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失墜力学

作者: 崇原士郎

 はじめに

 

 私の手元に届いた一冊の大学ノートは、妙な威圧感(いあつかん)を放っていた。多少汚れてはいるけれど、ぼろと呼ぶほどの損傷はない。見た目はありきたりなノートだ。だというのに、いざ向かい合ってみると薄ら寒いものを感じて、最初の一文を読む前から読む気が失せる。オカルトなどを取り扱う私にとっては願ったり叶ったりの好材料なのだろうが、とにかく読みたくない。本能による警告(けいこく)というやつだろうか。

 この不吉なノートは私の知人が送ってきてくれたものだ。記事になるんじゃないかと気を利かせてくれたのだと思いたい。

 知人の話ではノートの持ち主は消息不明で、生死すら明らかではないらしい。持ち主とはどういう関係だったのか(たず)ねたが、言葉を(にご)すばかりで返答は得られなかった。いい思い出がないことだけは表情から()(はか)れたが。

 ノートの表紙には何かタイトルらしき字が三文字書かれていた。それはよく言えば達筆だった。いや、率直に言おう。とてつもない癖字(くせじ)だ。恐らく『研究誌(けんきゅうし)』と書いたのであろうタイトルを前にして、私の手は一層重くなった。


 経過報告(けいかほうこく)、一

 

 僕は偉大(いだい)な発見をした。()しむらくはこれを証明する術を持っていないということだろう。それは仕方のないことだ。なにしろ僕は学者などではないのだから。正直に言うと自分でもなぜ発見できたのか訳が分からない。

 営業で外回りをしていたら突然、(ひらめ)いた。雷に打たれたかのような凄まじい衝撃があったことは決して忘れられない。ふざけた話だと思うだろう。どっこい僕は正気だったし、今も真剣だ。最初はぎっくり腰にでもなったか、などと見当違いな考えを抱き、ひとまず会社を早退しよう、とアホ丸出しの結論に至った。それから日が経つにつれて閃きは確信へと変わっていった。

 では、僕は何を発見したのか。

 物理学や化学もしくは数学に精通(せいつう)している人間であれば詳しく解説できたのだろうが、生憎(あいにく)と僕は文系だ。なので仮称(かしょう)として「失墜力学(しっついりきがく)」とでも名付けておく。何が失墜するというのか。驚くなかれ。「人間の(たましい)」だ。ニュートンは地球上の物体が万有引力によって、地球の中心へと引き寄せられていると説いた。僕の発見はこれと通ずるものがある。だが同一ではない。失墜力学は引き寄せるだけに(あら)ず。読んで字の如く、人間の本質を失墜させるものだ。「地獄に落ちる」という手垢(てあか)(まみ)れたフレーズがあるが、それが近い表現ではないかと僕は(とら)えている。貴賤(きせん)を問わず、人間をこの世の地獄に(たた)き落す法則が存在する事実を僕は見つけ出した。


 経過報告、二

 

 衝撃的な発見に至ってから数日ほど経った。僕は周囲の人間に対しては変わらず接している。上司は訳のわからない説教ばかりで、取引先は身勝手な要求を続けてきた。同僚も先輩も、()きもせずに愚痴(ぐち)をこぼす。少し前まで僕もその輪に加わっていたが、今は違う。見下したりはすまい、と自分を(いまし)めてはいるがどうしても考えてしまう。僕はお前たちとは違うと声に出したいのを懸命(けんめい)にこらえる日々だった。

 知られまいとする心と、知ってほしいという心で板挟みになる。歓喜と苦痛がくるくると入れ替わり立ち替わる。

 察しのいい人は分かるのだろうか。ある人は僕の顔を少し(なが)めてこう言った。

「気のせいかな。君、変わったね」

 指摘(してき)された時の感情は興奮なのか。とにかく()()ねたくなった。

「そうですかね」

 教えたかった。僕が変わった理由を詳細(しょうさい)に伝えてやりたかった。しかし、それは断念(だんねん)せざるを得なかった。きっと理解されることはないのだという悲しみが、胸の中にこびりついて(はな)れなかったからだ。


 経過報告、三


 失墜力学に関連するかは不明だが、奇妙(きみょう)な夢をよくみる。上下左右、隙間なく石で埋め尽くされた空間に(たたずむ)む夢だ。光などまったく存在しない、牢獄(ろうごく)よりも閉塞的(へいそくてき)な場所だった。何か起きるのかと思ったが、何も起きない。ただ突っ立っているうちに目が覚めることの繰り返しだ。この夢が暗示するものについては保留にしておこう。

 もう一つ、これは失墜力学が(から)んでいるとは思うのだが、僕の周りで変化があった。

 同じ顔の人をよく見かけるようになった。電車の真向かいに座った人と、取引先の清掃員が同じ人だった。それくらいなら僕も気にしないが、その顔をいく先々で目にし続けると流石に勘付く。他人の空似(そらに)なのか。もしかしたら、僕の発見が誰かにとっては、都合が悪いものなのかもしれない。あるいは、どこかの研究機関が僕の監視をしているのか。

 いや、いくらなんでも荒唐無稽(こうとうむけい)だ。僕は『失墜力学』について口外などしていない。知られようがない。

 そうは思っていても不安は(ぬぐ)えない。他人に対する不信感が、(とげ)のように鋭く(とが)っていく。


 経過報告、四

 

 やってしまった。なんという失態(しったい)か。僕は失墜力学を人に用いてしまった。

 上司の小言があまりにも無意味で、しつこかった。

「あの、仕事に戻っても……」

 おずおずと尋ねたら、それがかんに障ったのだろう。語気を荒げて、烈火の如く怒り狂った。

「お前のためを思って言ってやっているのに、なんて失礼なやつだ」

 本当に僕のことを思っているのなら、僕の時間を奪わないで欲しいものだ。おまけに会社の利益云々(うんぬん)にも言及していたが、小言で会社の利益など産まれることなどないと理解していなかったらしい。三十分くらい無駄にした。

 その苛立(いらだ)ちから、思わず失墜力学を実行してしまった。

 失墜力学の原理は単純だ。

 ペンの位置を変える。置かれている携帯電話をひっくり返しておく。植木に水をやっておく。

 (はた)から見れば気にも留めない行動の一つ一つが、やがて大きな力となって働きかける。僕の行動に誤りはなかった。力学は正しく作用し、現実となった。

 上司は、社内で女性社員に乱暴したとして警察に逮捕された。もとから問題のある人物ではあったが、保身を最優先にするので無謀な行動に走るような間抜けではなかった筈だった。それが、後先考えずに婦女暴行に及んだのだ。他の社員たちも、上司が犯罪を起こしたことには驚かなかったが、いまいち()に落ちないといった口振りをしていた。

 僕は、僕の失墜力学の強大さを再認識した。それと同じくらいの恐怖を抱いた。強大であればあるほど、敵は多くなる。力学に誤りがないことを証明してしまったがために、僕は自分の首を()めてしまった。

 失墜力学の存在が明らかになった以上、何者かが僕へと辿り着くだろう。

 いったいどうすればいいのか。


 経過報告、五


 外との関わりを絶とう。結論は簡潔(かんけつ)なものだ。会社に辞職願を出して、人と接する時間を最低限にする。

 電話にも出ず、呼び鈴がなっても居留守を決め込む。

 手元にはワインの(びん)を用意して、ひたすら研究誌と睨み合う。

 僕には失墜力学という罪深い財産がある。これを、理解し(おさ)める義務が僕にはあるのだ。


 経過報告、六


 何日経った? 何回太陽が登って沈んだ? わからない。

 少なくとも今は夜らしい。カーテンの隙間から見える外の世界は真っ暗だ。

 失墜力学については結論がでない。

 関係ないが夢の様相(ようそう)は変わった。あの石の牢獄に僕以外の客が現れた。人かどうか怪しい姿だった。顔がない、ぼろ切れみたいな黒幕に身を包んだそれは僕と同じように突っ立っているだけだった。顔こそなかったと思うが、頭はあった。タワシだ。出来の悪いモジャモジャのタワシみたいな頭をしていた。

 怖くはなかった。むしろ、不思議な親近感があった。僕にはそいつが無二の理解者のように感じられた。

 腹が減ったので何か買ってこよう。

 追記

 まずい。()ぎ付けられた。コンビニから帰ってきたら、男の二人組が僕のアパートを監視していた。道路から二階にある僕の部屋を見ながら、ぶつぶつと言い合っていたのが見えた。

 二人組は十分もしないうちに立ち去った。

 逃げなければ。でもどこへ?


 経過報告、七


 葛藤(かっとう)の末に、僕は()けに出ることにした。着の身着のまま旅をする。下手を打てばどうなるか想像すらできないが、もう策らしい策もない。

 まずは久方ぶりに風呂に入った。丹念(たんねん)に全身を洗って、(ひげ)も剃った。伸びきった髪は少し切る。薄汚い格好は人目につきやすい。着なれた部屋着から、無難(ぶなん)な外行きの服へと着替える。あまりにも長い間着替えなかったからか、違和感が全身にあった。僕がこの部屋にいた痕跡(こんせき)を可能な限り消すべく、徹底的に掃除もしておく。

 一通り荷物をまとめると、意を決して部屋を後にした。研究誌は(かばん)の中に入れておく。部屋のものがどうなろうと構わないが、これだけは失うわけにはいかない。

 行き先は決めていない。この町から少しでも遠くへ行こうと思う。


 経過報告、八


 最悪の事態になりつつある。追われている。町を離れてから一週間ほど経つが、誰かが僕を尾行している。接触こそないものの近いうちに動きはあるだろう。どこに行っても視線を感じる。嘘じゃない。

 命は惜しくない。

 ただ僕の命と共に、僕の失墜力学が永遠に葬られることが()えられない。

 どうにかして、この窮地(きゅうち)を乗り越えなくては。そうは言っても逃げる以外の手立てがない。警察は当てにならないし、頼りになりそうな人間なんてものも知らない。完全に手詰まりだ。

 もう逃げられない。なんて呆気(あっけ)ない逃亡劇か。僕は、僕を追い立てるものの正体を知らぬまま抹殺されるのか。まだだ。こんなところでは終われない。終わってたまるか。


 経過報告、九


 まだやれる。そう信じてこの時まで足掻(あが)いてきたが、限界が近付いている。

 決定的だったのは不気味な男に遭遇(そうぐう)したことだ。夜、こそこそと逃げ回っている最中に、先回りでもしていたのか突然目の前に現れた。

 目深(まぶか)にフードを(かぶ)っていて、どんな顔をしていたのかは分からなかった。けれどその瞳は人間のそれじゃなかった。漫画やアニメだと赤い目をした奴は珍しくないが、そいつの目は赤というよりも赤銅(しゃくどう)だった。焼けた赤銅だ。見ているこちらが不安になるような、おぞましい輝きを放っていた。

 さらに男は腰に()げていた鞄から妙な棒きれを出したのだが、それは瞬きのうちに分厚(ぶあつ)(なた)へと変わった。なんの技術だ。その鉈はどうなっている。そんな疑問が次々と浮かんできたが、目の前の男が自分を殺そうとしている事実によって疑問は恐怖で塗り潰された。

 僕は息をするのも忘れ、そいつと(にら)み合っていた。なぜか助けを呼ぼう、声を上げようという発想が出てこなかった。その時の僕は死を覚悟していたのだろう。しかし、そいつは何もしなかった。奇怪な鉈が、現れた時と同じように一瞬で棒きれに戻った。僕に対する興味を失くしたのか、男は(きびす)を返して夜道に消えた。

 助かった。そう思った直後に、なぜだ、という気持ちが溢れ出て来た。体感したことのない屈辱が襲ってきたのだ。死にたいのではない。もう生きていけないと知らしめられた。


 経過報告、十


 恥辱(ちじょく)蹂躙(じゅうりん)されることはや数日が過ぎた。視線はもう感じられない。僕には、何の価値もなくなったのだろう。あれほど固執していた、失墜力学なる方程式も色褪(いろあ)せて見える。僕にとって唯一の財産であることに違いはないのだが、どうして後生大事に守っていたのかが分からなくなってしまった。この研究誌を読み返しても、本当に僕が記したのかすら怪しいと思えてくる。

 どこで間違えたのか。

 失墜力学は僕の手に余るものだった。それが、僕の出せる結論だ。

 ああ、もう一つ分からないものがあった。夢に出て来たあのタワシ頭は、結局なんだったのだろうか。


 おわりに


 ノートはここで終わっている。途中、解読できない箇所(かしょ)がいくつかあって、私なりに整理した。それでも大筋はこれで間違いないと思う。

 この『研究誌』の筆者は論理では説明できない『失墜力学』という代物に苦しめられた。過程はどうあれ「手に余る」と結論付けたのならばそうなのだろう。実際、かなり振り回されている。上司を(おとしい)れるほどの効果があって、術者(じゅつしゃ)本人が殺されかけるくらいには。しかし、私には、この失墜力学そのものは複雑ではないように思える。要は操作可能な「バタフライ・エフェクト(ブラジルのチョウが羽ばたくと、アメリカのテキサスで竜巻が起こる現象)」と考えればいい。強大ではあるし、悪用しようと思えばいくらでも出来そうだがしなかったのは術者の性格故か。

 (こく)なことを言うが、私は彼のその後に興味はない。バタフライ・エフェクト(まが)いの失墜力学に取り()かれようが知ったことではない。『タワシ頭』に呪われようが、『不気味な男』に殺されようがどっちでもいい。むしろその『タワシ頭』と『不気味な男』について知ることができたのが私にとって予期せぬ収穫だ。

 私はその二つについて少々知識がある。タワシ頭は恐らく『十中(じっちゅう)』のことだろう。こいつに関しては(ろく)な情報がない。名前の由来が分からないなどの情報が少ないという意味合いもあるが、この十中と遭遇(そうぐう)した人間は例外なく破滅(はめつ)している。私は何度か十中にまつわる話を聞いているし、興味もある。だが遭遇したことはないし、したいとも思わない。同業者の間でも不吉として、扱いたがらない存在だ。不運なことに『研究誌』の筆者は夢で十中と邂逅(かいこう)してしまったようだ。ただ、夢の中に現れたという事例は初耳だ。かなり特殊なパターンに思える。

 十中についても興味深いが、私の本命はどちらかというと『不気味な男』の方だ。こいつは間違いなく屍鬼(しき)だ。通り名ではグールとも呼ばれている。赤い瞳に鉈という組み合わせでピンときた。

 私たちの界隈(かいわい)ではこいつの話題で持ちきりだ。(いわ)く、伝説の殺し屋である。曰く、国家に属する最高の工作員である。曰く、人を()い続ける不死身の怪物である。どれも憶測(おくそく)の域を出ていない。目撃したという人間は結構いるのだが、正面から相対したという例はごく(わず)かだ。その点から言うと、直接会ってしかも生還(せいかん)したという彼の経験は特筆に値する。屍鬼には様々な謎がついて回っている。私はジャーナリズムなどという青臭い信念を抱いてはいない。それでも屍鬼という存在には心()かれるものがある。奴については命ある限り、追及していく所存だ。

 さて、『研究誌』の筆者についてどうでもいいと書き付けたが、思うところがないわけではない。彼の人生を評価する資格が私にあるかどうかは、このさい置いておこう。私には彼の生涯がどうしようもなく理不尽なものに思えてくる。降って湧いたものに人生を狂わされたのだから。それに熱狂したまま往生できたのなら救いはあったのだろうが、最後の最後に情熱すら消えてしまっては目もあてられまい。

 失墜力学という妄執(もうしゅう)を振り払い、地の底から這いあがっているのだろうか。私にはそれを知る術はない。

(了)

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