恋のダンジョン戦争 〜受付嬢のセシルが欲しければ、俺のダンジョンを攻略せよ〜
「エルシオン大迷宮の受付嬢と仲良くなれば、冒険者として成功する」
カルディアで冒険者をやっている者なら、一度は耳にしたことがある言い伝えだ。
受付嬢に顔を覚えられた新人が一年でゴールドまで上がっただの、声をかけてもらった翌日に大物の魔物を仕留めただの、景気のいい話には事欠かない。酒場の与太話にしては当たりすぎる、というのがもっぱらの評判である。
おかげで、朝のギルドはいつも騒がしい。
大迷宮の入口をくぐってひんやりした石の通路を少し進むと、天井の高い広間に出る。
冒険者ギルドはそこにあった。
つまりここはもうダンジョンの中で、依頼を受けた冒険者は、受付の窓口からそのまま奥へ潜っていけるというわけだ。
「おい、干し肉は五日分で足りるのか?」
「足りるわけないだろ。第一層だけでも、五日歩いて回りきれないんだぞ」
「じゃあ七日分……いや、十日分にしとくか」
大きな荷を背負った男たちが、そんなことを言い合いながら列に並んでいる。ここでは泊まりがけで潜るのが当たり前で、荷物の小さい者のほうがかえって目立つくらいだ。
そしてその列は、三つある窓口のうち一つにだけ、やけに長く伸びていた。
「お帰りなさい。今回は四日でしたね」
「ああ。セシルちゃんの顔が見たくて、早めに切り上げてきたよ」
「はいはい。納品はこちらの薬草ですね」
窓口の向こうで、蜂蜜色の髪を一つに編んだ受付嬢が、束になった薬草を手に取った。
セシルは三人いる受付嬢の中で、いちばん長くここに勤めている。薬草でも花でも、素材を見ればどこでどう採られたかがだいたい分かってしまう。
「……根元から丁寧に摘んでくれたんですね。葉が傷んでいないので、査定を一段上げておきます」
「本当か!?」
「ええ。この葉はお茶にしても香りが立つんですよ。次もこの摘み方でお願いしますね」
「任せてくれ! 次は十日潜ってでも山ほど摘んでくる!」
さっき帰ってきたと言っていた男は、それを忘れたように上機嫌で去っていった。
「セシル先輩、今朝も大人気ですねー!」
隣の窓口から、ペトラが身を乗り出してくる。短い赤毛を揺らす、快活な後輩だ。
「うちの窓口、さっきから誰も来ないんですよねぇ」
その向こうでは、ノエラが頬に手を当ててのんびりとしていた。こちらはおっとりした栗色の髪の後輩で、暇なのをまるで気にしていない。
「そりゃそうですよ。先輩と仲良くなれば成功するって、みんな信じてるんですから」
「私と話しても、何もしてあげられないけどね」
「またまたー。それにここ、恋結びのダンジョンなんですよ? 先輩もそろそろ、素敵なご縁があっていい頃です!」
受付嬢の間にも、もう一つの言い伝えがある。
エルシオン大迷宮で受付嬢になると、素敵な出会いのご縁がある――というものだ。実際、これまでの受付嬢はみんなが羨ましがるような相手と結婚して辞めていったので、こちらも与太話にしては当たりすぎていた。
「ご縁ねえ……」
セシルは次の冒険者の書類に判を押しながら、気のない返事をした。
「それより私は、一度でいいからフェアリーピュアでお茶を淹れてみたいわ」
「出た、先輩のお茶の話」
「精霊の花、でしたっけ。深い層にしか咲かないっていう」
ノエラの言葉に、セシルの顔がぱっと明るくなる。
「そう、それ! 持ち帰られるのは何年かに一度で、それも乾いて色が抜けたものばかりなの。でも摘みたてなら、淹れたお湯が真っ青に染まるんですって」
「先輩、お茶の話になると急に早口になりますよね」
「花より男子ですよ、セシルさん」
「ノエラまで?」
そこへ、列の後ろから大きな声が割り込んだ。
「だったら、俺が取ってきてやるよ。そのフェアリーなんとかってやつ!」
派手な赤い外套の男が、並んでいた冒険者たちを押しのけて窓口の前に立った。胸元では、ゴールドの冒険者証がこれ見よがしに光っている。
「フェアリーピュアです」
「それそれ。取ってきたら、一晩付き合ってくれるよな?」
「お気持ちだけいただきます。深い層は危ないですから、ご無理なさらないでくださいね」
「つれないなあ。まあ見てなって。受付嬢と仲良くなれば成功するんだろ? 俺はもう半分成功したようなもんだ」
何をもって半分なのかは、誰にも分からなかった。
男は深い層への依頼をひったくるように受けると、仲間を引き連れて意気揚々と奥の通路へ消えていった。
「……先輩。今の人、依頼の書類をちゃんと読んでましたかね」
「読んでなかったわね」
ペトラと顔を見合わせたところで、入口のほうが急にざわついた。
「おい、ギデオンだ」
「英雄ギデオンのパーティだぞ」
冒険者たちが道を開ける。その間を、銀の鎧に金髪の長身の男が、仲間を引き連れて悠々と歩いてきた。
プラチナのパーティを率いるギデオンは、カルディアでその名を知らない者はいない。去年、街道に出た大型の魔物を討って商隊を丸ごと救ったとかで、街の子どもたちが英雄ごっこをするときは、たいてい誰かが彼の役をやっている。
「やあ、セシル嬢。今日も君の窓口がいちばん混んでいるね」
「おはようございます、ギデオン様。ご依頼の受付でしたら、ノエラの窓口が空いておりますよ」
「つれないな。私は君に受けてもらいたいんだ」
ギデオンは列の先頭をごく自然に譲られ、窓口に肘をついた。
「先輩、英雄様ですよ、英雄様!」
ペトラが小声で騒いでいるが、セシルは聞こえないふりをして依頼の書類を差し出した。第八層の調査。プラチナにしか任せられない依頼だ。
「戻ったら、食事でもどうかな。深い層の話を聞かせてあげよう」
「お仕事のお話でしたら、ご報告のときにぜひ」
「はは、手厳しい。それもまた君の魅力だ」
余裕たっぷりに笑う英雄の後ろで、荷物持ちの少年が、自分の背丈ほどもある荷を背負ってふらついていた。仲間たちの荷を、全部一人で担がされているらしい。
「ギデオンさん、あの、少し荷を……」
「落としたら、中身の分は給金から引くよ」
ギデオンは振り返りもせず、笑顔のままそう言った。
セシルはちょうど書類の控えに目を落としていて、そのやりとりを見ていなかった。
広間から人の姿がまばらになった、夕方のことだった。
「すみません。登録の移し替えをお願いしたいんですが」
窓口の前に、一人の青年が立っていた。
くすんだ茶色の髪に、あちこち継ぎの当たった革鎧を着ている。首から下げた冒険者証は、シルバーだった。
「はい、承ります。よそのダンジョンからいらしたんですね」
「南の小さなダンジョンで、仲間と三人でやってました。こっちのほうが稼げると聞いて、移ってきたんです」
「その若さでシルバーなら、ここでもすぐに上がれますよ」
「だといいんですけど」
移し替えの書類にエミールと名前を書いた青年は、少し困ったように笑った。
「それで、このあたりに三人で泊まれる宿はありますか。できるだけ安いところがいいんですが」
「でしたら、通りを二本下った先の宿が素泊まりで安いですよ。食事は出ませんけど、そのぶん屋台が近くにあります」
「助かります」
「ご依頼はどうされますか? シルバーでしたら、第三層くらいまでの依頼をお受けいただけますけど」
エミールは依頼の一覧をしばらく眺めてから、第二層の鉱石採取を指さした。報酬は安いが、三日で戻ってこられる依頼だ。
「最初はこれにします。仲間の一人がまだ足を痛めてるので、無理はさせたくなくて」
「それなら、第一層の東の泉のそばに安息地があります。魔物が寄りつかないので、足を休めるにはちょうどいいですよ」
「東の泉ですね。ありがとうございます」
エミールは地図の写しに印をつけると、丁寧に頭を下げた。
朝の男たちのように身を乗り出すことも、名前を聞いてくることもない。
「先輩の夢はフェアリーピュアのお茶ですもんねー。今朝の赤い外套の人、ちゃんと取ってこられるのかなあ」
隣の窓口で、暇を持て余したペトラがそんなことを言った。
出ていきかけたエミールの足が、そこで止まる。
「あの……その花、どんな色なんですか」
「青です。摘みたてなら、ですけど」
「青、ですか。……覚えておきます」
それだけ言うと、青年は今度こそ広間を出ていった。
「今の人、先輩のこと口説きませんでしたね」
「珍しいですねぇ」
「普通はそうなのよ」
セシルはあきれて言い返したが、閉じた書類の上に残った「エミール」という名前を、なんとなくもう一度眺めていた。
その夜、最後の灯りが落とされて広間から人がいなくなっても、今日一日の話をすべて聞いている存在がいた。受付嬢たちの恋の話も、青い花の話も。
この広間に聞き耳を立てている者がいることを、カルディアの誰も知らない。
◇
このエルシオン大迷宮に主がいることを、人間は誰も知らない。
ギルドで交わされる話は、ひそひそ声の噂話から受付嬢の独り言まで、一つ残らず聞こえている。
今日もずっと聞いていた。
『……根元から丁寧に摘んでくれたんですね。葉が傷んでいないので、査定を一段上げておきます』
聞いたか。薬草の束をひと目見ただけで、摘み方まで分かるんだぞ。うちのセシルは賢い。
蜂蜜色の髪を一つに編んだセシルは、今いる三人の受付嬢の中でいちばん長く勤めている。つまり、いちばん長く俺が見守ってきた子だ。最初のころは書類の判をよく逆さに押していたのに、今では新人二人の面倒まで見ているんだから、たいしたものである。
『それより私は、一度でいいからフェアリーピュアでお茶を淹れてみたいわ』
その話も、もう何度聞いたか分からない。
咲かせてやれるものなら、とっくに入口の脇に一面咲かせている。だがあの花は、深い層の空気の中でしか育たない。浅い所へ移せば一晩で枯れてしまうし、深い層まで取りに行ける冒険者はそういない。これほど歯がゆいことはない。
受付嬢に親切にした冒険者には、霊核の大きな魔物を回してやったり、薬草の群生地へ続く通路を少しだけ近くにつないでやるんだ。そうすれば、そいつは稼げるようになる。
反対に、受付嬢に言い寄るろくでもない男は、ダンジョンの中で片っ端からいじめてやる。そうすれば、あの子たちのまわりには良い男しか残らない。これが重要なのだ。
受付嬢というのは不思議なものだ。
一年、二年と毎朝あの窓口で「いってらっしゃい」と聞いているうちに、だんだん可愛くなってくる。
気がつけば、あの子のことばかり気にかけている。
そしてあの子たちは、みんな結婚して辞めていった。
分かっている。結婚して辞めていくのはめでたいことだ。俺だって毎回、泣きながら祝ってきた。
ただ、一度だけ、どうしても祝えなかったことがある。
三つ前の受付嬢は、街の商家の息子と一緒になった。人当たりがよくて、ギルドへ差し入れを持ってくるような男だった。
ところがそいつは、嫁をもらったとたん博打にのめり込み、あの子がこつこつ貯めた蓄えを使い込んだ。俺がそれを知ったのは、ギルドで冒険者たちが噂しているのを聞いたときだ。
ダンジョンの外で起きることに、俺は手が出せない。あの男は冒険者ではなかったから、差し入れを届けに広間までは来ても、その先へは一歩も入らなかった。俺が知っていたのは、窓口の前で愛想よく笑っている顔だけだった。
だから俺は決めた。
あの子たちに近づく男には、全員ダンジョンに入ってもらう。この中では、人間の本性は隠しようがない。
というわけで、今朝の赤い外套の男だ。
『だったら、俺が取ってきてやるよ。そのフェアリーなんとかってやつ!』
一晩付き合え、などと抜かしたあの男は、深い層への依頼を受けて潜っていった。
俺はずっと見張っていた。そうしたら、その夜の安息地で、焚き火を囲んだ男はこんなことを言いだした。
「受付嬢なんてのは、成功するための道具だろ。仲良くしときゃ運が向くんだよ」
「でもお前、本当に深い層まで花を取りに行くのか?」
「行くわけねえだろ。乾いたやつを商人から買って渡しゃいいんだ」
「それ、セシルさんにはすぐばれると思うけど……」
「ばれねえって。女に花の違いなんか分かるかよ」
分かるわ。
うちのセシルは、薬草の摘み方まで見抜くんだぞ。舐めるのもたいがいにしろ。
よし、迷え。
翌朝、一行が分かれ道に差しかかったところで、俺は通路を一本ずつずらした。
右の道を選んだ。そちらは、いくら歩いても同じ泉の前に戻ってくるようにつないである。
「おい、この泉、さっきも見なかったか?」
見たぞ。三回目だ。
「……いや、気のせいだな。泉なんてどこも同じだ」
四回目も、同じことを言っていた。
殺すつもりはない。干し肉が尽きかけるころには、ちゃんと出口へ返してやる。
深い層がどれほど遠いか、身をもって知ってもらうだけだ。
ついでに言えば、もう一人、気に入らない男がいる。
『落としたら、中身の分は給金から引くよ』
英雄ギデオン。笑顔のまま、荷物持ちの少年にそう言ったのを、俺はちゃんと聞いていた。
街で英雄と呼ばれていようが、俺には関係ない。あの男がセシルに言い寄っているかぎり、いずれ中で見定めることになる。
それから、もう一人だけ。
夕方に来た、継ぎはぎの鎧の青年だ。三日で戻れる第二層の依頼を受けて、その晩は第一層の東の泉の安息地で野営していた。
「ほら、これ食えよ」
「お前の分だろ、それ」
「俺は昼にたくさん食ったから」
「昼は何も食ってないだろ。見てたぞ」
青年は、足を痛めた仲間に自分の干し肉を押しつけていた。言い訳が下手すぎて、すぐにばれている。
……ふん。
あれは、帰り際に花の色を聞いていた男だ。一応、覚えておいてやる。
とはいえ、今のところはセシルの窓口に来た冒険者の一人にすぎない。セシルを欲しいなどと言いだしたら、そのときは話が別だがな。
それから十日後のことだ。
入口の広間に、赤い外套の男がよろよろと戻ってきた。外套は泥だらけで、背負い袋はぺしゃんこ。花どころか、霊核の一つも持っていない。
「まあ……! ご無事でよかったです。長く戻られないので、心配していたんですよ」
窓口から身を乗り出したセシルが、本気で安心した顔でそう言った。
「も、もう深い層はこりごりだ……!」
男は言い伝えのことなどすっかり忘れた様子で、逃げるように広間を出ていった。
それきり、あの男が窓口に並ぶことはなかった。
まったく、うちのセシルは優しすぎる。
あんな男の心配までしてやることはないんだ。そういう所が、また心配になる。
◇
三日後の夕方、エミールは約束どおりの日数で窓口に戻ってきた。
「第二層の鉱石です。確認をお願いします」
「お帰りなさい、エミールさん。……はい、数も質も問題ありません。お仲間の足はいかがですか?」
「おかげさまで、泉のそばで休ませたら少しましになりました」
報酬の銀貨を受け取ると、エミールはそれを三つの小さな山に分けて、それぞれ別の袋にしまった。それから少し迷った様子で、背負い袋から薬草の束を一つ取り出す。
「それと、これなんですが……泉のそばに生えてたんです。お茶になりますか」
差し出された束を見たとたん、セシルの顔がぱっと明るくなった。
「清水草ですね! しかも根元から摘んである……。ええ、なりますよ。乾かせば、薬屋さんで良い値がつきます」
「売れるんですか、これ」
「葉の裏が白いうちに陰で干すのがこつです。日に当てると香りが飛んでしまうので」
「陰で……。覚えておきます」
エミールが真面目な顔でうなずいたところで、後ろの列から声が飛んできた。
「おい、シルバーの貧乏人がいつまで長話してんだ」
「セシルちゃんの窓口は、お前みたいなのが薬草の相談をする所じゃねえぞ」
エミールは振り返ると、怒るでもなく頭を下げた。
「すみません。後ろの人に悪いんで、これで」
そう言って、束をそのまま窓口に置いていってしまう。
「あっ、エミールさん、これ……!」
「受付の方に差し上げます。お茶になるなら、そのほうがいいので」
呼び止める間もなく、青年は広間を出ていった。
セシルの手元には、きれいに根元から摘まれた清水草が残されていた。
それからエミールたちは、三日潜っては戻ってくる手堅い依頼を続けた。
窓口で交わすのは、いつも短い言葉だけだ。それでも、納品される薬草は毎回ていねいに摘んであったし、ときどき「これはお茶になりますか」と一束だけ別に出してくることもあった。
「お仲間の足、まだ治らないんですか?」
ある日、セシルがそう尋ねると、エミールは困ったように頭をかいた。
「足を痛めてるのは、うちの治療役なんです。人の傷はすぐ治せるのに、自分の傷は治せないらしくて」
「まあ……。それなら、第一層の岩場に生えている鈴葉を煎じてあげてください。痛み止めになりますから」
「岩場の鈴葉ですね。ミロに飲ませてみます。あいつ、苦いのは嫌がるだろうけど」
「少しだけ蜂蜜を入れると飲みやすくなりますよ」
「蜂蜜……は、高いんで、我慢させます」
真顔でそう言うので、セシルは思わず笑ってしまった。
◇
そんなある日の休日。
セシルたち受付嬢三人は、お茶の葉を買いにカルディアの市場へ出かけた。
「先輩、また葉っぱのお店ばっかり回るつもりでしょう」
「当たり前でしょう。今日はそのために来たのよ」
「私は焼き菓子のお店に寄りたいですねぇ」
人でごった返す通りを歩いていたそのとき、市場の奥から悲鳴が上がった。
「魔獣が逃げたぞ!」
「どいてくれ、止まらねえ!」
商人の荷車を引いていた大角の魔獣が、つながれていた綱を引きちぎって通りを暴走していた。露店の屋根がなぎ倒され、果物が石畳に転がる。人々が逃げまどう中、小さな男の子が一人、転んで動けなくなっていた。
「危ない……!」
セシルが声を上げたのと、銀の鎧が子どもの前に飛び出したのは、ほとんど同時だった。
ギデオンは剣も抜かずに魔獣の大角を両手でつかみ、そのまま体ごとひねって石畳に叩き伏せた。地面が揺れるほどの音がして、魔獣はそれきりおとなしくなる。
一瞬の静けさのあと、市場じゅうから歓声が上がった。
「英雄ギデオンだ!」
「さすがプラチナだ!」
ギデオンは子どもを抱き起こして頭をなでてやり、泣きじゃくる母親にその子を返した。それから顔を上げて、人垣の中にセシルを見つけると、軽く片手を上げてみせる。
「やあ、セシル嬢。怪我はないかい?」
「え、ええ……。おかげさまで」
「それはよかった。君に何かあったら、ギルドの皆が悲しむからね」
白い歯を見せて笑うと、ギデオンは仲間を連れて人垣の向こうへ去っていった。
「先輩、見ました!? 今の、見ました!?」
「見てたわよ、隣にいたんだから」
「素手で止めましたねぇ、魔獣を」
ペトラにがくがくと肩を揺さぶられながら、セシルは英雄の背中を目で追っていた。
「……英雄って、本当にいるのね」
◇
その夜、受付嬢の宿舎の一室で、三人はお茶を囲んでいた。
「もう決まりですよ、先輩の相手は英雄様で!」
ペトラは寝台の上で膝を抱えて、昼からずっと同じことを言っている。
「プラチナで、お顔もよくて、子どもを助けて、しかも先輩のこと覚えてて! 恋結びのダンジョンの言い伝え、ついに先輩の番が来たんですよ!」
「ギデオン様は誰にでもああいうことを言う方よ」
「でも今日、少し見とれてましたよね?」
「……少しだけよ。格好よかったのは本当だもの」
セシルが認めると、ペトラは「きゃー!」と寝台の上を転がった。
その横で、ノエラがのんびりとカップに口をつける。
「このお茶、おいしいですねぇ。いつもの葉と違いませんか?」
「清水草よ。陰で干したから、香りがよく残ってるでしょう」
「清水草って、たしか……エミールさんが持ってきた葉ですよねぇ」
ノエラはにこにこしたまま、首をかしげた。
「セシルさん、こっちの人も気になってるんじゃないですかぁ?」
「えっ、そうなんですか先輩!?」
「どっちもそういうのじゃないわ。葉っぱがいいから淹れただけ」
「葉っぱがいいから、ですかぁ」
「そうよ」
セシルはきっぱりと言って、自分のカップに口をつけた。
根元から丁寧に摘まれていたおかげで、清水草のお茶はいつもの葉よりずっと香りがよかった。
宿舎はダンジョンの外にある。
だからこの夜の恋の話だけは、迷宮の主の耳に入らなかった。幸いなことに。
◇
市場の騒ぎからしばらくして、英雄ギデオンの一行がまた深い層へ潜ってきた。今度は第九層の調査だ。
第九層は、俺の中でもかなり深い所にある。プラチナのパーティでも、調査を終えて戻るまでにひと月はかかる。一行はそこで二十日ほどかけて依頼を済ませ、帰りの安息地で焚き火を囲んでいた。
「今回も楽な仕事だったな」
「ああ。戻ったら報酬で一杯やろうぜ」
仲間たちが笑う中、ギデオンは剣の手入れをしながら、何でもないことのように言った。
「戻ったら、セシル嬢を食事に誘うよ。今度は断らせない」
「またそれか。あの受付嬢、ずっとつれないじゃないか」
「だからいいんだ。ああいう娘ほど、一度落ちれば扱いやすい。それに、エルシオンの受付嬢を手に入れれば、運までついてくる。英雄の妻にはちょうどいい飾りだ」
……ほう。
「おい、何をぼさっとしてる。火が弱いぞ」
ギデオンは、薪を運んでいた荷物持ちの少年の背中を、足で小突いた。少年はよろけて、抱えていた薪を取り落とす。
「す、すみません」
「拾え。それと、明日からは俺の荷も持て。お前の給金は、荷の重さで払ってやってるんだからな」
仲間たちは誰も止めない。どうやら、いつものことらしい。
よし、ぼこぼこにしよう。
翌朝、一行が安息地を出たところで、俺は帰り道の通路をつなぎ替えた。来たときに通った一本道は、途中で三つに分かれ、そのどれもが魔物の巣に通じるようにしてある。
「なんだ、この分かれ道は。来たときはなかったぞ」
「地図が間違ってるんじゃ……」
「言い訳はいい! 先頭を行け!」
一つ目の巣を抜ければ、二つ目の巣がある。二つ目を抜けたら、足場がきれいに崩れる。崩れた先の通路には、なぜか霊核の小さい、倒しても稼ぎにならない魔物ばかりがうようよいる。われながら、いい仕事だ。
「お前が地図を読み違えたからだろうが!」
「後衛は何をしてた! 俺の背中ががら空きだったぞ!」
三日も経つころには、英雄の口からは仲間への怒鳴り声しか出てこなくなっていた。
街では子どもを助けて手を振っているらしいが、ここでは誰も見ていないと思っているのだろう。見ているぞ、俺が。
殺しはしない。この男には、まだ見せてもらうものがある。
十日ほど通路の中を引き回してから、俺はようやく出口への道をつないでやった。
◇
英雄ギデオンの一行が帰ってきたのは、ある日の昼下がりだった。
広間にいた冒険者たちが、ぎょっとして振り返る。
銀の鎧はへこみだらけで、自慢の金髪は泥と煤で固まっていた。仲間たちも似たようなもので、荷物持ちの少年に至っては、自分の荷も仲間の荷もまとめて背負わされて、今にも倒れそうだった。
「ギ、ギデオン様……? ご無事で何よりです。調査のご報告でしたら、こちらで……」
ノエラが窓口から声をかけると、ギデオンは大股で歩み寄り、窓口の台に拳を叩きつけた。
「無事なものか! ギルドの地図はどうなっている! 俺たちは十日も同じ所をさまよわされたんだぞ!」
「え、ええと、地図は先月更新したばかりで……」
「だったら、その更新が間違っていたんだ! 俺のパーティが道に迷うわけがないだろう!」
いつもの余裕たっぷりの口調は、どこにもなかった。
広間がしんと静まり返る。その静けさの中で、少年の背中から荷が一つ、どさりと床に落ちた。
「何をしている、この役立たずが!」
振り返ったギデオンの怒鳴り声に、少年はびくりと肩を震わせた。
セシルは自分の窓口を離れると、湯気の立つカップを持って少年のそばにしゃがみこんだ。
「大丈夫ですか? これ、鈴葉のお茶です。少し苦いですけど、痛みが楽になりますから」
「あ……ありがとうございます」
「セシル嬢、そいつを甘やかさないでもらいたい」
「お疲れのところすみません、ギデオン様。でも、この子も同じだけ歩いてきたんですよね」
セシルが穏やかにそう返すと、ギデオンは一瞬だけ顔をゆがめた。それから取り繕うように笑みを浮かべ、仲間を連れて広間を出ていった。
「……先輩」
「なに?」
「英雄様、ちょっと……いえ、だいぶ感じ悪かったですね」
ペトラが小声で言う。セシルは少年の背中をさすりながら、ギデオンの去った入口のほうを見ていた。
「……あの方、あんなふうに怒鳴るのね」
市場で子どもの頭をなでていた英雄と、同じ人とは思えなかった。
それからの数か月、セシルに言い寄る男たちは、なぜか次々とひどい目にあった。
大勢の護衛を雇って花を取りに行くと言いだした貴族の三男は、第三層で護衛たちに置き去りにされた。どうやら報酬を出し渋ったらしい。
「セシルちゃんのために」と仲間を集めた冒険者は、中で取り分をごまかしていたのがばれて、自分のパーティから追い出された。
「言い伝えで成功する」と豪語していた別の男は、潜るたびに霊核の一つも取れず、とうとう故郷へ帰ってしまった。
「最近、先輩に言い寄る人って、みんなぼろぼろで帰ってきますよね」
「呪いですかねぇ」
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないで」
おかげでギルドでは、「エルシオンの受付嬢に言い寄ると、ダンジョンで痛い目を見る」という、言い伝えとは正反対の噂まで立ちはじめていた。
そんな中で、エミールたちだけは、相変わらず三日潜っては戻ってくる依頼を続けていた。
ただ、少しずつ変わっていったこともある。
春の終わりには、納品される霊核がひと回り大きくなった。ミロの足が治って、パーティの三人がそろって新しい靴を履いてきた。夏の初めには、受ける依頼が第三層から第五層になった。
窓口に出される一束も、そのころには薬草から、第五層にしか咲かない珍しい花に変わっていた。
そして真夏のある日、エミールの冒険者証は、シルバーからゴールドに変わった。
「昇格おめでとうございます、エミールさん」
「ありがとうございます。……運がよかっただけです」
「運だけで、ここまで早くは上がれませんよ」
「いえ、本当に運なんです。最近、なぜか霊核の大きい魔物ばかりに当たって」
エミールは照れくさそうに頭をかいた。
セシルは笑って、新しい冒険者証を差し出した。
◇
……運ではない。
受付嬢に親切な冒険者には、霊核の大きな魔物を回す。薬草の群生地への道を近くにつないでやる。それが俺の決まりである。
あの青年は毎回毎回、セシルに薬草だの花だのを置いていく。
規則は規則だ。守らないわけにはいかない。
その結果、気がついたらゴールドだ。誰だ、こんな決まりを作ったのは。俺だ。
その夜、第五層の安息地で、エミールたちは焚き火を囲んでいた。
「ゴールドだぞ、ゴールド! 南にいたころは考えられなかったよな」
「ミロ、声が大きい」
「いいだろロルフ、今日くらい。なあエミール、これで少しは貯金もできるな。何に使うんだ?」
エミールはしばらく火を見ていたが、やがてぽつりと言った。
「……いつか、あの人に見合う男に」
「あの人?」
「いや、何でもない」
「何でもなくないだろ! 受付の人だろ、あの蜂蜜色の髪の!」
「……エミールは分かりやすい」
「ロルフまで言うなよ」
焚き火の向こうで、青年は耳まで赤くなっていた。
……今、なんと言った。
見合う男に、だと。つまり、セシルを嫁にくれと言っているのと同じではないか。
これまでなら、その場で通路をつなぎ替えて、十日ほど迷わせてやるところだ。
だが俺は、この青年が足を痛めた仲間に干し肉を押しつけていたのも、セシルに贈る薬草を根元から丁寧に摘んでいたのも、全部見てきた。追い払う理由が、今のところ一つも見当たらない。
それがまた、腹立たしい。
追い払うのはやめだ。
その代わり、試させてもらう。
よかろう。見せてもらおうじゃないか。
◇
俺は、岩殻竜を起こした。
第十二層のいちばん奥で、もう何十年も眠っていた古い魔物だ。背中から尾の先まで岩の殻に覆われていて、並の剣では傷ひとつつかない。
そいつの寝床を、少しずつずらした。通路をつなぎ替え、上へ、また上へ。そうして第七層の奥にある洞窟まで連れてきた。
試験の舞台としては、ちょうどいい。
ただし、一つだけ厄介なことがある。
俺にできるのは、魔物をどこに置くかを決めることだけだ。近くに置けば、魔物は勝手に襲いかかる。一度けしかけたら、あとはもう俺の言うことなど聞かない。
いざとなれば、逃げ道の通路を開けてやるしかない。
◇
岩殻竜が第七層に現れたという話は、三日もしないうちにギルドじゅうに広まった。
「第七層の奥で、大型の魔物が道をふさいでいる。合同での討伐依頼を出します。受けられるのはゴールド以上のパーティです」
ノエラが依頼書を読み上げると、広間がざわついた。深い層への道がふさがれれば、稼ぎに響く上級冒険者は多い。だが、岩の殻を持つ大型の魔物と聞いて、すぐに手を挙げる者はいなかった。
「私が受けよう」
静まり返った広間に、よく通る声が響いた。英雄ギデオンだ。
第九層でぼろぼろになって以来、この男の評判は落ちる一方だった。取り戻すには、大きな手柄がいる。
「いや、合同など必要ない。私たちだけで十分だ」
そう言って依頼書にさっさと名前を書いたあと、ギデオンは広間の隅にいた三人組に目を留めた。
「……なんだ、お前たちも受けるのか」
「はい。支援役でよければ」
「第七層の奥の洞窟には、青い花が咲いてるらしいんで」
ミロが余計なことを言って、エミールに肘で小突かれている。
ギデオンは鼻で笑った。
「ゴールドになりたての貧乏人が、花摘みか。まあいい。邪魔になるようなら、荷物持ちの手伝いでもしていろ」
エミールは言い返さずに、黙って依頼書に名前を書いた。
その書類を受け取ったのは、セシルだった。
「皆さん、必ず帰ってきてくださいね」
窓口から、セシルはいつもどおりの笑顔で冒険者たちを送り出した。
それから、エミールにだけ小さな声で付け足した。
「……エミールさんも、無理はしないでくださいね」
「はい」
聞こえているぞ、全部。
なるほど、この子はこいつ推しか。
◇
第七層までの道のりは、十日ほどかかった。
その間、ギデオンは相変わらず荷物持ちの少年に全員の荷を背負わせていた。少年の名はニコというらしい。休むたびに仲間から「遅い」と怒鳴られている。
「これ、半分持つよ」
「え……で、でも、ギデオンさんに怒られます」
「俺たちの荷ってことにすればいい。ミロ、そっち持てるか」
「持てる持てる。俺の足、治ったからな」
後ろを歩くエミールたちが、いつの間にかニコの荷を分けて担いでいた。
ギデオンはそれを見て、露骨に顔をしかめた。
「支援役というのは、荷物持ちの世話係のことか」
エミールは答えなかった。ロルフが、少しだけ眉を動かした。
そして十日目の夜、一行は洞窟の入口にたどり着いた。
洞窟の中は、青く光っていた。
天井の高い空洞の床一面に、フェアリーピュアが咲いている。深い層の空気の中でだけ咲く、精霊の花だ。花びらの一枚一枚がかすかに光を帯びていて、その青い光の真ん中に、岩殻竜が丸くなって眠っていた。
「……うわあ」
ミロが思わず声をもらした。エミールは何も言わずに、しばらく花を見ていた。
うちのセシルがこれを見たら、きっと早口になるだろう。
「見とれている場合か。行くぞ」
ギデオンが剣を抜いた。仲間たちが続く。
英雄の一撃は、たしかに速かった。眠っていた岩殻竜の首筋へ、まっすぐに剣が振り下ろされる。
だが、刃は岩の殻に弾かれ、甲高い音を立てただけだった。
目を覚ました竜が、低くうなって身を起こす。尾がひと振りされただけで、ギデオンの仲間が二人まとめて壁に叩きつけられた。魔法使いの女が足を押さえてうずくまる。
「くそっ、なんだこの殻は!」
「ギデオン、刃が通らない! 一度下がって――」
「うるさい!」
竜が頭を振り上げる。次の一撃が来る。
その瞬間、ギデオンは振り返って、後ろで荷を抱えていたニコの襟首をつかんだ。
「ニコ、前に出ろ」
「え……?」
「囮になれと言っている!」
少年の体が、竜の鼻先へ突き飛ばされた。
ギデオンはそのまま身をひるがえし、動ける仲間だけを連れて入口のほうへ駆けだしていく。足を押さえた魔法使いの女が「待って」と叫んだが、誰も振り返らなかった。
……この野郎。
俺はすぐに、ニコの背後の壁に通路を開けようとした。竜は止められなくても、逃げ道なら作れる。
だが、俺が壁を動かすより先に、青い光の中へ飛び込んだ者がいた。
「ニコ、下がれ!」
エミールだった。
振り下ろされた竜の前足を、エミールは剣の腹で受け止めた。足元のフェアリーピュアが、衝撃でいっせいに舞い上がる。
「ロルフ、殻の弱い所を探してくれ! ミロは魔法使いの人を!」
「任せろ!」
「……分かった」
ミロが倒れた魔法使いに駆け寄り、ロルフが竜の周りを音もなく走りだす。エミールはニコと怪我人の前から一歩も動かずに、竜の攻撃を受け続けた。
一撃ごとに、剣を握る腕が大きくしなる。革鎧の肩が裂ける。それでも下がらない。
「エミール! 今なら入口まで逃げられるぞ!」
ミロが叫んだ。
その通りだ。俺はとっくに、入口までの近道を開けてある。今なら全員、無事に逃げられる。
「駄目だ。この人はまだ歩けないんだろ」
「でも――」
「置いていけない」
エミールは短くそう言って、竜の尾を横に跳んでかわした。
「右の前足付け根!」
ロルフの声が、洞窟に響いた。この男が大声を出すのを、俺は初めて聞いた。
「殻の継ぎ目が開いてる。前足を振り上げたときだけだ」
「振り上げたとき、だな」
エミールが剣を構え直す。
ミロが魔法使いの手当てを終えて立ち上がり、竜の目の前に光の玉を打ち上げた。まぶしさに竜が頭を振り、前足を高く振り上げる。
その一瞬を、エミールは逃さなかった。
踏み込んだ剣が、継ぎ目の奥深くまで突き立つ。
岩殻竜は長い咆哮を上げ、ゆっくりと横倒しになった。舞い上がっていたフェアリーピュアの花びらが、その上に静かに降ってくる。
しばらく、誰も動かなかった。
「……勝った、のか」
「勝ったよ! 勝ったんだよエミール!」
ミロがエミールに飛びつき、エミールはそのまま尻もちをついた。ロルフは黙って、二人の頭を順番に叩いている。
エミールは息を整えると、すぐに立ち上がってニコのそばにしゃがみこんだ。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です……。あの、どうして……僕なんかのために」
「同じ依頼を受けたんだから、今日は仲間だろ」
当たり前のことのようにそう言って、エミールはニコの擦りむいた膝に布を巻いた。
魔法使いの女が、その後ろで顔を覆って泣いていた。
手当てを済ませたあと、エミールは足元に目を落とした。
戦いで踏み荒らされずに残っていたフェアリーピュアが一輪、青く光っている。エミールは膝をつくと、茎の根元に指を添えて、ていねいに土ごと掘り起こした。
「それ、持って帰っても枯れるんだろ?」
「分かってる」
「じゃあ、なんで」
「……あの人に、見せたかったんだ。一回だけでいいから」
ミロが「はいはい」と肩をすくめ、ロルフがほんの少しだけ笑った。
……俺の試練をクリアしたか。
認めたくはないが、認めるしかない。
さて、逃げた英雄のほうだ。
ギデオンの一行は今ごろ、第七層の通路を必死に走っている。俺はその先に、出口までの近道をつないでやった。いつもなら十日かかる道のりを、三日で帰れるように。
先に帰るといい。
一人だけ先に帰って、ギルドで何と言うのか。見ものだな。
◇
英雄ギデオンの一行が戻ってきたのは、出発してから十三日目のことだった。
行きに十日かかった道のりを、たった三日で帰ってきたことになる。広間の冒険者たちは驚いたが、ギデオンの顔を見て、すぐに口をつぐんだ。
英雄は、いつになく沈痛な表情をしていた。
「岩殻竜は、想像以上の怪物だった」
報告の窓口の前で、ギデオンは広間じゅうに聞こえる声でそう言った。
「私たちが慎重に様子を見ていたところへ、支援のゴールドたちが手柄欲しさに勝手に突っ込んだ。止める間もなかったよ。三人とも、あっという間に……。うちの荷物持ちと魔法使いも、巻き込まれて勇敢に散った」
「そんな……」
「私は、残った仲間を守って撤退するのが精一杯だった。英雄などと呼ばれながら、情けない話だ」
広間のあちこちから、同情のため息がもれた。
英雄の後ろで、生き残った仲間たちは黙ってうつむいていた。
セシルは、自分の窓口で手を止めていた。
支援のゴールドの三人。それが誰のことなのか、この広間でいちばんよく知っているのは、依頼の書類を受け取った彼女だった。
「……先輩」
ペトラが呼んでも、セシルは返事をしなかった。
手の中の判が、書類の上で止まったままになっていた。
◇
それからの七日間、セシルはいつもどおりに窓口に立ち続けた。
冒険者を迎え、送り出し、薬草を査定する。仕事の手は少しも遅れなかった。ただ、手が空くたびに、その目は入口の通路のほうへ向いていた。
ペトラもノエラも、何度か声をかけようとしてはやめた。
八日目の夕方、ギデオンがセシルの窓口にやってきた。
「セシル嬢。つらいだろうが、あまり思いつめないことだ」
「……お気遣い、ありがとうございます」
「今夜、食事でもどうかな。こういうときこそ、誰かがそばにいたほうがいい」
セシルが顔を上げて何か言いかけた、そのときだった。
入口のほうから、足音が近づいてきた。
一人ではない。重い足取りで帰還した冒険者たちが歩く姿を、広間にいた冒険者たちが、一人、また一人と振り返ってみた。
裂けた革鎧に、刃こぼれした剣。泥だらけの青年が、足を引きずる魔法使いの女に肩を貸して立っていた。その後ろに、背の高い斥候と、陽気そうな治療役と、大きな荷を背負った少年が続いている。
「……エミール、さん」
セシルの声は、ほとんど息のようだった。
「ただいま戻りました。岩殻竜の討伐、完了です」
広間が、どよめいた。
いちばん顔色を変えたのは、セシルの窓口の前に立っていた英雄だった。
「な……なぜ、お前たちが……」
「ギデオンさん」
エミールの後ろから、ニコが一歩前に出た。荷を背負ったままの小さな体が、震えていた。
「ギデオンさんは、僕を竜の前に突き飛ばして、囮になれって言いました。それで、自分だけ逃げたんです」
広間が、しんと静まり返った。
「……何を言いだすかと思えば」
ギデオンは肩をすくめて、笑ってみせた。
「荷物持ちの言うことなど、誰が信じる。恐怖で記憶が混乱しているんだろう。かわいそうに」
「私も、置いていかれたわ」
今度は、エミールの肩を借りていた魔法使いの女が口を開いた。ギデオンのパーティの一員として、この広間の誰もが顔を知っている女だった。
「尾に打たれて、足が動かなくなった。待ってって叫んだのに、ギデオンは一度も振り返らなかった。この人たちがいなかったら、私もニコも、今ごろ竜の腹の中よ」
「お前まで、何を……!」
エミールは何も言わずに、背負い袋から大きな霊核を取り出して、窓口の台に置いた。
人の頭ほどもある、岩の色をした霊核だった。受付嬢なら、それがどんな魔物から取れるものかは一目で分かる。
「岩殻竜の霊核です。確認をお願いします」
ギデオンの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「違う……違う! 俺は英雄だぞ! こんな貧乏人と荷物持ちの言うことを、お前たちは信じるのか!」
誰も答えなかった。
英雄の後ろで、生き残った仲間たちが、一人、また一人と目をそらしていった。
その日のうちに、ギルドはギデオンの冒険者証を取り上げた。
仲間たちはすぐに彼のもとを離れ、数日後には、英雄の姿はカルディアから消えていた。行き先を知る者はいない。街の子どもたちの英雄ごっこからも、その名前はいつの間にか聞かれなくなった。
◇
広間のざわめきがようやく落ち着いたころ、セシルは窓口の外に出ていた。
自分でも、いつ出てきたのか覚えていない。
「ご無事で……本当に、ご無事で……!」
「すみません。心配、かけましたよね」
エミールは、泥だらけの手を上着で拭きかけて、やめた。拭いても落ちる汚れではなかった。
それから、背負い袋の奥から、そっと何かを取り出した。
布にくるまれていたのは、一輪の花だった。
茎も葉もすっかりしおれて、花びらは色が抜け、白に近い灰色になっている。
「フェアリーピュアです。第七層の洞窟に、一面咲いてたんです。……見せたかったんですけど、帰る途中で枯れてしまって」
セシルは両手で、その花を受け取った。
何年かに一度しか持ち帰られない、乾いて色の抜けた精霊の花。受付嬢として、何度も見てきた姿だった。
「……根元から、土ごと掘ってくれたんですね」
「はい。そうすれば、少しは長くもつかと思って」
「もちませんよ。深い層の花なんですから」
「……ですよね」
エミールがしょんぼりと肩を落とすので、セシルは泣きながら笑ってしまった。
◇
その夜、宿舎の一室で、三人はいつものようにお茶を囲んでいた。
「英雄様、最低でしたね!」
ペトラは寝台の上で枕を殴っている。
「子どもを助けて手を振ってたくせに、荷物持ちの子を囮にするなんて! 私、先輩の相手は英雄様で決まりとか言っちゃったじゃないですか、あああもう!」
「ペトラ、枕が破れるわよ」
「破れてもいいです!」
その横で、ノエラがのんびりとカップを置いた。
「でも、セシルさん」
「なに?」
「エミールさんが死んだって聞いてから、ずっと入口のほうばっかり見てましたよねぇ」
セシルの手が、止まった。
窓際の棚には、しおれたフェアリーピュアが小さな瓶に挿してあった。色の抜けた花びらは、もう青くは光らない。それでも、どうしても捨てられなかった。
――どっちもそういうのじゃないわ。
少し前に、この部屋で自分が言った言葉を思い出す。
「……私」
セシルは、自分のカップを両手で包んだ。
「私、エミールさんのことが好きなのね」
一瞬の静けさのあと、ペトラが寝台から転げ落ちた。
「ええぇぇぇぇ!? 今、今っ、先輩、今なんて!?」
「ペトラ、声が大きい」
「だって! だって先輩が! 自分から!」
「あらあら、やっと気づいたんですねぇ」
ノエラだけが、最初から分かっていたような顔で、お茶を一口飲んだ。
◇
岩殻竜の討伐から戻って五日目の朝、エミールは一人でセシルの窓口にやってきた。
正確には、少し後ろにミロとロルフもいる。ミロは朝からずっとにやにやしていて、ロルフはいつもどおり何も言わない。
「第七層の採取依頼を受けたいんですが」
「えっ……また第七層に行かれるんですか?」
セシルは思わず、依頼書を差し出す手を止めた。
「竜はもういないって分かってますから。大丈夫です」
「でも、帰ってきたばかりなのに……。何を採りに行かれるんです?」
「ええと……忘れ物をしたので」
エミールは目をそらした。後ろで、ミロが噴き出すのをこらえている。
「忘れ物、ですか」
「はい。忘れ物です」
「……分かりました」
セシルはそれ以上は聞かずに、依頼書に判を押した。
「いってらっしゃい、エミールさん。今度はちゃんと、全員で帰ってきてくださいね」
「はい。行ってきます」
◇
第七層の洞窟は、竜がいなくなっても変わらず青く光っていた。
エミールは戦いの跡から少し離れた所に膝をつくと、いちばん花びらの大きい一輪を選んで、根元から土ごと掘り起こした。持ってきた布に、そっと包む。
「で、問題はここからだよな」
ミロが腕を組んだ。
「前のは、帰る途中で枯れたんだろ? 十日もかかったら、また同じことになるぞ」
「……急いでも、七日はかかる。なら、もっと急げばいいんだ。全力ダッシュなら3日でいけるかな?」
「無茶いうぜ」
ロルフが短く言う。エミールは布の中の花を見下ろして、黙りこんだ。
分かっていて来たのだ。それでも、もう一度だけ試したかった。
「なあ、あれ」
ミロが、洞窟の奥の壁を指さした。
そこに、通路が口を開けていた。
来たときには、ただの岩の壁だった場所だ。
人が一人通れるくらいの幅の道が、ゆるやかな上り坂になって、まっすぐ上へと続いている。
「……こんな道、なかったよね」
「だよな? 俺も見てない」
「魔物の気配は」
「ない。空気が上から流れてくる」
三人は顔を見合わせた。それから、エミールが最初の一歩を踏み出した。
道はどこまでも上り坂で、分かれ道が一つもなかった。魔物にも一度も出会わない。歩きつづけて半日もしないうちに、前方から人の話し声と、覚えのある明かりが差してきた。
抜けた先は、ギルドの広間の脇にある、古い倉庫の裏だった。
「……うそだろ。半日だぞ、半日」
「第七層から、ここまで……」
エミールは急いで布の包みを開いた。
フェアリーピュアは、摘んだときのまま、青く光っていた。
その道を誰がつないだのか、三人は知らない。
◇
夕方の広間は、仕事を終えた冒険者たちでいっぱいだった。
その人込みの中を、青く光る花を両手で持った青年が歩いてくる。気づいた者から順に、話し声が止んでいった。
「おい、あれ……フェアリーピュアじゃないか?」
「摘みたてだぞ。光ってる」
「どうやって持って帰ってきたんだ……?」
ざわめきの中を抜けて、エミールはセシルの窓口の前に立った。
セシルは、書類を持ったまま固まっていた。
目の前で、何年も見たいと願ってきた花が、本当に青く光っている。
「エミールさん、それ……忘れ物って……」
「はい。これを取りに行ってました」
エミールは一度、大きく息を吸った。
「セシルさん」
その呼び方に、セシルははっと顔を上げた。
「……今、名前」
「……ずっと、呼びたかったので」
エミールの耳が、見る見る赤くなっていく。隣の窓口で、ペトラが両手で口をふさいだ。
「俺、ここに来たときはシルバーで、宿代のことばっかり考えてました。あなたの窓口には、英雄とか、貴族とか、立派な人ばかり並んでて。俺なんかが並んでいい所じゃないって、ずっと思ってました」
「そんなこと……」
「でも、あなたに見合う男になりたくて、ここまで来ました」
エミールは、光る花をセシルの前に差し出した。
「この花で淹れたお茶を、これから先も、一緒に飲んでくれませんか。……結婚してください」
広間が、水を打ったように静まり返った。
セシルは花を受け取った。
それから何も言わずに窓口の奥へ入っていき、いつも冒険者に出しているお茶の湯を、小さな鍋に移した。花びらを一枚ずつ、そっと湯に落とす。
湯が、青く染まっていった。
空の色よりも深い、澄んだ青だった。
セシルはそのお茶をカップに二つ注いで、窓口の台に並べた。一つをエミールのほうへ押し出して、もう一つを自分の両手で包む。
「……はい。一緒に飲みましょう」
一瞬の沈黙のあと、広間が割れんばかりの歓声に包まれた。
「せ、先輩がぁぁぁ! プロポーズされたぁぁぁ!」
「おめでとうございます、セシルさん」
ペトラが窓口の台に突っ伏して叫び、ノエラがにこにこと拍手している。
冒険者たちが口笛を吹き、誰かが「おめでとう!」と叫んだ。ミロは泣いていた。ロルフは、ミロの背中を叩きながら、ほんの少しだけ笑っていた。
エミールは真っ赤な顔のまま、青いお茶を一口飲んだ。
「……おいしいです」
「ええ。私も、初めて飲みました」
セシルも一口飲んで、泣きながら笑った。
そのとき、広間の石の壁が、ほんの少しだけ揺れたような気がした。
けれど、それに気づいた者は一人もいなかった。
◇
泣いてなどいない。
壁が少し揺れただけだ。俺くらい大きなダンジョンになれば、壁の一枚や二枚、揺れることもある。
……いや、嘘だ。泣いた。
広間じゅうの冒険者が口笛を吹いている間、俺はずっと泣いていた。
何年も聞かされてきたのだ。
「一度でいいから、フェアリーピュアでお茶を淹れてみたいわ」と、セシルは窓口で何度も言っていた。咲かせてやることはできない。口を利いて教えてやることもしない。俺にできるのは、道をつなぐことだけだった。
◇
それから数週間後、セシルが窓口に立つ最後の日が来た。
朝の広間は、いつもどおりに騒がしかった。泊まりがけの荷を背負った冒険者たちが並び、セシルは一人ひとりの依頼書に判を押していく。
「いってらっしゃい。お気をつけて」
最後の一人を送り出すと、セシルは窓口の台をきれいに拭いて、制服の胸元から名札を外した。
「先輩ぃ……本当に辞めちゃうんですかぁ……」
「ペトラ、それもう十回目よ」
「だってぇ……」
「セシルさん、たまにはお茶を飲みに来てくださいねぇ」
「ええ、もちろん。エミールも連れてくるわ」
ペトラに抱きつかれ、ノエラに手を握られて、セシルは笑った。
それから、ふと広間の奥を振り返った。冒険者たちが潜っていく、あの通路のほうを。
誰もいない暗がりに向かって、セシルは深く頭を下げた。
「長い間、お世話になりました」
ペトラが「先輩、誰に言ってるんですか?」と首をかしげる。
「……なんとなく。ここには、ずっと守ってもらってた気がするから」
そう言って笑うと、セシルは広間を出ていった。入口の外で、継ぎの当たっていない新しい鎧を着た青年が待っていた。
……十分だ。
あの子は、俺がいることを知らないまま行けばいい。
◇
翌朝、広間はいつもどおりに騒がしかった。
セシルのいた窓口には、新しく入った受付嬢が座っている。まだ判の押し方もおぼつかない子で、さっきから書類を逆さにしかけては、隣の窓口に止められていた。
「違う違う、それ逆さ! ほら、ここの角を上にするの」
「す、すみません、ペトラさん……」
「謝らなくていいって。私も最初はよくやったんだから」
短い赤毛を揺らして、ペトラが新人の手元をのぞきこんでいる。
いつの間にか、この広間でいちばん長く勤めているのは、この子になっていた。
「それにね、ここは恋結びのダンジョンなんだから、笑顔でいれば素敵なご縁があるよ! 先輩もそうだったでしょ? だから、次は私の番ですよね!」
……まだ早い。
考えてみれば、ペトラももう三年近くあの窓口にいる。朝いちばんに来て、誰よりも大きな声で「いってらっしゃい」を言うのは、昔からこの子だった。セシルの後ろで恋の話ばかりしていたな。
そういえば最近、この子の窓口の声ばかり聞いている気がする。
「よう、ペトラちゃん。今度、仕事が終わったら飯でもどうだい?」
見れば、ペトラの窓口の前に、見覚えのない冒険者が肘をついていた。やけに派手な首飾りを下げて、にやにやと笑っている。
「えー、どうしようかなー」
……なんだ、あの男は。
娘が欲しければ、俺のダンジョンを攻略してみろ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
もし「面白かった」と思っていただけましたら、下の☆☆☆☆☆から評価をいただけると、とても励みになります。ブックマークや感想もお待ちしています。




