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水底の揺り籠

都会での破綻した生活から逃れ、亡き祖母が遺した海辺の旧家へと流れ着いた作家志望の男、蒼馬。彼は、庭の隅にある禁忌の「井戸」の水面に、日に日に若返っていく自分自身の幻影を見出し、その甘美な現象に心を奪われる。だが、それは失われた過去への郷愁ではなく、井戸に潜む「何か」が仕掛けた巧妙な罠だった。井戸は、人の未練や後悔を糧とし、その対価として「若さ」という幻影を見せる。そして、完全に精気を吸い尽くした時、その肉体を乗っ取り、現世へと這い出してくるのだ。祖母が遺した日記と、村に伝わる「身代わり様」の風習が、蒼馬を逃げ場のない絶望へと追い詰めていく。


俺、相沢蒼馬の人生は、一冊の、出版されることのなかった小説に、集約されていた。十年という歳月を、その一冊に、注ぎ込んだ。青春も、人間関係も、安定した職さえも、全てを、犠牲にして。だが、出版社からの、返事は、いつも、同じだった。「才能は感じるが、商品にはならない」。その、残酷な、数行の文章が、俺の、全てを、否定した。心は、乾ききった、井戸の底のように、ひび割れていた。恋人も去り、家賃を、滞納し続け、俺は、まさに、人生の、底を、打った。

そんな、俺の元に、一通の、事務的な、封書が、届いた。それは、数年前に、亡くなった、母方の祖母が、遺した、海辺の、旧家の、固定資産税の、督促状だった。誰も、引き取り手のない、その家は、法的に、唯一の、血縁者である、俺のものに、なっていたのだ。俺は、その、督促状を、まるで、天からの、啓示のように、見つめた。そうだ、あの家へ、行こう。全てを、捨てて、あの、時の止まったような場所へ。

夜行バスに、揺られ、たどり着いた、その村は、俺の、子供の頃の、記憶よりも、さらに、色褪せ、過疎化が、進んでいた。だが、潮の香りと、遠くに聞こえる、波の音だけは、変わらなかった。祖母の家は、小さな、岬の、先端に、ぽつんと、建っていた。黒い瓦屋根、潮風に、白く、色褪せた、板壁。その、佇まいは、まるで、世の中から、忘れ去られることを、自ら、望んでいるかのようだった。

家の中は、埃と、黴の匂い、そして、祖母の、残り香が、混じり合った、複雑な、匂いがした。俺は、誰に、言われるでもなく、遺品整理を、始めた。それは、過去という名の、地層を、掘り返していくような、作業だった。そして、その行為が、不思議と、俺の、空っぽの心を、少しずつ、満たしていった。

そんなある日、俺は、庭の、隅に、それを見つけた。

苔むした、石造りの、古い、古い、井戸。

子供の頃、祖母から、何度も、言い聞かされた言葉が、脳裏に、鮮やかに、蘇った。

「蒼馬、あの井戸にだけは、絶対に、近づいちゃ、だめだよ。あの井戸はね、人の、寂しさを、吸い込んじまうからね」

その時の、祖母の、優しいながらも、どこか、怯えたような、瞳を、俺は、はっきりと、覚えていた。

だが、今の、俺にとって、その、言いつけは、もはや、何の、効力も、持たなかった。俺は、まるで、何かに、引き寄せられるように、その、井戸の、そばへと、歩み寄った。分厚い、木製の蓋は、半分、朽ちかけている。俺が、それに、手をかけ、ずらすと、ぎ、ぎぎぃ、と、長い、沈黙を、破られたことに、抗議するかのような、音が、響いた。

途端に、冷たく、そして、濃密に、湿った空気が、井戸の、暗い口から、まるで、溜息のように、這い上がってきた。俺は、恐る恐る、その、円く切り取られた、闇の向こうを、覗き込んだ。

深い、深い、闇。その、奥で、水面が、鈍い、黒い光を、返していた。

そこに、俺の顔が、逆さまに、映っていた。三十代後半の、夢に、敗れた、男の顔。

だが、次の瞬間、俺は、息を、呑んだ。

水面に映る俺の顔は、ほんの、少しだけ、若いように、見える。

気のせいか。井戸の暗さが、都合よく、俺の、疲れを、隠してくれているだけだろう。

俺は、そう、結論付け、その場を、離れた。だが、その、残像が、妙に、頭から、離れなかった。

その日から、井戸を、覗き込むことが、俺の、日課になった。

そして、確信した。これは、気のせいなどでは、ない。

水面に映る俺は、覗き込むたびに、着実に、若返っているのだ。

目尻の、小皺が、消え、頬の、ラインが、シャープになり、その瞳には、かつて、俺が、持っていたはずの、創作への、情熱の光が、宿っていく。

一週間が経つ頃には、水面の俺は、完全に、二十代の、作家を、目指して、目を輝かせていた頃の、顔つきに、なっていた。

俺は、その行為に、完全に、心を、奪われた。

それは、失われた、時間と、情熱を、取り戻すかのような、甘美で、倒錯した、体験だった。現実の俺は、ただの、敗残者だ。だが、この井戸を、覗き込みさえすれば、そこには、輝かしい、過去の自分がいる。俺は、再び、小説を、書く、気力を、取り戻していった。水面の、若い俺が、俺を、励まし、応援してくれているように、感じられたのだ。

そんな俺を、一人の、老人が、訪ねてきた。村の、歴史を、編纂しているという、郷土史家の、永井と、名乗る、その老人は、俺が、この家に、住み始めたことを、どこからか、聞きつけたらしかった。

「相沢さん、あなたのお祖母さん、ハツさんは、素晴らしい、方だった。この村の、大切な、伝統を、ずっと、守ってこられた」

永井老人は、そう言うと、一冊の、古びた、冊子を、俺に、差し出した。それは、『岬神社縁起』と、題された、村の、伝承を、まとめたものだった。

その、冊子の中に、俺は、ある、奇妙な、記述を、見つけた。

それは、「身代わり様」と、呼ばれる、風習に関する、ものだった。

『この、岬の、井戸には、古き、神が、眠る。神は、人の、精気を、喰らい、その、肉体を、借りて、現世に、蘇らんとする、ものなり。故に、村人は、神の、力が、弱まりし時、新たな、肉体を、捧げねばならぬ。それが、「身代わり様」の、儀式なり。神は、特に、強い、未練や、後悔を、持つ者の、魂を、好む。身代わりと、なった者は、その魂を、神に、捧げることで、村の、安寧を、守る、尊き、礎となる』

俺は、背筋が、凍るのを感じた。

そして、永井老人は、まるで、俺の、心を、見透かしたかのように、静かに、言った。

「……あなたの、お祖母さんは、最後の、「身代わり様」を、見届けた、巫女の、家系だったのです。そして、あの井戸には、決して、近づいてはならない、と、固く、村の、者たちに、戒めておられた」

老人の、視線が、庭の、井戸へと、向けられる。

「……相沢さん、あなた、まさか……」

俺は、何も、答えられなかった。

その夜、俺は、祖母の、遺品の中から、一冊の、古い、日記帳を、見つけ出した。震える手で、ページを、めくる。そこには、俺の、知らない、祖母の、苦悩が、綴られていた。

『蒼馬が、生まれた。この子には、私のような、辛い、役目を、背負わせたくない。この子が、物書きになりたいという、夢を、語ってくれた。どうか、その夢が、叶いますように。だが、もし、その夢に、破れ、深い、絶望を、抱えたまま、この家に、戻ってくるようなことがあれば……その時、あの子は、神にとって、極上の、餌食と、なってしまうだろう。どうか、神よ。私の、命と、引き換えに、この子だけは……』

日記は、そこで、途切れていた。

俺は、全てを、理解した。

祖母は、俺を、守るために、自らの、命を、井戸に、捧げたのだ。最後の、巫女として、神の、力を、封じ込めるために。

だが、その、封印も、永遠ではなかった。

そして、今、俺という、絶好の「餌」が、自ら、この場所に、やってきたのだ。

俺が、井戸の水面に見ていた、若い自分の姿は、若さを、取り戻していたのでは、ない。俺の、精気を、吸い取った、井戸の「神」が、俺の、記憶を、元に、作り出した、幻影。俺を、油断させ、完全に、心を、明け渡させるための、巧妙な、罠だったのだ。

俺は、逃げ出そうと、した。

だが、もう、遅かった。

家から、出ようとすると、玄関の、ドアが、開かない。窓も、まるで、鉄板が、嵌め込まれたかのように、びくともしない。この家、そのものが、一つの、巨大な、檻と化していたのだ。

そして、井戸の中から、声が、聞こえ始めた。

それは、もはや、俺を、励ます、若い俺の声では、なかった。

それは、低く、古く、そして、飢えた、何かの、声だった。

『……もう、よいだろう……その、体を、こちらへ、よこせ……』

『……お前の、未練、後悔、絶望……全て、我らが、喰らってやろう……』

同時に、俺の、体が、言うことを、聞かなくなっていく。

指が、勝手に、動き、ペンを、握る。そして、机の上の、原稿用紙に、文字を、書き殴り始めた。

それは、俺が、書きたかった、小説ではなかった。

それは、井戸の「神」が、俺の、肉体を、乗っ取って、紡ぎ出す、冒涜的な、物語だった。

俺の、意識は、急速に、薄れていく。

まるで、深い、水の底へと、沈んでいくように。

抵抗しようにも、体が、動かない。

俺は、自分の、肉体という、牢獄の中で、ただ、全てが、終わるのを、待つことしか、できなかった。

薄れゆく、意識の中で、俺は、最後に、見た。

鏡に、映った、自分の顔。

それは、もう、俺の顔では、なかった。

その、顔は、若々しく、力に、満ち溢れ、そして、その口元には、歪んだ、歓喜の、笑みが、浮かんでいた。

それは、幼い子供が、新しい、玩具を、手に入れた時のような、無邪気で、残酷な、【幼い喜び】の、表情だった。

ああ、そうか。

俺の、小説は、ここで、完成するのか。

俺自身が、物語の、登場人物となり、そして、怪物に、体を、乗っ取られて、終わる、という、救いのない、物語。

最高の、ホラー小説じゃ、ないか。

俺の、意識は、完全に、闇に、飲み込まれた。

ざぶん、という、音が、聞こえた、気がした。

翌朝、相沢蒼馬と、名乗る、若い男が、村の、雑貨屋に、現れた。彼は、人当たりの良い、笑顔を、浮かべ、こう、言ったという。

「いやあ、素晴らしい、場所ですね、ここは。なんだか、すごい、小説が、書けそうな気がしますよ」

彼の、瞳の奥が、井戸の、水面のように、黒く、淀んでいることには、誰も、気づかなかった。

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