遡行する愛
別れ話をしたのは、冬の終わりだった。ファミレスの窓際で、彼女は静かに水を飲み、私は溶けかけた氷をストローで押していた。外では、灰色の雪が降っていた。誰も泣かなかった。怒鳴りもしなかった。ただ、「もう無理だね」と彼女が言い、私は、「そうだな」と答えた。それだけだった。
だが、店を出た瞬間から、奇妙なことが起きた。私は、彼女を少し好きになっていた。別れる直前まで、私は疲れていたのだ。彼女の癖、ため息、遅刻、同じ話を繰り返すところ、その全部にうんざりしていた。だが、別れたあと、なぜかその記憶が柔らかくなった。
翌日には、もっと好きになっていた。私は彼女とのメッセージを読み返し、こんなに面白い女だったかと思った。三日前には腹が立っていた文面なのに、今は笑える。五日前に喧嘩した内容も、「あれは俺が悪かったかもしれない」と思えてくる。
一週間後、私は彼女に夢中になっていた。仕事中、彼女のことばかり考えた。笑い声。髪。歩き方。コンビニで肉まんを選ぶときの妙な真剣さ。私は胸を締めつけられた。今すぐ会いたかった。だが、彼女はもういない。別れたのだから当然だ。
しかし、それだけでは終わらなかった。時間が経つほど、恋は激しくなっていった。一か月後、私は完全に彼女へ恋をしていた。付き合いたてより、出会った頃より、何倍も。思い出すだけで息が詰まるほど愛しかった。世界中の女が消えても構わないと思った。彼女だけいればよかった。
だが、そこで私は異変に気づく。彼女の記憶が、新しくなっているのだ。普通は逆だ。古くなるはずだ。輪郭が曖昧になり、声も忘れてゆくはずだ。なのに、彼女の姿は日ごと鮮明になった。昨日より今日、今日より明日。まだ知らなかった表情まで思い出せる。
私は混乱した。そして、ある夜、気づいてしまった。これは、“逆流”しているのだ。恋が。別れを起点にして。私は急いで昔のアルバムを開いた。写真の日付を見る。去年。二年前。三年前。見るほど、胸が激しく疼く。そして、古い写真になるほど、私は彼女を強く愛していた。
付き合った日の写真では、私は泣いていた。初デートの写真では、彼女の指先に触れただけで震えていた。まだ友達だった頃の写真では、私はほとんど発狂寸前の顔で彼女を見ていた。
時間を遡るほど、愛情が増している。私は恐怖した。もし、このまま遡り続けたら、どうなる?答えはすぐ分かった。
“出会い”だ。
出会った瞬間に、愛は最大になる。私は眠れなくなった。そして、ある朝、駅前で彼女を見つけた。まだ、出会う前の彼女だった。少し若い。知らない服を着ている。私を知らない目をしている。
だが、私は知っている。私は、この女を、人生のすべてを捧げるほど愛している。彼女は、改札の前でスマホを落とした。私は反射的に拾う。
「あ、すみません」
彼女が笑う。私はその瞬間、胸を押さえた。耐えられない。愛しすぎる。この先、別れると知っているのに。この先、愛がさらに巨大になってゆくと知っているのに。彼女は首を傾げた。
「……どうしました?」
私は答えられなかった。なぜなら、その瞬間、私は彼女に一目惚れしたからだった。私は、何か話そうとしたのであるが、それを心に秘めながら、彼女に「何でもありません。本当に何でもないんです」と言うと、笑顔を浮かべ通り過ぎるのだった。
駅から離れて私は深呼吸をする。遡って、遡って、どうなるのだろうか。と思っていたら、すっぽりと彼女の存在が消えていた。何か、私は心が痛んでいるような気もしていたのであるが、それもすっかりなくなっていた。とても風通しの良い気持ちで、駅の前のロータリーを歩いている。
近くの公園のベンチに座ると、隣には彼女がいた。私に弁当を作ってくれているようだった。それはいつもの弁当であり、ミニトマト、卵焼き、焼きサバ……。彼女の顔を見ると、まるで外人の美女のように繊細な目鼻立ちで美しかったが、その美しさが鮮やかに証明しているかのように、全く見覚えがなかった。恐らくずっと付き合っている彼女なのだろう。ふと、ピンクの桜の木の花びらが満開で、とても綺麗だなと思って、振り返り、彼女に同意を求めたら、ベンチには、彼女もいないし、弁当もなくなっていた。




