をしているのです。ジェニファーの母は立派な働き者で、ジェニファーの自慢です。
けれど、ジェニファーはそんな母のことが心配でした。
「おかあさん、今日も寝てないのかな」
ジェニファーは起き上がり、自分の隣を軽く撫でます。あれ、とジェニファーは首を傾げました。いつもよりほんのり温かいのです。
「あ、おはよう、ジェニファー」
細波のような涼やかな声が空間を抜けます。寒くない風が吹いたような気がしました。顔を上げると、そこにはジェニファーよりお兄さんな男の子がいました。
ジェニファーは思い出します。そういえば、昨日から行商人のお兄さんを泊めているのでした。
「おはよう、魔法使いのおにいちゃん」
「あれ、まだそう呼ぶんだ」
「だっておにいちゃん、魔法使いみたいなんだもん! ほんとうのほんとうに、おかあさんが笑ったの、久しぶりだったんだもん」
ジェニファーはサファリのことを褒めているつもりなのですが、サファリはなんとも言えない顔をします。凪いだようでありながら、何かをこらえているような絶妙な表情。サファリは顔の作りが細やかですが、ここまで複雑な表情をするとは、ジェニファーもびっくりです。
褒めているのにこんな微妙な顔をする人は初めてでした。本当にサファリは不思議な人です。
けれど、サファリはほんの瞬き一つ分の間にその変な表情を顔から消して、ジェニファーの傍に腰掛けます。
ほんのりと、触れた手から感じたのは、ベッドに残っていたのとおんなじ体温でした。
この家にベッドは一つきりなので、お客様のサファリはジェニファーの隣で寝たようです。
「ジェニファーはよく眠れた?」
「うん! 今日も元気いっぱい」
わあっと手を広げて、ジェニファーは[元気]を両手いっぱいに表現します。サファリはそれを見て微かに笑み、ジェニファーの頭をそっと撫でます。
「あ、わたしね、一人でおしたくできるんだよ!」
ジェニファーはそう言って得意げに、ベッドサイドに置いてあった櫛を自分の髪の毛に通します。
「ふふ、上手だね」
「うん、うーんとちっちゃい頃から、おかあさんに教えてもらってたんだー」
ジェニファーは長い少し癖のある髪の毛を器用に鋤いていきます。手慣れているのがサファリでもわかりました。
ジェニファーはまだ幼い女の子ですが、最低限の身支度は一人で済ませられるようにしていました。ジェニファーが手のかからない子どもになれば、母が苦労することが少なくなる、とジェニファーなりに考えたのです。
母は働き者で、頑張り屋さんで、頑張りすぎて、死んでしまうんじゃないか、とジェニファーは不安なのです。
そんなジェニファーの不安を見透かしたように、サファリが、ジェニファーの肩にそっと手を置きます。ジェニファーはびっくりして、思わずびくっとしてしまいました。
「ジェニファー、あのね、僕は占いができるんだ」
「うらない? 商人さんなのに、へんなの」
「あはは、面白いことを言うね。でも、そうだね、僕の占いは売り物じゃないから、言い得て妙かな」
サファリはす、とベッドに立て掛けられていたウエストポーチに手を伸ばします。何故だかジェニファーはその一挙手一投足から目が放せませんでした。春に咲く黄色い花の上を舞う白い蝶々を思わず追いかけてしまうように、サファリの白い指先の行く先を追ってみたくなってしまったのです。
白い指先が留まったのは、綺麗な夕焼けの色をしたケース。そのケースの中から、夜が生まれたみたいに星空色のカードたちが顔を出しました。
ジェニファーはその美しさに息を飲みます。
「きれい……」
「ありがとう。僕の友達が作ったカードなんだ。タロットカードって言ってね、占いができるカードなんだよ」
「うらないってなあに?」
「知りたいことを想像する方法の一つだよ。百聞は一見に如かず、占いをしてみようか」
そう言い放った途端、サファリの放つ雰囲気が山の主が住むという大きな滝に迷い込んだときのような、不気味と不思議の混じったような感覚になりました。
「おにいちゃん、ほんとうに魔法使い?」
その言葉にサファリは今度はこう答えます。
「どうでしょう? でも、占いは魔法みたいなものかもね。占いを見てみたい?」
どんなに手のかからない子どもになろうとしても、齢が十もない子どものジェニファーが、その好奇心に抗えるはずもなく、一も二もなく頷いていました。