第一話「心は震えているか」
過去に手放した翼を再び手に入れる話。
湘南の海風が、夕暮れの街に湿り気を運んでくる。
神奈川県小田原市。国道1号線から一本入った路地にあるシェアハウス『なぎさ』のガレージに、1台のスクーターが滑り込んだ。
ホンダ・リード125。
宮月 優香理は、日々の通勤において絶対的な信頼を置いているその「実用車」のエンジンを切り、手慣れた動作でセンタースタンドを立てた。
ガチャン、という硬質な音が、1日の業務終了を告げる合図のように響く。
リアボックスを開けて通勤用のバッグを取り出し肩にかける。
ガレージを出てヘルメットを脱ぎ、乱れた前髪を指先で整えていると、窓の開く音がした。
ウッドデッキに顔を出したのは、隣の部屋に住む、弦弓 真希だ。彼女はいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「ねえ、優香理ちゃん。大型はもう乗らないの?」
優香理はヘルメットを抱えたまま、眼鏡の奥の瞳をわずかに細めた。
「……今の所、トラックに乗る予定はありません。私の免許に『大型一種』は含まれていませんので」
「いやいや、そっちの大型じゃないって。バイクの方だよ」
真希がウッドデッキに腰を下ろす。優香理は小さく溜息をつく。
「……いります?」
「だって、今乗ってるのリードだけでしょ。それじゃ高速に乗れないじゃん」
「通勤で使っているだけですから、高速道路を利用する必要がありません。今の私の生活範囲を考えれば、この125ccが一番効率がいいんです。維持費も安く、小回りも利く。これ以上の選択肢があるでしょうか」
優香理の淡々とした反論に、真希は唇を尖らせた。
スタジオミュージシャンとして音の「感情」を重んじる彼女にとって、優香理の徹底した現実主義は、どこかもどかしいものに映るらしい。
「えー。ハヤブサに乗ってた頃の、あのギラギラした優香理ちゃんはどこに行っちゃったわけ?」
「真希さんも知ってるでしょ?就活のときにハヤブサを手放して一緒に断捨離したんです」
優香理は表情一つ変えずに即答した。
かつて彼女が駆っていたスズキ・GSX1300Rハヤブサ(GX72B)。
最高時速300kmを標榜するその怪物は、今の彼女に言わせれば「所有するにはあまりに過剰で、持て余してしまう代物」だった。
「もったいないなあ。……いこうよ、また二人で高速ツーリング」
「年に数回も行かない長距離旅行のために、大きなバイクを自分で維持するのは無駄が多いです。必要な時にレンタルすれば十分でしょう」
「でも優香理ちゃん、いざレンタルする時、250ccとか中型しか借りてこないじゃない」
痛いところを突かれ、優香理の眉がわずかに動いた。
「……もう、最高速度といった数字に執着するのは止めたんです」
「新東名で、ヒイヒイ言ってたくせに。あの時、エンジン悲鳴上げてたよ?」
「ああいうところは100キロで巡航できれば十分です。一番左の車線でおとなしく走っていれば、警察に止められることもありませんし」
「峠に入ると、すぐミラーの点になるクセにさ」
真希のからかうような視線を、優香理は冷ややかに受け流した。
「大怪我をして人生を台無しにするつもりは、微塵もありませんので」
優香理はそう言い切ると、夕闇が迫るリビングへと歩き出した。背後から「えー、冷たいー」と真希の笑い声が追いかけてくる。
自室に戻り、慣れた手つきでPCの電源を入れる。モニターの光が眼鏡に反射した。
真希を正論で黙らせたはずの胸の奥底で、完全に消し去ることができていない未練のようなものが、静かに燻っているのを自覚していた。
(……とは言っても。未練がないわけではないですが)
デスクトップ画面を見つめながら、優香理は思考を巡らせる。
ハヤブサという存在は、確かに今の自分には重すぎて、持て余すものだった。だが、もし。
(重量220キロ以下であれば……。取り回しの負担を抑えつつ、高速道路でも余裕を持って走れる、そんなバイクが存在するのなら……)
無意識のうちに指先が動き、ブラウザの検索窓に「軽量 大型 1000cc」という言葉を打ち込んでいた。
(真希さんのCBRと一緒に走る以上は半端な排気量では…、できればリッターが好ましいです。予算は40万円以下である必要がありますね…)
車とバイク(リード)の維持に余裕が出てきた今、優香理が維持費を残して無理なく使えるお金はその程度しかない。
本来ならミドルクラスを狙う様な金額でリッターモデルを買う事にしたのだ。
(とはいえ…ハヤブサを買う時の対抗馬だったYZF1000Rであれば、もしかしたら)
そう思い、インターネットで中古車を検索すると
「えぇ…サンダーエースっていまこんなにタマ数も少なくて価格も高いの…?」
元々逆輸入車かつ当時は知名度が低かったこともあり入手は困難だった。
「社長に聞いてみるかなぁ」
ゲーミングチェアの背もたれにもたれながら天井を見つめる。
購入条件は
ヘッドライトは1灯式(意外と高く付くバルブ代をケチりたい)
750cc以上1000cc以下(概ね80〜100馬力あれば最高)
重量上限220キロ程度(重さは敵、出来れは200キロちょっとがいい)
1997年頃以降の年式(古すぎると部品が無い)
フルカウルもしくはハーフカウル(ビキニカウル可)
予算は40万円(タイヤ代がある場合は別途実費)
メーカーは国内4メーカーであれば不問。(スズキ優遇)
前後17インチサイズ(出来れは汎用性の高いサイズ)
「……やはり、現実的じゃないわね」
優香理はゲーミングチェアの背もたれに深く体を預け、天井を見つめた。
大型バイクの維持費、今の自分のスキル、そして何より「真希のフルパワーCBR954RRと一緒に走る」という高い要求スペック。それらを40万円という極小の予算で満たすのは、壊れたプログラムを修復するより困難なパズルに思えた。
だが、あきらめきれずに最後の検索クエリを走らせる。
「……軽量、大型、1000cc。1灯式……」
検索結果の最上段に、1枚の画像がポップアップした。
画面を埋め尽くしたのは、鮮烈なイタリアンレッド。
大きく口を開けたサイドエアインテークと、潔い1灯式のヘッドライト。スリムな車体に押し込まれた、巨大なV型2気筒エンジン。
「……ホンダ、VTR1000F」
ホンダVTR1000F Firestorm。
1997年式。装備重量約214kg。国内仕様93馬力。
そして、画面に表示されている個体は「走行3万2000km、車検整備付き、総額38万円」。
優香理の指先が止まった。
スズキ愛好家を自称する彼女にとって、ホンダの、それも情熱を絵に描いたような赤いバイクは、本来なら選択肢の枠外にあるはずのものだった。
しかし、数字が語っていた。
この軽さなら、ハヤブサのように持て余すことはない。
この馬力なら、真希の背中を追うこともできる。
そしてこの価格なら、自分の生活を壊さずに済む。
「……バグ、ですね」
優香理は自嘲気味に呟いた。
論理では説明できない何かが、視神経を通じて彼女の優先順位を書き換えていく。
* * *
翌朝、国府津の空は抜けるような青に染まっていた。
宮月優香理は、通勤用のリード125を走らせ、数分もかからずに『モーターハウスアイランド』の店先へと滑り込んだ。看板には、地元の人々に親しまれている町のバイク屋らしい、穏やかな空気が流れている。
「おはようございます、社長。オイル交換お願いします」
「おう、優香理ちゃん。リードのオイル交換か? 相変わらずマメだねえ」
ツナギ姿のシマ社長が、奥のピットから顔を出して手を挙げた。優香理はヘルメットを脱ぎ、事務的なトーンで頷く。
「ええ、前回の交換から2500キロを超えましたので。それと……少し相談したいことがありまして」
オイルを抜く準備を始めたシマ社長の背中に向かって、優香理は昨夜から温めていた本題を切り出した。
「ヤマハのYZF1000Rを探しているんです。予算は40万円程度で。……やはり難しいでしょうか?」
シマ社長は作業の手を止め、苦笑混じりに振り返った。
「サンダーエースか。渋いところを突いてくるなあ。でも、今となってはタマ数も少ないし、まともな個体は予算を軽く超えちまうよ。うちの在庫のMT-07やVFR800Fも、その予算じゃちょっと厳しいな」
予想通りの答えだった。優香理は「やはりそうですよね」と、自分を納得させるように呟いた。
やはり、身の丈に合ったレンタルバイクを借りて過ごすのが正解なのだろうか。そう思い、手持ち無沙汰にピットの奥へと視線を向けた、その時だった。
整備スペースの片隅。
まだナンバープレートが付いておらず、昨日まで走っていたような雰囲気を残している1台のバイクが、優香理の視界に飛び込んできた。
鮮烈なイタリアンレッド。
それは昨夜、画面越しに見ていたあの「火の嵐」と瓜二つだった。
「……社長。あのバイクは?」
優香理の視線を追い、シマ社長が「ああ、あれか」と顎をしゃくった。
「2001年式のVTR1000Fだ。SC36の後期型。昨日、下取りで入ってきたばかりの奴だな。まだチェックも清掃もしてない、入庫したてのホヤホヤだよ」
優香理は吸い寄せられるように、その赤い車体のそばへと歩み寄った。
サンダーエースの流麗なラインとは違う、無骨さとスマートさが同居したハーフカウルのデザイン。大きな1灯式のヘッドライトが、まるで獲物を見定めるようにこちらを見つめている。
「後期型……。18Lタンクになって、メーター周りも一新されたモデルですね」
「よく知ってるな。お前が探してた条件には近いんじゃないか? 走行距離は2万8000キロ。外装も年式の割に綺麗だ」
シマ社長の言葉が、優香理の頭の中で完璧な論理として組み上がっていく。
40万円という予算。1000cc。軽量なV型2気筒。そして、今目の前にあるのは、ホンダが作った情熱の塊。
「……昨日入ってきたばかり、ですか」
「ああ。まだ売り物として店にも出してない。どうだ、跨ってみるか?」
優香理は無言で頷き、サイドスタンドで自立している赤いVTRに跨った。
細身のタンクが、まるで誂えたかのように太ももにフィットする。ハヤブサのような威圧感はなく、かといってリードのような頼りなさもない。そこには、走りへの期待を抱かせる「密度」だけがあった。
「……いいですね。これ」
優香理の口から、無意識に本音が漏れた。
論理的な選定など、もはや建前に過ぎなかった。彼女の胸の奥で、長い間休止していたやる気が、一気に再起動を始めていた。
サイドスタンドを払って車体を直立させると、その驚くほどの軽さに優香理は内心で舌を巻いた。
乾燥重量190キロ台。かつて乗っていたハヤブサとは比べ物にならないほど、コンパクトで手の内に収まることが直感的にわかる。
視線を落とし、後期型から採用されたアナログ二眼と液晶が組み合わさったメーターパネルを覗き込む。
シマ社長がキーを捻ればメーターパネルが火を灯す。
ニュートラルランプにオイル警告灯、デジタル表示の走行距離は『27,898km』を示していた。
「…意外と軽いですね」
VTRから降りると優香理の鋭い観察眼が、車体に組み込まれた数々の高価なパーツを次々と捉えていく。
「このマフラー……モリワキのフルエキ(フルエキゾーストマフラー)ですよね。しかも、リア周りが引き締まって見えるアップタイプ」
「おお、よくわかったな。それ、今はもう手に入らない絶版品だぞ。当時新品で組めば20万は下らない代物だ。チタンだからめちゃくちゃ軽いし、Vツインのいい音鳴らすんだ、これが」
「ゴールドの社外レバーにスポーツグリップヒーター?にETC車載器も?」
「前のオーナーがうちで新車を買って車庫保管で大事に乗っててな。ツーリング仕様にきっちり手を入れてたんだよ」
優香理の脳内で、高速な計算が弾かれた。
絶版のモリワキをはじめ、これだけ充実した実用装備が揃っていれば、購入後の追加投資はほぼゼロで済む。
「ただ、弱点もある。タイヤは替えないとだめだ」
シマ社長に促され、優香理がしゃがみ込んで確認すると、ひび割れが目立ち始めた古びたタイヤが装着されていた。
「ミシュランのパイロットロード4……17年の50週製造なら、ほぼ7年落ちですね。溝も残り2部山くらいですね」
「そう。乗る頻度が減ってタイヤは硬化しちまってる。だから納車するなら、前後とも新品タイヤに交換するのが絶対条件だ」
優香理は立ち上がり、最も重要な質問を投げかけた。
「……社長。この個体、新品タイヤへの交換と車検取得も含めて、総額でおいくらになりますか?」
シマ社長は顎の無精髭を撫でながら、少し申し訳なさそうに言った。
「お前さん、さっき『予算は40万』って言ってたな。……悪いが、それじゃ出せない。タイヤの部品代と工賃、油脂類を全部リフレッシュして、車検を2年付けて……ギリギリ限界まで頑張って、総額45万だ」
45万円。
優香理は沈黙した。車とリード125を維持しながら無理なく捻出できる予算上限を、明確に5万円超過している。
「……少し、考えさせてください」
即決は危険だった。優香理はそう言い残し、後ろ髪を引かれる思いでアイランドを後にした。
* * *
その日の夜。
シェアハウス『なぎさ』の自室。優香理はゲーミングチェアに深く沈み込み、腕を組んで天井を睨みつけていた。
予算オーバーの5万円。
生活費を切り詰めれば出せない金額ではない。しかし、彼女の「効率と計画性」を重んじる信条が、予算超過という事実に対して警告を鳴らし続けていた。
(ですが……あの構成はどう考えても破格)
目を閉じれば、鮮烈なイタリアンレッドの車体が脳裏に浮かぶ。
「でもホンダなんですよねぇ…」
絶版のモリワキ管、グリップヒーター、ETC。これらを後から買い揃えれば、5万円などあっという間に吹き飛んでしまう。そして何より、あの軽量なVツインの車体は、自分の体格と用途にこれ以上ないほど合致していた。
(中古車は一期一会。あの条件が揃った個体が、再び私の目の前に現れる確率……限りなくゼロに近いですね)
夜が更けていく中、優香理の中で「論理的な予算管理」と「ライダーとしての情熱」が激しくぶつかり合っていた。
真希と一緒に、あの赤いバイクで高速道路を駆け抜ける自分の姿を想像してしまう。ハヤブサを手放した時から封印していたはずの高揚感が、胸の奥で静かに、しかし確実に燃え上がっていた。
「……負けました」
静かな部屋に、優香理の小さなため息が落ちた。
翌朝。
出社前のわずかな時間を利用して、優香理はスマートフォンを手に取った。
宛先は、モーターハウスアイランドのシマ社長。
『昨日のVTR1000F、45万円で購入します。契約の手続きをお願いします』
送信ボタンをタップする指先に、迷いも後悔も、微塵もなかった。
何だかんだ言っても優香理も大型に乗りたいだけなんです。
ミドルクラスにしなかったのは、リッター車に乗りたい欲が6割、同級生への見栄が4割です。あとは程度の良い個体を求めるとどれも変わらない価格になるからですね。
登場人物
宮月 優香理
職業:会社員
家族:両親
愛車:ホンダ リード125(2021年式、JF45後期、2022年購入)
:ホンダ VTR1000F(2001年式、SC36後期、2025年購入)
バイク歴:TT250Rレイド(1994年式、4GY、2012年購入→2014年売却)
GSX1300R ハヤブサ(10年式、GX72B、2014年購入→2019年売却)
アドレスV125S(2012年式、CF4MA、2015年購入→2022年売却)。
概要:シェアハウス なぎさの買い出し担当。大型二輪免許所持。7年前までスズキの大型バイクGSX-1300Rハヤブサに乗っていたが、就職に伴って一人暮らしを始めるに当たり維持できないと考えて売却。それ以来原付二種スクーター生活。2年前に車を購入した。
たまに大家さんのCRF250Lを借りたり、レンタルバイクで済ませていた。ボーナスが思ったより多かったため、昔欲しかったYZF1000Rを買おうとしたが、予算の都合で行きつけの店に下取りで入ってきた真紅のVTR1000Fを現状車として購入し、MT車のリハビリをする事にした。
ホンダ VTR1000F
色:イタリアンレッド
年式:2001年式(後期)
走行距離:27,898km(購入時)
購入年:2025年
型式:SC36
仕向:国内仕様




