愛だけが真実だと言うのなら、契約通りに離婚して差し上げましょう
「頼む、ルフレダ。離婚してくれ。シモーヌと……かつての恋人とついに結ばれることができるんだ……」
ルフレダは冷徹な瞳で、目の前で土下座する夫――カシアン・サージェス子爵を見下ろした。
カシアンの言葉に、ルフレダは手にしていたティーカップを静かに皿へ置く。
カチリ、という硬質な音が、静まり返った執務室に響く。
五年前。
カシアンとルフレダが結婚した時、サージェス子爵家は破産寸前だった。
先代の放蕩と不作が重なり、名門子爵家の看板は既にボロボロの状態。
そんな中、伯爵家の次女であり、領地経営の才に長けていたルフレダ・オルカーセン伯爵令嬢が莫大な持参金と共に嫁いだ。
それは、家を救うための契約であり、同時にオルカーセン伯爵家にとってのビジネスでもあった。
そんな過去を振り返りながら、土下座したままの夫をルフレダは冷たく見つめ続ける。
「彼女とは、私が騎士学校に通っていた頃に知り合った。あの時は身分が違うと親に反対され、無理やり引き裂かれ、彼女は別の男と結婚したんだが……つい最近、離婚した。私は片時も彼女を忘れたことはなかった。ルフレダ、君との結婚は家を守るための『妥協』だったんだ。今の私には、自分を偽ることはできない」
土下座をしているカシアンの隣には、やつれた、しかしどこか儚げな美しさを残す女性、シモーヌが寄り添っている。
シモーヌはカシアンの隣に並ぶように膝をつき、震える声で言った。
「申し訳ありません、奥様。ですが、私たちの愛は、本物なのです。この愛は……身分や時間では消せなかったのです……」
ルフレダは内心で深く溜息をついた。
馬鹿馬鹿しくて相手にしたくないというのが本音だ。
ルフレダがこの五年間、どれほどの労力を割いて、カシアンの領地の借金を完済し、特産品を開発し、街道を整備したか。
彼女が夜遅くまで帳簿と格闘している間、この夫は「愛」という名の甘い感傷に浸っていたというわけなのだろう。つまり、ただの浮気である。
くだらないとまでは言わないが、腹が立つのは否定したくない。
「『妥協』、ですか。カシアン様。あなたがその妥協の対価として、私の持参金でどれだけの美食を楽しみ、上等な服を誂えてきたか、お忘れではないでしょうね?」
「金の話をするな! 君はいつもそうだ、冷酷に数字のことばかり。家でのうのうと贅沢をしている君には、私と彼女が耐えてきた心の渇きなど分からないだろう! オレにとってはこのシモーヌとの愛だけが真実だ!」
ルフレダは、はっきりとその整った眉を顰めた。
(私がのうのうと贅沢をしている、ですって? 馬鹿なの? いつ、自分で領地経営をしていたつもりになったのかしら?)
ルフレダが管理しているのは、この屋敷や雇っている使用人などの予算、つまり家政のものだけではない。
領内の商会との契約、教区への寄付、果ては夫の愛馬の飼料の選定に至るまで、すべて彼女の頭脳が差配している。
対して、夫のカシアンがしていることといえば、ルフレダが用意した書類にサインをし、社交界で「復興の立役者」として賞賛を浴びることだけ。
(……夜会でおだてられている内に勘違いでもしたのかしら? 馬鹿馬鹿しい。それに、ただの浮気を真実の愛だなんて、言い訳以外の何物でもない)
元々、ルフレダには夫のカシアンに対する愛などという感情はない。
ルフレダは契約と責任、そこに重きを置いていたのだから。
「分かりました、カシアン様。そこまでおっしゃるなら、離婚いたしましょう」
色々と不満を並べられるに違いないと考えていたカシアンとシモーヌは呆気に取られた。
予想が外れてあっさりとルフレダが離婚を受け入れたのだ。
「い、いいのか? 意外と聞き分けがいいのだな。やはり、君も私への愛などなかったということか」
「ええ、一瞬たりとも。私は人として当たり前の義務と責任、そして契約を重んじておりましたもので。ただ……この領地で真面目に働く領民たちは愛していたかもしれません」
ルフレダは机の引き出しから、一冊の厚い革綴じの帳簿と、数枚の羊皮紙を取り出す。
「では、事務的な手続きに移りましょう。まず、不貞の証拠についてですが。シモーヌ様をこの街の宿屋に囲うために、あなたが『道路補修費』の名目で領地の公金を横領した記録は、すべてこちらの帳簿にまとめてあります。金額にして金貨三〇枚。これは重罪ですよ?」
「なぜ、それを……」
カシアンの顔がみるみる青ざめていく。
「い、いや! それは彼女を救うためという、高潔な理由があったのだ!」
「理由がどうあれ、横領は横領です」
ルフレダは冷たくそう告げて取り合わない。
「次に、婚姻契約書に基づき、離縁の際の条件を確認しましょうか。第一に、私の持参金の全額返還。第二に、この五年間で私が私財を投じて整えた街道や農場に関する必要経費の全額返還。第三に、『北部の鉱山の権利』のオルカーセン伯爵家への移譲。全てこちらの帳簿で確認できる数字です」
「待て! なんだその話は!? 聞いてないぞ!?」
「何を言っているのです? 婚姻時はまだお義父様が子爵位にありましたがあなたもこの契約を結ぶ場にはいたではないですか?」
「け、契約……馬鹿な……」
「王国の公証人もいたのでこれは正式な契約です」
「だ、だからって鉱山まで持っていくというのか!?」
「はじめからそういう契約でしたから」
ルフレダはわざと、こてり、と首を傾げてみせた。仕草だけは可愛らしく。
「……カシアン様、あなたは『シモーヌとの愛だけが真実だ』とおっしゃった。ならば、私が築いた富や地位、経済的基盤など、あなたの高潔な愛には不要なはずでしょう? それともその愛よりもお金が大事だとでも?」
ルフレダの声は、冬の初雪のように静かで、残酷なほどに……カシアンとシモーヌの耳に響いた。
カシアンは反論できずに黙り込み、シモーヌはそんなカシアンの手をギュッと握るだけだった。
数日後、ルフレダは最低限の荷物を馬車に積み込み、子爵家を去った。
もちろん、契約通りのものは全て回収している。
サージェス子爵家は3年先までの税収のおよそ4割をルフレダに支払い続けなければならない。
税収を6割残して3年先までとしたのはルフレダの温情ではなく、資金回収に必要な領地の維持のためという冷徹な判断でしかない。
もし、税収が下がればルフレダに支払う割合は半分どころか、7割、8割にも届くだろう。
ルフレダがいなくなれば、そうなる可能性は高い。
ルフレダはこの数日間、婚姻時の契約に伴う取り立てに関する仕事しかしなかった。
通常の執務は全て放棄したのだ。
それはもはやルフレダの責任ではないから。
ルフレダがいなくなった途端、子爵邸は混乱の極みに達した。使用人のほとんどがルフレダと共に去ったということもある。
カシアンは、毎月の商会への支払いをどうすればいいのかすら知らなかった。
当然、帳簿の書き方も、領民の陳情への答え方も、何も分からない。
自分が無能だということすら、知らない哀れな男。
一方、ルフレダは王都に戻ると、すぐに実家の伯爵家に顔を出した。
その場で鉱山の権利書を引き渡し、父である伯爵からのいくつかの質問に答えるとすぐに伯爵家のタウンハウスからも出ていく。
ルフレダがいた五年間、サージェス子爵家の領地経営は成功していた。
だから、回収した持参金や投資した私財によって膨らんだ利益などで、ルフレダの個人資産は巨額になっていたのだ。
特に困るようなこともなく、サージェス子爵家から引き抜いた使用人たちとともに海辺の別荘でのんびりと暮らすルフレダ。
この五年間の忙しさを考えると、そういう時間がルフレダには必要だったのかもしれない。
数年後のある日、ルフレダの元に、元夫に関する報告書が届く。
カシアンとシモーヌは、荒れ果てた屋敷で細々と暮らしているという。離婚時に少なくなった使用人は今ではゼロになったらしい。
カシアンは日ごとにシモーヌを「お前のせいで金を失った」となじり、シモーヌは「あなたが情けないからこんなことになった」と泣き喚く日々。
かつての「引き裂かれた悲恋」という美しいフィルターが剥がれ落ちた後には、ただの無能な男と、自活する能力のない女の、醜い擦り付け合いだけが残ったようだ。
爵位の返上を近々王家が求めるという話も出ている。
若かりし頃、カシアンとシモーヌは確かに愛し合っていたのかもしれない。
しかし、その愛は既に尽きてしまったらしい。
ルフレダは届いた報告書を一読し、それを暖炉の火に投げ込む。
「『愛』なんて、屋根とパンがあって初めて成立する贅沢品よ。まして、妻に対する誠実さすら持っていない男の『真実』なんて、本物であるはずがないわよね」
ぱちぱちと爆ぜる火を眺めながら、ルフレダは優雅にワインを口に含む。
彼女の視線の先には、もう過去の残骸などは映っていない。自らの力で切り拓いた、どこまでも続く黄金色の未来だけが広がっている。




