第七章 「兌」──魂の声に耳を澄ませ
翌日、朝の光は柔らかく、肌に触れたとき、
まるで誰かの手のぬくもりのように感じられた。
ひかるはその日、久しぶりに都心のカフェに向かっていた。
表向きはただの「友人との再会」。
けれど、どこか、胸の奥では別の意味が生まれているような気がした。
(私はいま、この世界と“どう向き合うか”を試されてる気がする……)
カフェに着くと、そこには大学時代の友人・里奈がいた。
かつて、ずっと心の距離を感じていた彼女。
だが、いま見た彼女の横顔は、どこか疲れていた。
里奈「ひかる、なんか……雰囲気変わったね」
ひかるは言葉に詰まりながら、ただ微笑んだ。
ひかる「……そうかな。でも、いろんなことがあって……」
コーヒーの湯気の向こうで、里奈がふっと声を落とした。
里奈「最近、眠れないの。SNSも見るのが辛くて……でも見ちゃうし……
それに誰かの幸せを見つけたりすると、置いていかれる気がして……なんだかね…」
その言葉に、ひかるの胸が静かに鳴った。
(ああ……この声こそ、“魂の声”……)
ひかるは、彼女の言葉に答えるのではなく、ただ“聴くこと”を選んだ。
言葉の奥にあるもの――
うまく言葉にできない。
けれど確かに“痛み”として震えている何かが……。胸の奥で、あの神楽鈴が静かに鳴った気がした。
ひかるは、その日ずっと、静かに里奈の話を聴き続けていた。
――翌日、師匠にその出来事を話すと、彼は、こう答えた。
師匠「……あなたは、器になったのです。答えを与える者ではなく、響きを受けとめる者に。
それが、“兌”の道です。
兌とは、悦びの卦。けれど、それは自分だけの悦びではない。誰かの悲しみに共鳴し、誰かの沈黙に耳を澄ます。その時、ふいに生まれる“響き合い”こそが、兌の本質なのです。
人の言葉ではなく、“魂の波動”に耳を澄ませる者。
声なき声に耳を澄ませ、判断せず、導かず、ただ共に震える者。
あなたの使命は、白か黒かを決めることではありません。正しさを説くことでもありません。
──ただ、そこに在ること。
誰かの心の奥に触れたとき、自然に生まれる波動に身をゆだねること。
それが“兌”の器──響く者、本来の巫女の姿なのです」
そのとき、ひかるはようやく腑に落ちた。
ひかる「ああ、あの時の私は里奈にとって“響き”だったんだ」
それは、言葉を持たない神々の言語。
遠い昔、山や水や風が交わしていた“響きの対話”。
ひかるは、確信した。
(風の音に、木のざわめきに…人の小さな涙に――私はこれからも耳を澄ませていこう)
――その夜、ひかるは鍔を枕元に置いたまま、いつになく深い眠りに落ちていた。
風が止んだ。
空気が張り詰め、ひかるの耳にだけ、何かが戻ってくるような音が響いた。
──シャラ、シャララン……
どこかで鳴っているのではなく、自分の中から鳴っている?。
胸の奥深く、小さな祈りの器が揺れ、音を立てているような感覚だった。
そのとき、ひかるの目の前に、霧が立ち上った。
そしてその白い霧の中から、ひとつの影が浮かび上がってくる。
それは、薄紅の衣をまとった、長い黒髪の巫女。
頬にかかる髪は風に舞い、まるで月光の波が彼女のまわりを包んでいるようだった。
巫女が振り返る。
ひかる「えっ……私?」
その顔は、ひかるそのもの。
けれど目だけが違った。
深く、遠くを見つめるような光――この世のものではない、祈りの光だった。
ひかる「あなたは……誰?」
そう問いかけた瞬間、答えは言葉ではなく、記憶の波となって押し寄せた。
高照姫「わたしは、高照姫──天と地をつなぐ光の器、出雲族最後の巫女。
戦火を避け、兄・アジスキタカヒコネと一緒に山へ姿を消した」
ひかるの魂が震える。
まるで、自分という存在の奥底に、
もうひとつの“命”が目を覚ましたような感覚。
高照姫「……あなたが、わたしだったのね……でも、あなたは忘れた。忘れることで生き延びた。
神とともに沈黙するもの。その記憶が、いま、目を覚まそうとしている。
あなたは、響きの器。わたしは、声なき雷。ならば、この祈りを未来へ響かせて…」
その声は、低く、優しく、そして懐かしかった。
霧の中から高照姫が、ゆっくりと手を差し出す。
その手は、確かに温かく、懐かしい。
ひかるも、そっと手を伸ばした。
触れた瞬間、遠雷のような声が、空からではなく大地の奥から響き、世界が裏返る。
ひかるの魂は過去の時空へと滑り込んだ。
そこには、国譲りのあと姿を消したアジスキタカヒコネとその高照姫がいた。
──葛城の地。
雷を操る力を封じ、風を読み、雲に紛れ、
アジスキタカヒコネは忍びとなり、影の王として生きる道を選んでいた。
その地は、鉄があり、水があり、かつての出雲国そのもののだった。
また、あの当時の民もそこに住み移り、彼はその民のためにも“葛城隠国”を築いていた。
だが、平和な日々は続かず、ここにも天津神は、雷羽刀を奪うためにやってきた。
民ごと闇に葬り、彼と妹は、雷羽刀を護るため、また追われる身となってしまった。
アジスキタカヒコネは嘆く。
「私は、護りたかった。この大地と、この命と、人がまだ、やさしさを忘れていなかった頃の祈りを。
剣を持たねば滅び、剣を振るえば魂が穢れる――
そのはざまで、私はただ、哭くことしかできなかった。
鉄は、祝詞だった。山の精と、火の神と、命の息吹を結ぶものだった。
それがいつしか、奪うための刃に変わった……。
私の中で、雷が哭いた。誰にも聞こえぬ声で、夜ごと哭いた。
言葉にすれば、その言葉が現実になる。「怒り」も、「裁き」も、「憎しみ」も――
語れば形となる。だから私は、語らなかった。沈黙することを選んだ。
けれど、それでも。
それでも――伝えたかった。
誰かが、あの日の風を憶えていてくれるなら。
誰かが、まだ祈りの声を持っているなら。
私は、託したかった。
争わぬまま、生きる道を。沈黙のまま、響く雷を。
語らずに、祈る力を。
もしも、この祈りを言葉にしてくれる者が現れるのなら――
私は、もう一度この空に、“やさしさの雷”を走らせよう」
彼は、雷の神剣“雷羽刀”が天津神の手に渡ることを拒み、
戦うことも、従うことも選ばず――
ただ、“祈りという封印”を施し、
兄妹は、雷羽刀とともに、神が宿る地に魂ごと身を沈めた。
それは逃避ではない。裁きでもない。
“いつか問いかけてくる魂”に応えるため――
彼らは、雷を鎮め、ただ静かに、待ち続けていた。
誰かが、この地に立ち、
真に“問う心”を持つ日まで。
“力”ではなく“共鳴”を求める声が届く、その日まで。
兄の苦悩を誰よりもずっと傍で感じていた高照姫、その強い想いだけがこの世へと続いていた。
高照姫「雷羽刀は、兄の魂とともに沈黙の中でいま目覚めた。
それは、涙のかたちをして還ってきたのです。ひかる、あなたの問いが、その扉を開いたのです」
夢の中で、ひかるの頬に涙が流れた。
それは、高照姫の涙か。
アジスキタカヒコネの涙か。
それとも、自分自身の涙か――もう、分からなかった。
ひかるは濡れた頬で目を覚ました。
気づけば、窓のすきまから月光が差し込み、枕元の鍔が光を受け、わずかに光を返していた。
それは「時が動き出した」とでも言うように。
掌には、高照姫の温もりがまだ残っていた。
ひかる「私は……思い出しはじめてる。私は……千年の祈りを継ぐ器なのかもしれない……」
その気づきが、彼女の魂に深く刻まれていった。
まだそれは、はっきりとした言葉にはならない。
けれど、確かに――声になり始めている。
それはまるで、新月に初めて光が差し、細く、弓なりに姿を現しはじめた月のようだった。
沈黙は、いま、光のかたちを取り戻しつつある。
──阿蘇、霧島、胆沢、そして出雲。
そのすべてが、この目覚めのためにあったのだと、ひかるは知った。
かつて彼らが封じられたその祈りを、再びこの世に響かせるために。
彼女の中で、雷の羽がそっと揺れた。
旅は続く。けれど、もう迷わない。
彼女は、自らの“問い”を持って、そして、“声なき声”と共に響きだそう。
翌朝、里奈からメッセージが届いた。
《あの時、話を聞いてくれてありがとう。あんなふうに“誰かに聴かれる”って、あったかいんだね。
なんか、すごく楽になったょ》
画面の光が、ほんのり滲んで見えた。
ひかる「響いていたんだ……ちゃんと、魂の声が届いたんだ……」
ひかるは、小さく頷いた。
月は、もうすぐ満ちようとしていた。