序章―勝利の味―
あとワンアウト。あと一つアウトを取れば、それで試合が終わる。
ふとスコアボードに目を移す。
5-3と書かれたボード。俺たちは2点のリードを保ったまま最終回を迎え、ツーアウトまで取ったところだ。ランナーはいない。
――勝てる。勝てるぞ!
そう思うと柄にもなくボールを握る手が震えた。緊張とも武者震いともつかないけれど、俺の胸は高鳴っていた。
俺はマウンドに立って足元を整える。
そしてピッチングのモーションに入る。
「ピッチャー、振りかぶって」
そんな実況みたいな声が心のなかで響く。この瞬間が好きだ。
この瞬間は完全に一人になれる。野球というチームプレーのなかで、この瞬間だけは、自分のタイミングで、自分の間で、選手や観客すべてを引き付け、グラウンドのなかで俺だけが注目される。この感じに俺は恍惚とするような、気持ちよさを感じる。
まるで自分がプロ野球選手になったかのように、大スターになったかのように思える。こうなると緊張だとかそんなのは微塵もない。ただ、キャッチャーに向かって、全力のボールを放るだけだ。
――俺の球を打てるなら打ってみろ。
「ピッチャー第一球、投げました!」
そんな実況を心のなかに響かせながら、俺の指先から放たれたボールはまっすぐとキャッチャーのミットのなかへ吸い込まれ……
――カーン!
甲高い音が響いて我に返る。
(打たれた!)
はっとしてボールを目で追う。すると、なんてことはないピッチャーフライだ。
俺はグラブを構える。
この瞬間が一番嫌いだ。俺は守備が得意じゃない。
速い球が飛んでくる分にはまだ良い。ピッチャー返しは、取れなくても仕方ないし、取れたらすげぇってなる。でも、ピッチャーフライは別だ。取れて当たり前、取れなかったらふざけるな、という話になる。
そんな弱気でいると、案の定ボールはグラブの縁に弾かれて地面に転がった。慌てて拾ってファーストに投げたけれど、ランナーは既に一塁に到着している。
「ごめんごめん」
俺は苦笑いしながら声をかける。
そうして再びマウンドに立つ。今度はランナーがいるから、振りかぶって投げられない。セットポジションといって、ランナーを警戒する構えから投げなくてはいけない。
俺はセットから全力でボールを投げる。
三球投げて、ツーストライク、ワンボール。ピッチャーとしては良いカウントだ。
俺はセットポジションで構えて、ボールの握りをストレートから少しずらす。そうして全力で投げると、バッターの手元で少しだけ軌道がスライダーっぽく変化する。小学生の野球で変化球は禁止だが、罰則があるわけでもないし、審判にバレなければ注意もされない。これは俺が思い付いた、バレない変化球だ。もっとも、それはカットボールという変化球だとあとになってから知ったのだが。
俺は、キャッチャーめがけて投げる。相手のバッターも全力でバットを振る。ボールはバットには当たったものの、変化して軌道がずれたボールはバットの芯に当たらず、ボテボテのファーストゴロになった。
ファーストはボールを取って、余裕をもってベースを踏んだ。
「ゲームセット!」
審判が言うとともに、俺はベンチに戻りつつ、
「よっしゃぁぁああ!!!」
と俺は叫んでガッツポーズを上げた。
「勝った!勝ったぞおぉ!!」
そんな俺を監督が諌める。
「おい、隆久、勝って当たり前だ」
「はい…」
辺りを見回す。喜んでるのは俺だけだ。まあ、たしかにそれもそうだろう。
「相手は五年生だぞ。しかも、チーム自体格下だ。今日の試合はリーグ戦の初戦なんだからこんなんで喜んでどうする」
そう、勝って当たり前の試合ではある。でも、俺はめちゃめちゃ嬉しかった。いままでないほど感動していた。
――これが!これが試合で勝つってことなのか!!
小学校一年生から野球のチームに入っていたが、六年生にして、俺は今日、初めて試合に勝った。
今日この日が、俺が勝利の味を知った日だった。