ここは砂浜、戦場である
武器と武器がぶつかり合う耳障りな高音。
腹の底からあふれる怒号。
戦いの決着はそこかしこで生まれ出でて、方や傷者となり、方や死者となった。
乾ききった砂を伝わる不規則な振動は、横たわる青年の耳に届き彼の意識を刺激する。
「ここは……?」
青年は金属が縫い込まれたかのように重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。
彼の視界は小麦粉でもばらまいたかのように白く霧がかかっていた。
突如、脳の中心が跳ね飛んだかのような痛みが彼を襲った。
「ウウウウウウッ!」
青年は両手で頭を抑える。
内臓がすべて口から出て行きそうなほどの強烈な吐き気を催し、全身の皮膚という皮膚が燃え上がったように熱く 痛み出した。
青年は訳が分からず、歯を食いしばって我慢するほかなかった。
しかし、次の瞬間には感じていた痛みや吐き気が嘘のように消えてなくなっていた。
そして、真白にもやがかかっていた視界は、冬の朝のように透き通っていた。
「……なんなんだ……!」
砂浜に寝そべっていた青年の衣服には大量の砂がまとわりついていた。
彼は茶色い布一枚から作った服の、隙間という隙間に入り込んでしまった砂を懸命に払いながら立ち上がった。
どんな時でも状況を把握するように教えられていたのだろう。
だが、この場において立ち上がると言う行為は全く推奨されていなかった。
「ゲヒヒ……」
青年は金属の薄い板を振動させて作ったような声が聞こえて振り返った。
「ヒッ!」
そこに立っていたのはぼろぼろの腰巻だけをまとった、ほとんど裸の筋骨隆々な男だった。
もやしを十本束ねた程度の青年とは比べ物にならない。
しかし、青年はその男の筋肉に目を奪われたわけではなかった。
その男は気持ちが悪いことにその男は全身が銀色であった。
彼の皮膚は光をあちこちに反射していた。
「シネ!」
銀色の筋肉男は背後に隠していた短い槍を取り出すと青年の肩めがけて突き出した。
「うわぁ!」
青年の足は後ろへ進み、青年の腕は敵の攻撃を受け止めようと動き、青年の頭は仰け反っていた。
それらすべてが混ざり合って青年はバランスを崩し、尻から倒れ込んだ。
目を閉じ現実から逃避した青年の前で、強烈な金属のぶつかる音が響く。
「大丈夫か、君!」
銀色の筋肉男の槍は濃い赤茶色の軍服をまとった三人の男たちがそれぞれの剣を引き抜き受け止めていた。
人数差があるにも関わらず、軍服の男たちは真っ赤な顔をして銀色の筋肉男の槍を受け止めていた。
青年の後ろに回って軍人は青年の両脇を背後から抱えると、青年を立たせる。
「走れるか?」
「はっ……はい……!」
青年は大きく鳴り響く心臓、乱れる呼吸を感じていた。
どうにかして落ち着いて行動したいのに、彼の体は彼の意志に反して震えることをやめなかった。
「ジャマダ」
銀色の筋肉男は軍人たちに受け止められてしまった槍を突然持ち上げる。
必死の力で槍を受け止めていた軍人たちがふわりと体制を崩す。
銀色の筋肉男は槍を大きく一振りする。
一瞬。
示し合わせたかの様に誰も動かない時間が訪れる。
「ああ……、逃げろ……」
「やべ……」
「くそが……」
銀色の筋肉男と対峙していた三人の軍人の首が水を入れた皮袋が落ちる様に落下した。
「ジェス! ヒューリ! アウル!」
青年を支えていた男が叫ぶ。
だが、もうその名前を持った人間が返事をすることはない。
地面にひっくり返ってしまった顔に見える、その開いた口は後ろにいた軍人と青年を心配するかの様に何かを叫ぼうとしたまま、永遠に固まってしまった。
銀色の筋肉男は地面に崩れ落ちた人間たちを見下ろすと、持っていた槍をその体に突き刺す。
「もう死んでいるのに……!」
青年は目をそらしたかった。
それでも彼は目の前で行われている狂気を自分の目に焼き付けてしまった。
銀色の筋肉男はにやりと笑うと軍人と青年の方を向いた。
青年はその眼に映る自分の姿がただの肉塊であることを実感していた。
「くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ! 死体すらも弄びやがって!
君、先に逃げてくれ! ジェス、ヒューリ、アウルの仇、俺が討つ!」
生き残った軍人は自身も腰に刺していた剣を引き抜き銀色の筋肉男に対峙する。
青年はその姿を後ろから眺めることしかできなかった。
三人がかりで抑えるのがやっとの相手。
それを一人で抑え込めるわけもなかった。
青年は軍人と一緒に逃げるべきだと感じた。
「待ってくれ……!」
しかし、青年が立ち上がるよりも先に、銀色の筋肉男は銀色の腕を振りかぶると軍人の首めがけて槍を振り抜こうとした。
間に合わない!
青年はそれでも、軍人を後ろへ引っ張ろうとした。
その時。
銀色の筋肉男の背後に巨大な口が現れた。
それはまるで虚空の入口のようだった。
巨大な闇の円が銀色の筋肉男もろとも軍人に覆いかぶさる。
「うわっ!」
あっという間に銀色の筋肉男と軍人を飲み込んでしまった。
青年は上げかけた手を止めて、目の前の光景を見つめる。
「なんだよこれ……。クジラ……? こいつも銀色だ……!」
眼に映る顔だけでその口が普通の井戸の何倍もの大きさであることがわかる。
皮膚のブヨブヨを妙にリアルなぬらりと怪しく輝く銀色が青年の顔に光を反射させる。
そして、青年は目の前の不思議な光景に絶句してしまう。
「海の中……?」
クジラはさっきまで青年が寝転んでいたところにいた。
そこは砂浜の上のはずだった。
だが、事実、彼の目の前でクジラは海の中にいた。
海が砂浜の上に迫り出していた。
ちょうどクジラをかたどるように。
しばらくじっとしていたクジラの頭が青年の方を向く。
頭を青年のほうに向けた時、クジラが通過した空間が『海』になっていた。
海は海面からまるで蛇が敵を威嚇するために首を持ち上げるかのように、クジラを追いかけぐねりと空中へ伸び上がっていた。
「あいつが通ったところに海がっ……! こいつ、海を広げてるのか!」
クジラの狙いは海を広げるだけではない。
次は自分の番だ。
青年はバネが元に戻る様に跳ね起きると、海岸から離れる方向へ走り出した。
後方で巨大な辞書を閉じるかの様な音が響き、すぐに大波が岩に打ち付けられたかの様な轟音が鳴り響く。
青年の肺はいつもの倍以上の空気を取り込み、青年の足はいつもの倍以上の回転数で前方へ進む力を生み出していた。
それでも、砂浜の細かい粒子は青年の足にまとわりつき、彼の足を後ろへ後ろへと引っ張る。
青年はどうにか足を回し、前に前にと進もうとする。
青年の必死の逃避行もむなしく徐々に、彼の体へ徐々に後方の轟音が近づいていた。
「ハァハァ。やばいっ……! 死ぬっ!」
青年の前に軍人の集団が見えた。
あちこちに銀色の輝きを放つ銀色の筋肉男がいた。
それぞれが棍棒や剣などを持っており、一撃でまとわりつく軍人を一人また一人と絶命させている。
軍人は何人も束になって銀色の筋肉男を取り囲みようやく一体倒せるかどうかといったところだった。
青年の選択肢は二つだった。
目の前の集団に飛び込み被害を分散させ助かる確率を上げるか、誰もいない方へ走り、自分一人がクジラの餌食になるか。
「畜生……! ハァ! こっちに行く選択肢はないよな!」
青年は進む道を変えた。
誰もいない方へ。
まだ戦場になっていない場所へ。
青年は少しだけ期待した。
クジラが人数の多い方へ方向転換することを。
だが、その程度の小さく淡い期待が叶うならば世界は平和なのだ。
ガァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!
叫び声の音圧だけで青年の全身が萎縮してしまうほどの力を持っていた。
青年は、その一瞬だけ、耳に意識を集中させてしまった。
目を開いているのに何も見ていなかった。
青年の足に硬いものが触れる。
「いったっ!」
裸足の青年の足はその硬いものを蹴飛ばすだけの力を持っていなかった。
青年は頭から砂の中に飛び込んでしまうと、ゴロゴロと転がり仰向けで寝そべる。
「ハァハァ!」
青年は立ち上がろうとしてその動きを止める。
海はもう目の前にあった。
人の頭ほどはあろうかと言う巨大なクジラの目が青年を見つめていた。
青年は自分自身が妙に落ち着いていることに気がついた。
「ハァハァ……! もう、ここまでか……」
青年はクジラも銀色に輝いていることに気がついた。
クジラの巨大で柔らかな皮膚に直接銀のメッキを施したかのように輝く皮膚は美しくもあり、気持ち悪くもあった。
「こいつも、あの銀色の筋肉男と同じか……」
青年の目の前に真っ暗な虚空が広がる。
虚空がせまる直前、青年は海の中に入った。
クジラのテリトリー内。
海は冷たく青年の体を包み込み、彼の全身の感覚を失わせる。
目に入った最後の輝きはクジラの皮膚の輝きだった。
「くそっ……!」
青年は全身の力を抜いた。
どうせ死ぬのであれば痛み無く死にたかった。
このクジラの口の中がどうなっているか分からなかったが、かみ砕かれて死ぬよりは溶かされて死にたい。
「うおおおおお! 間に合ったぜ!」
たくさんの筋が入った肉が一刀で断たれる。
鋭い鎌で稲を刈ったかのような気持ちのいい音が鳴った。
青年を包んでいた海が消える。
青年は空中で投げ出され海とともに砂浜に落ちた。
「ゲホッ! ゲッホゲッホ!」
「おお~。青年、いい顔してるじゃないか! 間に合ってよかった」
青年の顔を覗き込んだ女は優しそうな表情を浮かべていた。
勝気に切れる青い目に高い鼻。
左目の下から左耳にかけて切り傷が残っているのが彼女の印象を荒っぽくする。
それでも赤く長い髪は光を受けてキラキラと輝いていた。
青年は一瞬、女の意外に澄んだ瞳に目を奪われる。
全身にフィットするように作られたのであろう、シャツとズボンは黒を基調に所々赤いラインが入っており、彼女の印象をより強く見せつけた。
ズボンの腰にひざ丈のスカートが付いており、それだけが彼女の女性らしさを語っていた。
何よりも圧巻であったのは、その右手に握られ肩に担がれた巨大な刀だった。
本人の身長よりも半分ほど長い刀に、クジラの血液がべっとりとついていた。
「おぉい! セシィアぁ! こっちこっちぃ!」
青年を覗き込んでいたセシィアと呼ばれる女は場違いに高くゆっくりとした話し方をしている女の方を振り返る。
セシィアと同じような黒を基調としたシャツとズボンとスカート、彼女の服にも赤いラインが入っていた。
彼女が飛び跳ねるたびに真っ白なショートボブの髪が揺れる。
青年は飛び跳ねている女の左目がおかしいことに気が付いた。
目が白いはずの部分まで全部真っ黒だった。
こんな戦場でもない限り、吸い込まれてしまいそうなぞっとするほどの純粋な黒だった。
「ウェイカ! ちょっと待ってろ!」
ウェイカと呼ばれた女の前には、軍人があれほど苦労して倒していた銀色の筋肉男が三体、倒れ伏していた。
ウェイカの右手には彼女の身長くらいの薙刀が握られていた。
セシィアは青年の頭をポンポンと叩くと、立ち上がる。
同時に振り返ると肩に担いでいた巨大な黒刀を一気に振り下ろした。
風切り音だけで青年は自分までぶった切られたんじゃないかと錯覚してしまった。
刀身にべっとりとついてた血が吹き飛び、砂浜に直線を描く。
「うわっ!」
青年の顔にセシィアの刀身についていた液体が飛び散る。
青年はほのかに温かいその液体を慌てて拭き取る。
手のひらを見ると、その液体は青年が思っていた液体とは異なり透明だった。
さらに、手から不思議な香りが漂っていた。
「これは……お酒……?」
青年は手のひらをなめようと顔を近づける。
しかし、それだけで彼は頭がクラりと揺れた。
息が苦しくなるような気がして、青年は手のひらから顔を遠ざける。
鼻に残るその臭いを懸命に追い出そうと、青年は深く深呼吸した。
「なぁ、お前、名前は?」
あたふたと息を繰り返している青年に女は振り返ると言う。
「名前?」
青年はこの砂浜に来てから初めて自分の事を考えた。
だが、頭の中をどれだけ遡ってもそこにあるのは真白な空間だけだった。
何もない。
空っぽだとわかっているタンスの中を一生懸命開けたり閉めたりしているような感覚だった。
青年の目にとまどいの色が浮かぶ。
「わからない。何も……」
「へぇ。記憶ないのか、お前」
再度、セシィアは青年の顔を覗き込む。
そして、彼女はパチンと指を鳴らすと青年ににやりと笑いかけると言った。
「んじゃ、ま、ちょうどいいや。
私、今、十九歳ってことになってるし、お前、今日からナィンって名乗れ」
「はぁ?」
青年の困惑した表情を無視して女はさらに続ける。
「うーん。うふふふふふふ。そうだ。いいこと思いついちゃった。
記憶ないならお前、行くとこないんだろ?
この戦場にいるあいつら全員ぶっ殺したら私の弟になれ!」
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ?」
戦場に響いた青年の声が目の前でニマニマ笑っている女に届くことはなかった。
読んでいただきありがとうございます!
仕事もあるのでとびとびになりますが投稿していきたいと思います!
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