驢馬のおはなし
とある商家に怠け者の次男坊がいました。その次男の怠けっぷりといえば、仕事の手伝いをしないどころか、下男や下女を手足のようにこき使い、自分ので家の中を移動することも嫌がって、輿で移動するほどでした。
ある日とうとう我慢を切らした母親は、絨毯に寝っ転がってイチジクを食べている次男に枕を投げつけながら言いました。
「そんなに働くのが嫌なら、驢馬にでもなっておしまい!」
母親がそう言うと、驚いたことに、次男坊の耳は見る見るうちに長く伸びました。次に手が蹄になり、尻尾が生えてきました。全身にびっしりと毛が生えて、とうとう次男坊は本当に驢馬になってしまいました。
驢馬になってしまった次男は慌てて家を飛び出し、走りに走りました。しかし、怠け者で外に出るにも人に運ばせていた程だった次男坊は、すぐに疲れて走れなくなってしまいました。結局町を出ていくばくもない道端で蹲り、そこからどうしようもありません。
そこへ一人の老人が通りかかりました。平たい帽子とガウンを着て、腹の出た、髭の白い、人の良さそうな男です。老人は道端でしゃがんでいる驢馬を見つけると、手を叩きました。
「おお、これは丁度良かった。道端で偶然驢馬に出会えるとは運がいいのう」
老人は喜んで驢馬の上に跨りました。しかし跨る方向が前後逆です。老人は驢馬のお尻の方を向きながら、町を指差して言いました。
「町までもうすぐというところでへとへとに疲れていたんじゃ。これ、驢馬や、町まで運んでくれんか」
次男坊の方は、急に背中に乗られたのだからたまりません。慌てて立ち上がると、老人を背に乗せたまま町とは反対側へと駆け出しました。
「おい、どっちへ進んどるんじゃ、町はあっちじゃよ、あっち」
背中の上で老人は叫んでいます。
日が沈んで夜になりました。夜空に丸く月が浮かんでいます。
老人は驢馬の背で逆向きに座りながら、遠くなっていく町並みを見つめていました。
「はあ、暗くなる前に町に行きたかったのじゃが……。今夜はどこかに泊めてもらうしかないのう」
一方、次男の方は喉が渇いてからからでした。しかしここは自分の屋敷ではなく街の外で、下男も下女もいなければ、驢馬なので誰かに命令することもできません。おまけに、背中には勝手に背中に乗ったまま降りてくれない老人が何事かぶつぶつ呟いています。
ふと、道の傍に井戸を見つけました。驢馬は嘶き、老人を乗せたままそちらへと近づきました。
「おう、どうしたんじゃ急に……おお、井戸がある。これで水が飲める、ありがたや」
驢馬の姿のままでは井戸を使うことはできません。次男は井戸のそばまで行って立ち止まりました。その時、雲が出てきて月を覆い隠しました。
老人は驢馬の背中から降りて中を覗くと、驚いて大声を上げました。
「ややっ、これは大変だ。お月さんが井戸の中に落ちてしまったようじゃ」
そんなわけはない、井戸の底の水に月が映っているだけだろう。次男は呆れて空を仰ぎ見ましたが、空は真っ黒でどこにも月は見当たりません。次男は驚いて、自分が驢馬であることも忘れて井戸の側へと駆け寄りました。
「おーい、お月さんや、今助けるからのう」
老人は井戸の底に向かって呼びかけると、つるべを井戸の中へと投げ込みました。それから井戸の綱を引きましたが、どこかで引っかかっているのか、なかなか綱が引き上がりません。老人は次男に向かって言いました。
「おい、驢馬や、そこで突っ立ってないでつるべを引くのを手伝ってくれんか。お月さんが重くてなかなか引っ張り上げられないんじゃ」
次男は戸惑いながらも言うことに従い、老人の着ている上着を引っ張りました。誰かの手伝いをすることなど、次男にとっては初めてでした。
一人と一頭で踏ん張って、思いきり綱を引くと、すぽん! と急につかえが外れました。一人と一頭は勢い余って、後ろへひっくり返りました。
次男が四つ足で苦労しながら立ち上がると、目の前にお月様がふんわり浮かんでいました。
「いやあ、助かりました。うっかり空から落ちてしまって、参りましたよ。まさかこんなところに井戸があるとは。井戸の水って空よりも冷たいんですね」
月はうすぼんやりと光りながら言いました。驢馬は驚いて月を見ていますが、老人はしきりに頷きました。
「いや良かった、良かった。わしのおかげでお月さんがお空に帰れたんなら悔いはないわい」
「いえ、天はもっと高いところにあるので、ここからでは帰れません。私が空に帰れるまで、しばらく一緒に行ってもいいですか」
月はそう言うと、ぺかりと光りました。
一人と一頭と一月が歩いていくと、分かれ道がありました。次男だった驢馬は、戸惑って道の手前で足を止めました。行く宛などどこにもなかったからです。
「どうしたんじゃ」と老人が問いました。
驢馬は耳と尻尾を下に垂らしながら首を横に振りました。
「どっちに行けばいいかわからないんだ」呟いて、次男はびっくりしました。いつの間にか自分が驢馬の舌で喋れるようになっていたことに驚いたのです。いや、今まで驢馬は喋れないものだと勝手に思い込んでいただけのことかもしれません。
背中の老人は驢馬の様子には気にもとめず、ポンと手を叩きました。
「おお、思い出した。昨日の晩、あっちの家に鍋を一つ貸してきたんじゃ」と言って、右の道を指し示しました。
「あそこに行けば、宿を貸してもらえるかもしれん。少なくとも、鍋は返してもらえるじゃろうて」
怠け者の次男はもうこれ以上歩くのは嫌でしたが、こんな寒くて固いところで野宿するのも同じくらい嫌でした。嫌々ながら、老人の言う通り右の道を行くしかありません。
その道は路面の悪い上り坂でした。
次男はこんなにきつい坂を登ったことはありませんでした。いつも輿か馬車で移動していたからです。舌をはあはあ出し、震える蹄をなんとか動かし続けて、やっとの思いでその坂を登り切りました。
坂の上で一息つくと、満点の星空です。月がぺかぺかと光りながら言いました。
「やぁ、兄弟たちがとっても近くに見えるぞ。私の目的地まで少し近づきましたね」
そして坂を下り切ったところには、老人の言うとおり一軒家があるのが見えました。
一行は星空を眺めながら坂を降り、家の前に着きました。老人が家の扉をノックすると、一人の老婆が出てきました。
「ああ、お前さんかね。昨日はどうもありがとうよ」
「いやいや。困った時はお互い様じゃよ。それと、もしよければ今夜一晩泊めて欲しいんじゃ。夜になってしまってのう」
老婆は後ろの驢馬と月をじろりと見ると、老人に向かって首を振りました。
「あいにく、今夜は先約があってね。悪いが明日にしとくれよ」
老人はしょんぼりとして肩を落としました。
「それは仕方がない。それで、鍋は使い終わったかね?」
それを聞くと、今度は老婆の方が肩を落として、神妙な顔つきになりました。
「それが、昨日貸してもらった鍋なんだけどね。うちで子供を産んだんだよ」
「なんだって! 鍋が子供を産んだんじゃと!」老人は仰け反って叫びました。
そんなの嘘だ、鍋が子供を産むなんてあり得るはずがない、と驢馬は思いました。
「そうさ、でも生憎難産でね。子鍋を産んだあと、親鍋が死んじまったんだよ」老婆は沈痛な面持ちで、首を振り振り言いました。
老人は悲鳴を上げました。
月は狼狽して点滅しています。
老婆は一度家の中へ引っ込むと、小さな鍋を持って再度出てきました。深皿か鉢くらいの大きさの、可愛らしい鍋です。
「これが残った子鍋さね。親を死なせちまったのは悪かったけど、せめてこの鍋はあんたに返すよ」と老婆。
老人はがっくりと肩を落として、その子鍋を受け取りました。
一行は星明かりの下をとぼとぼと歩き出しました。
「爺さん、あんた騙されたな」驢馬は言いました。
すると、老人の持っている子鍋が喋り出しました。
「母のことは残念でしたが、僕も代わりになれるくらい頑張りますよ」
驢馬は驚いて後ろ足二本で立ち上がりました。しかし老人は驚かずに、
「あんたにゃまだ荷が重かろうて」と呟いただけでした。
一人と一頭と一月と一鍋が歩いていくと、道の反対側から一人の男が歩いてきました。男は両手にほかほかと湯気の立つ器を抱えています。一人と一頭と一月はお腹が減ってきました。すれ違えるところまで近づくと、老人は男に声をかけました。
「お前さん、そのスープは一体どこで手に入れたんじゃ。ちょいと分けてくれんか」
「嫌だね。これは俺が捕ってきたウサギを、あっちにある友達の家でスープにしてもらってきたんだ。全部俺のだよ。欲しいならあいつの家に行って余った分をもらってきな。あっちの大岩のふもとの家さ」と男。
そんなわけで、一人と一頭と一月は岩の向こうの一軒家を目指して歩いて行きました。
天までそびえていそうな大岩の足元に、岩をくり抜いて潜り込んだような小さな家がありました。家の天窓から、先ほど嗅いだのと同じいい香りが漂ってきます。
月がぺかぺかしながら言いました。
「ここを登って行ったら、天に帰れるかもしれません」
「天まで行ったら、お母さんの鍋に会えるかな?」と子鍋。
「ここを登るのはごめんだ」と怠け者の驢馬。
老人はいそいそと家の方に近づいていき、扉をノックしました。
「なんだね」とこれまた不機嫌そうな男が顔を出しました。
「すまんが、うさぎのスープを分けてくれんかね。腹が減って仕方がないんじゃ」
「なんでスープのことを知っとる」不機嫌そうな男は眉を顰め、さらに不機嫌そうになりました。
「あんたの家にうさぎの肉を持ってきた男がいたろう。わしらはそいつの友人じゃよ。それに、外にまでスープのいい匂いが漏れとる」
老人はそう言って、子鍋を差し出しました。男は一行をじろりと睨むと、子鍋を引っ掴んで中へと姿を消しました。
「なんであんな嘘をついたんだよ」ひそひそ声で驢馬が聞きました。
「嘘じゃない。わしらはあの男と挨拶もしたし会話もした。もう立派な友達じゃよ」老人は平気な顔で言いました。
「そしたらなんだ、おいらとあんたももう友達だって言うのかい」
「当たり前じゃろ。お前さんも、お月さんも、子鍋も、旅の仲間はみんな立派な友達じゃ」
驢馬はびっくりして固まりました。友達など一度もできたことがなかったのです。
その間に、家の中から男が小鍋を持って出てきました。小鍋からはほかほかと湯気が立っています。
「おお、ありがたいことじゃ」
老人は小躍りで受け取りましたが、子鍋の中を覗いて顎を落としました。肉はどこにもなく、スープの色は透き通って、まるで水だったのです。
「なんじゃこれは!」老人は驚愕して叫びました。
「スープの残った汁を水で薄めたものさ。具はもう全部食っちまったよ。あんたら、あっしの友達の友達なんだろ。なら、これはウサギのスープのスープだ。じゃあな」不機嫌そうな男は不機嫌なまま言い捨てて、扉を閉めてしまいました。
一行は呆然として、スープのスープを見つめました。
「お望みには叶わんかもしれねぇが、あんたらをあっためることくらいならできるだよ」スープのスープが口をききました。
「僕の中で喋らないでおくれよ」子鍋が文句を言いました。
一人と一頭と一月と一鍋と一杯は、大岩の上を登っていました。月が「ここからならきっと家に帰れる」と言ってきかなかったのです。岩山の道は、足元も悪い上に、冷たい風が吹き付ける場所でした。一行は凍えそうになるとスープのスープで暖をとりながら、なんとかかんとか岩を登って行きました。
「あっしが溢れる! あっしが溢れる!」とスープのスープ。
「暴れないでじっとしといてよ」と子鍋。
「なんでおいらまでこんな目に遭わなきゃいけないんだ」と驢馬。
「年寄りにはきついわい」と老人。
「おや、あれはなんでしょう?」と月。
一行が月の言葉に顔を上げると、前方に何かはためくものが見えます。老人が指を差しました。
「おお、布じゃ! これで寒さを凌げるわい!」
喜び勇んで手に取ると、それは古びた毛皮の上着のようでした。しかし汚れていて着れたものではありません。
「おいら嫌だよ、こんな薄汚れた布っきれに触るなんて」驢馬が蹄を引きました。
「なんだって! 俺様のことが着れねえってのかい!」
大声で叫んだのは毛皮の上着です。驢馬はびっくりして思わず大岩を転がり落ちるところでした。
「みなさん仲良くしてくださいよ」と月。
「それじゃわしが羽織るとしよう」と老人。
こうして、一人と一頭と一月と一鍋と一杯と一着になった一行は、とうとう岩の頂上へと辿り着きました。そこには、とてもとても大きくて立派なお屋敷がありました。岩の上だというのに、お屋敷の前には深さのある川が流れています。宴でもやっているのか、中からは陽気な笑い声が聞こえてきます。美味しそうな料理の香りもしてきました。
「着きましたよ。このお屋敷から天へ帰れるはずです」月が嬉しそうにぺかぺか光っています。
「それじゃ、お元気で」そっけなく上着が言いました。
「いやいや待て、ここまでわしらが送ってきたんじゃ。ご馳走くらい出してくれるかもしれん。ちょいと行ってみよう」
老人はそう言うと、屋敷の門へと小走りで近づきました。ところが、いくらもたたないうちに、老人は肩を落として帰ってきました。
「みすぼらしい身なりの者に開ける門はないそうじゃ。追い返されてしもうた」
老人はしょんぼりとして、自分のガウンのほつれた袖口を見ています。ここまで長い旅をしてきたので、みんな汚れてぼろぼろでした。
「俺様に考えがある」
じっと見ていた毛皮の上着が言いました。
「おい、怠け驢馬野郎、俺様のことをその川でじゃぶじゃぶ洗え。塵ひとつないくらい綺麗にするんだぞ」
「嫌だよ、誰がやるもんか」驢馬は驚いて嘶きました。
「あんたがやらないなら、今晩の飯はナシだな」そっけなく上着が言いました。
「おじいさんじゃ川底に足が届かないし、僕とお月さんとスープのスープは、洗濯をするための手がないものね」と子鍋も言いました。
仕方なく、驢馬は上着を川で洗ってやりました。岩山の上の川はとても冷たくて、蹄の感覚がなくなります。人間のままだったら絶対にあかぎれになっていただろうな、と驢馬は思いました。こんなにどうしてもやりたくないことを嫌々やるのは、初めてのことでした。もちろん、洗濯を自分でやるのも初めてでした。
川で洗ってやった後は、風にさらして乾かしてやりました。岩の上はとても風が強くて、毛皮はすぐに乾きました。
洗濯を終えた毛皮の上着は、先ほどまでとは見違えるほど立派な上着になりました。フサフサとした毛並みに、つやつやとした手触り。これを着たら王様だってびっくりして腰が抜けるでしょう。心なしか上着も満足げにしています。
老人は手を叩いて喜びました。
「おお、こいつは立派じゃ。お前さんを着ていけば追い返されることもなかろうて」
老人はさっそく毛皮の上着に袖を通し、意気揚々と門へ向かいます。一頭と一月と一鍋と一杯も後ろをついていきました。
老人の立派な佇まいを見た門番たちは、「これは失礼しました。中へどうぞ」と恭しく一礼し、門を通してくれました。
お屋敷の中はとても立派でした。
大きな柱に色とりどりの壁画、豪華な調度品の数々。広間の中央に設えられた大きな絨毯には、宝石に飾られた美しい皿と、その上に盛られた美味しそうな料理が湯気を立てています。その周りでは多くの客人が、楽しそうに談笑していました。
一行は絨毯の一隅へと案内され、目の前に大きなお皿が置かれました。綺麗なガラスの大皿で、上にはほぐれたお肉とお米を混ぜ込んで小鴨に詰めて香ばしく焼き上げた、美味しそうな丸焼きが乗っています。みんな、見ているだけでよだれが出てきました。
老人が待ちきれずに料理に手を伸ばそうとした、その時です。
「おい、そいつは誰のもんだと思ってんだ?」と上着が大声を上げました。
一行は驚いて毛皮の上着を見つめました。
「この屋敷に入れたのは誰のおかげだ? じいさんが立派になったのは誰のおかげだ? 全部俺様がいたからだろうが。門番の奴らは、じいさんには門を開かなかったが、俺様には開いた。つまり、通されたのはこの俺様で、この料理も俺様のために出されたものってことさ。食べる権利は当然俺様にある!」
そう言うが早いか、毛皮の上着は皿の上の鳥の丸焼きを見る間に食べ尽くしてしまいました。
一人と一頭と一月と一鍋と一杯は、呆然として空になった皿を見つめました。
毛皮の上着はそれだけでは飽き足らず、他の皿の上も次々とぱくつき始めました。他の人が食べている途中の、肉の串焼きやピラフや豆のスープや山羊乳のシャーベットまで、絨毯の上に置かれていた料理を残らずたいらげていきます。驢馬はとっさに側にあったイチジクのお盆を食べられまいと、さっと頭の上に避難させました。イチジクは驢馬が次男だった頃の好物です。絨毯に座っていた他のお客たちも、ざわついて一行の方を指さし始めました。
とうとう全ての皿を綺麗にしてしまった上着は、満足そうにげっぷをしました。心なしか前より布地が厚く、毛皮のつやが良くなったような気がします。
広間にはどやどやと兵士たちが入ってきて、驢馬たち一行を槍で取り囲みました。
「王様のための料理を全て食べた無礼者はお前か!」
兵士たちの言葉に、みんなは首を激しく横に振りましたが、
「そうとも、この俺様が全部いただいたぞ!」
と毛皮の上着が高らかに宣言してしまったので、一行はそのまま引っ立てられました。
「全てじゃありません、このイチジクだけは守り切りました」縄に縛られながら驢馬がいななきました。
「あっしら、どこに連れてかれるんで?」とスープのスープが不安そうに聞きました。
「王様に裁いていただく。この場所の支配者は王様だからな」と兵士が答えます。
「王様ってどんな人?」と子鍋。
「知らんのか。天の星座を支配するお方だ。ここは最も天に近い館、星座を統べるのにこれ以上の場所はない」兵士は自慢げに胸を張った。
「そのようなお方にお目にかかれるとは光栄ですねえ。でも、星座の王様なんていましたっけ?」月が呑気に呟いた。
話しているうちに、一行は先ほどの広間とは別の部屋に着きました。先ほどの広間よりやや狭いものの、天井が見上げるほど高い部屋です。丸天井の内側には、一面に星座が描かれています。そして入口とは反対側の壁際に、一際高い玉座があり、その上に星座の王様が座っていました。
王様は片足がなく、厳しい顔には深い皺が刻まれていました。王様は一人と一頭と一月と一鍋と一杯と一着をじっと睨むと、
「城の料理を全て食べてしまったというのはお前たちか」と言いました。
「いえ、正確にはこの毛皮の上着一着でございます」老人が自分の着ている上着を指さして言いました。
「お前が料理を全て食べたのか。何ゆえそのようなことをしたのだ」王様が上着に向かって厳しく問いました。
「人の分まで食べちまったのは悪かったが、食べる権利は俺様にあるはずだ。俺様のおかげでこいつらは屋敷に上がれて、王様にお目どおりまでできたんだからな」上着は胸を張って言いましたが、今は老人が上着を着ているので、まるで老人が胸を張ったように周りには見えました。
それを見た王様は激昂しました。
「貴様ら、我が城にのうのうと入り、料理を全て平らげておいて、それが当然とはなんと無作法千万な奴らだ。生かしてはおけぬ!」
こう言うと、王様は剣を抜き、反対の手で杖をつき、玉座から立ち上がりました。それを見て、一行は震え上がりました。
「それだけはご勘弁を。夜道を照らせなくなってしまいます」とうとう月が泣き出しました。目がないのにどこから涙が出ているのかわかりません。
「どうかご慈悲を、お許しを。この上着めにはようく言い聞かせておきますじゃ。この物は腹が空いていただけなのです。何せ、ずっと寒々しい崖のきわに引っかかっておったものですから」毛皮の上着を羽織った老人は慌ててひれ伏しました。
「では、お主が代わりに償うか。何ができるというのだ」
「はい、はい、王様を楽しませることができてございます。暇つぶしのお相手ができます。王様、駒遊びなどは嗜まれますかな」
「ほう、チェスか。わしの最も得意とするところだ。だが、この屋敷には駒がない」
「駒でなくとも、代わりのきくものであればできますじゃ。あそこの果物などはいかがでしょう?」老人はそう言って、驢馬の頭の上のお盆に積まれているイチジクの山を指差しました。
王様は驢馬にイチジクを持って来させると、絨毯の上に置き、老人の対局に座りました。
「どうじゃ、そのほうが勝てば無罪放免にしてやろう。だがわしが勝てば、お前たちは死ぬまでずっと牢の中だぞ」王様は得意げに言いました。
老人は真面目な顔で絨毯にイチジクを並べ、真剣に頷きながら盤を用意しました。
「これで用意ができましてございます。いつでも始められます」
「では始めるぞ。このイチジクはどの駒にあたるのじゃ」
「はい、これは歩兵でございます」
「ではこれをこう動かすぞ」
「お待ちください、それは王将です」
王様の顔に皺が寄りました。
「ではこのイチジクを動かすぞ」
「お待ちください、その駒をそう動かすことはできません」
「なぜじゃ、騎馬は駒を飛び越すことができるであろう」
「それは馬であればの話でございます。この駒はイチジクですので。イチジクが他のイチジクを乗り越えることができますかな?」
「なんじゃと!このたわけめ、適当な屁理屈ばかりほざきおって!」
王様は怒り狂って、絨毯の上のイチジクをむんずと掴むと、老人に向かってめちゃくちゃに投げつけ始めました。
悲鳴を上げてうずくまった老人に、大量のイチジクが次々とぶつかります。しかしよく熟れたイチジクは柔らかく、老人にぶつかっても衣服を汚すのみで傷つけることはありませんでした。
「ひぇー、これが硬いチェスの駒だったらどんなに恐ろしいことになっていたか。イチジクで助かったわい」老人はイチジクまみれになりながら頭の上で手を合わせ、感謝し始めました。
「いいわけあるか!せっかく一張羅になったのに、こんなに汚れちゃ台無しだ!誰か助けてくれ!」毛皮の上着は対照に悲鳴を上げています。
しかし、お盆をずっと頭に乗せていた驢馬は気づいていました。お盆には柔らかいイチジクだけではなく、ひとつ大きくて硬い、赤いカブが混じっているのでした。
とうとう王様がカブを手に取り、勢いよく投げつけました。カブは勢いよく、老人に向かって飛んでいきます。老人はカブには気がつかず、まだ天に祈っています。
驢馬は何か考えるよりも先に、老人とカブの間に飛び込んでいました。
驢馬は、体が勝手に動いてしまうことなど初めてでした。ましてや誰かを庇って危険に飛び込むなんて、もっと初めてでした。
老人を庇った驢馬にカブが激突しました。
目から星が出て、世界がひっくり返りました。頭が破裂しそうなほどちかちかして、周りを星が飛び交いました。確かに、王様は星座の王だったのだ、と驢馬は文字通り痛感しました。
驢馬のことを誰かが抱き起こしました。熟れたイチジクの強い酸味が鼻をつきます。ぐるぐる回る視界の中で、老人と、月と子鍋とスープのスープと毛皮の上着がこちらを覗き込んでいるのがぼんやりと見えました。改めて見ると旅の仲間にするにはちょっとおかしな連中だったな、と驢馬は夢うつつに考えました。
「おい、驢馬!目を覚ませ!」
遠くなる意識の中で、老人が驢馬に叫ぶのが聞こえました。
「もう驢馬になるような親不孝はするなよ!」
次男は、日陰で目が覚めました。午後のぬるい風が心地よく通り抜けていきます。
次男は自分の右手を見ました。左手を見ました。人間の手に戻っています。手も足も、もう驢馬の蹄ではありません。長い耳も尻尾もなくなっています。
起き上がると、そこは町の霊廟でした。格子状の天井からは青い空が見え、部屋の奥の陰に片足のない彫像が静かに鎮座しています。それを見て、ここに祀られているのがチェス好きで有名な昔の王様だったことを次男は思い出しました。
次男を見つけて、家の下男が駆けてきました。
「坊ちゃん! こんなところにいらっしゃったのですか。さあ、お母様が心配していらっしゃいますよ。帰りましょう」
そう言うと、下男は輿の用意をさせようとしました。次男はそれを止めて、
「いい。おいら、自分で歩くよ」と立ち上がりました。
下男はびっくりしました。次男坊が一人で歩こうとするなんて、今まで一度もなかったからです。
「おいら、帰って母さんに謝ってくる」
下男はさらにびっくりしました。次男坊が一人で何かをしようとするなんて、今まで一度もなかったからです。
呆気に取られる下男を無視して、次男はすたすたと建物の外に歩いていきます。
次男は日差しの下に出ると、一つ伸びをしました。近くに木があるのか、イチジクのいい香りが風に乗って漂ってきます。
背中に誰も乗せなくていいのは気楽でいいや、と一人呟いて、次男は昼下がりの道を家へと歩き出しました。




