妹の結婚 上
馬車が走り去った後も、しばらくの間、家の前で立ち尽くしていた。
砂ぼこりすら見えなくなった、はるか道の先。
その一点を、ただただ見据えたまま。
何人かに声をかけられたが、結局は無視してしまった。
そのうち、誰からも気にされることはなくなった。
つい今ほど、妹のミズクが家から出て行った。
十六歳。早いか遅いかで言えば、だいぶ出遅れたほうだろう。
なにせ十五を過ぎて嫁に行かないと、なんやかんやと詮索されるのが今の世間様だから。
それでもまだ今なら、問題にはならない。
よくよく選んだのねと、近所の奥さまがたにつつかれるだけで済む。
時として容赦なく他人をくさす彼女たちでも、それほど腰の入ったパンチを打てるネタではない。
口元で微笑みながら「お兄さんは、よっぽど妹さんを手放したくなかったのかしら」というところ。
あの妹にだって、それくらいの嫌味なら我慢できるだろう。
ただまあ――。
そうやって人にからかわれる内容もあながち外れてはいなくて。
ミズクの嫁ぎ先選びには割と手間がかかった。
なにせ、こちらの家には両親がいない。そしてそういう話の半数以上は、親同士の付き合いで決まったりするものだから、その点ではひとつ不利だった。
とはいえ、じゃあ仕方ないなと諦めるわけにもいかず。
兄である俺は、両親の代わりに妹の相手を探してやらねばならない。
……ろくに自分の相手も見つかっていないというのに。
しかし、十八歳の若輩者に頼れる伝手はあんまりない。
どうしたって人付き合いの積み立てが足りず、そこらのおばさまよりも世間が狭い。
かと言って世話好きなあの人たちに妹の相手を探してもらうと、失礼ながら大抵ろくでもない――嫁が来るのを働き手が増えるとばかりに喜ぶような――家の息子を連れてくる。
もちろん、向こうには向こうなりに、見えている現実というものがあるのだろう。
ただそれにしても、若くして両親を亡くした不憫な兄妹が相手なのだ。
もう少しくらいは手加減というか、夢を見せてくれてもとは思わなくもない。
となれば、最後には自分で探すしかなかった。
兄としての願望を素直に言えば、ミズクには幸せになってもらいたかった。
あまり過保護なことを言ってもしょうがないが、それでも苦労がないに越したことはない。
『稼ぎの少ない家に嫁いで朝から晩まで働かされ、夫は酒浸り、金を要求されては殴られ、義母には無闇やたらに詰られ、義父からは手を出されそうになる物語』
は、言うほど嫌いではないけれど、とはいえそれは『物語』としてこそ楽しめるお話であるはずだ。
なんといっても、最後に救いがあると信じられなければ、人生なんてやっていられない。
と、そんな兄としての確固たる信念でもって、ここしばらく妹の婿探しを頑張っていたのだが、その努力が最高の形で実ったのは先月の初め。ちょうど桜が散り始めた時期のこと。
その縁を繋いでくれたのは、去年から勤め始めた職場先の上司の一人。
イェルトさんから仕事以外のことで話しかけられたのは、その時が初めてだった。
「妹さんの相手は見つかった?」
「え? ああ」
ある日の、職場の昼休み。
その時は『なんでこの一回り年上の女上司が妹のことを?』と、すぐには反応ができなかった。
ただ、職場の誰かに聞いたのかもと思い直し、
「いえまだ、ちょっと。やっぱり両親がいないのが、難しいみたいで」
「ああ、それは……ねぇ。家同士のことだから」
「だからまあ、時間がかかるのは仕方ないです」
答えると、イェルトさんはうなずいて同意してくれた。
その表情を見る限りでは、ただの興味本位なわけでもない様子。
あくまで親切心から――それは近所の奥さまがたで言うところの、覗き趣味の色とは少しニュアンスが異なった。
また正直、あんまりこういう話は好きじゃなさそうだと(この上司は公私をきっちり分ける方らしかったから)勝手に思っていたが、やっぱりイェルトさんだって周りに気を遣わないわけないんだよなー、とこちらも一人納得する。
と、このちょっと打ち解けた気がしたくらいで満足しておけばいいのに。
俺もひとり嬉しくなって、
「いや、何かの拍子に良い縁が見つかってくれたらと思ってるんですが。もしあれだったら、イェルトさんは誰か良い人、ご存じないですか?」
その整った目元を見つめながら、いつもの台詞を言ってしまった後のこと。
『あんなに美人さんなのになー。どうしてだろうな?』
(……あ)
俺は職場の同僚から聞いていた噂話を思い出して、一気に顔を青くする。
今、この瞬間。
俺はかなり無造作に、他人のデリケートな部分に触れてしまったのではないかと。
なぜなら、このイェルトさんもまた――その年齢まで結婚をしていない人のはずだった。
(……なんで、よりにもよって)
そういう肝心な情報が、この大事な時に頭から抜け落ちていたのだろう。
示された親切の意味合いを、また言葉の返し方をまるで間違えてしまったようだ。
気がつけば冷や汗が一筋、つうと背中をつたっている。
世の苦難の始まりは、大抵こういう小さなきっかけから始まるものだった。
例えば、妙齢の女性に根に持たれた場合。
それが最悪、社会的な死につながりかねないとは若輩者の俺だって知っているのだ。
ましてその相手が職場の上司とあっては――。
俺は明日から、まともに仕事ができるのだろうか。
そんなことを考えながら、俺はおそるおそるイェルトさんの顔色をうかがった。
(ん?)
しかしこちらの予想に反して、イェルトさんの表情にまったく怒った様子はない。
その顔には優しい微笑みが浮かんだまま、いやそれどころか、彼女はこちらの肩に手を置いて顔を寄せ、
「実はそのことで、話があるんだけど――」
耳元で小さく、秘密をささやくような声で言ったのだ。
その時の俺はいったい何の話なのかよくわからず、ただただぽかんとしていたと思う。
だが、そこからあっという間に話は進み、一ヶ月も経たないうちに妹の結婚話は本決まりになった。
イェルトさんに紹介された相手は、隣町で商店を営む一家の一人息子。年齢は妹の一つ上。
当然、俺も何度か直接会って話をしてみたが、妹の親代わりとして、その人柄や態度にはこの上のないほどに安心できた。
見目もよく、義理の兄になる男への扱いも丁重。まさしく誠意の塊のような人物である。
しかも商人の見本のように頭の回転は早い。
こちらのちょっとした意思や感情も汲み取ってくれる。
こうなるともはや、妹の結婚相手として申し分ないどころか、身内のひいき目にも妹では釣り合いが取れていない気がする。
「他にいくらでも相手を探せるでしょうに、いったいどうして?」
やっぱり余計なこととは思いつつ、それでも気になってしまい、最後の確認のつもりで相手の両親に尋ねてみると、
「いや、実は……。先日、寸前まで決まった縁談が相手の急な病気で断られまして……」
困ったような顔をした父親から、とても言いにくそうに伝えられてしまう。
しかし、そのおかげで俺も『なるほど、世間体の問題か』と納得できた。
女性ほどではないにしろ、男に関しても『なるべく早く結婚したほうが良い』という風潮がこの時代、確実に存在したからだ。
そしてそのように男女の結婚が扱われる現実からすると。
ある程度進んだ結婚話が駄目になるという忌むべき事態は、たとえ理由がどうであれ『不吉』として社会的な評判を落としかねない。
例えば商家であれば『我が身の不幸を売る』などと、目に見えて売上が下がる事態も考えられるだろう――まったく門外漢の俺からすると、ちょっと怖がりすぎな気もするが。
とにかくこの家では、そんな火急の要件に対応するため、新たな結婚相手を方々に手を広げて探していたようだ。
そんな中で、ちょうどうちの妹が面倒の少ない相手として見つかったらしい。
ちなみに件のイェルトさんは、この家の親戚筋に当たる人なのだそうだ。
……まあ、その舞台裏の事情に関して。
妹の人生の一大事が、相手方にとっては急ごしらえの、間に合わせの代物かもしれないことに、唯一の身内として思うところがないわけではない。
ただ、こちらの疑問にきちんと内情を明かしてくれるこの両親の態度はどこまでも真摯であったし、大した身の上もない俺や妹に対して下手なわだかまりを作らないでくれるその姿勢は、言うならば本当に立派な人たちだった。
もしこの家に家族として、俺の妹が一度受け入れてもらえたならば。
そうそう無下に扱われることにはならない気がする。
少なくとも俺自身の感覚を信じるなら、大事にされることは間違いないはずだ。
もとより金銭的な面で不安はなさそうだし、また夫婦仲については、どこかの偉い人が「日々のお互いの積み重ねだ」とか言っていた気もするし。
いや、それより何より、妹自身はこの縁談に満足していたようなのだ。
『お兄ちゃん、今まで本当にありがとう』
ついさきほどの別れ際。
目元を真っ赤にした顔を隠そうともせず、まっすぐに見据えられた後。
妹が涙混じりの声で言った一言に、恥ずかしながら俺はもう何もかもを許せる気がした。
あるいは逆に、俺自身が許されたのかもしれなかった。
最後にひしとお互い強く抱きしめあった後。
迎えに来た夫に手を取られ、近所の人たちも見守る中、妹は隣町へと旅立っていった。
『幸せになってくれ』
そうして悲しみと感動も一通り出尽くし、目元からこぼれ落ちる涙もそろそろ止まり始めた頃のこと。
『……今度は、お兄ちゃんの番だからね』
これもまた目元を赤くしたままの妹が、最後に耳元で言い残していった言葉だ。
(……俺の番?)
告げられた言葉を改めて噛み締めて、ようやく俺も正気に戻った。
そしてすぐに思い出す。先日誘われていた約束。予定は今日の夜だったはずだ。
となれば、まさか目元を赤くしたままで人に会うわけにはいかない。
俺はどうにか気持ちを入れ替えるべく、目元を手のひらで隠しながら家のそばの井戸へと走っていった。




