第四章 「巽」──風に問う者
夜、雨音が静かに響いていた。
師匠との対話を終えたひかるは、帰宅後、長く深い眠りに入っていた。
まるで魂がどこか遠くの世界へ導かれていくような、そんな感覚に包まれて。
夢の中、白く広がる大地の上にひかるは立っていた。
空も、地も、境目がない。
色も匂いもなく、ただ、透き通るような静けさだけがあった。
だけど、たしかに“何か”が在ると感じる。
ふいに、風が吹いた。
その風には、声があった。
言葉ではない。けれど、確かに“祈り”だった。
ひかるの胸の奥が静かに震えた。 涙が流れる。
けれど、それは悲しみではなかった。
魂の奥深くに響くなつかしい記憶だった。
足元から、やわらかな光が立ちのぼった。
それは“地”の記憶。
祖先たちの沈黙の祈り。
名も知られることのなかった命たちが託した願い。
そして、空からひとすじの光が差し込む。
それは“天”のまなざし。
誰のものとも言えない、澄んだ意志。
天と地、その交わる場所に、ひかるは立っていた。
ひかる「私は……祈りそのものとして、ここに立っている…」
そう思った瞬間、「私」という境界がふっと溶けていった。
ひかるの魂は、“全体”と重なり合い、光と風と祈りの器となった。
目が覚めたとき、ひかるの頬にはあたたかい涙の跡があった
昨夜見た夢――あれはただの幻想ではない。
「全体の祈り」に触れた感覚は、今も胸の奥に残っている。
──いったい私は、何者なのか。
その問いは、昨夜の夢の余韻と重なって、深く静かにひかるの内に息づいていた。
あの夜、師匠に「あなたには巫女の素質がある」と告げられてから、
ひかるは、胸の奥で何かが芽吹くような感覚を抱えていた。
そして、夢の中で触れた“全体の祈り”の感覚が、心の奥に静かに燃えていた。
ひかるの胸には“何かが始まった”という確信のような感覚があった。
ひかる「……もう一度、あの場所へ行かなきゃ…。」
誰に言われたわけでもない。
けれど、魂が自然にそう呟いていた。
……“阿蘇”
ひかるは、かつて不思議な声を聞いたあの道“ミルクロード”を車で走らせていた。
前に来たときは、心の疲れを癒すためだった。
けれど今回は、明確な“問い”を抱いていた。
あの風の声は、誰だったのか。
あの夢は、ただの幻想ではない。
私に届いた“全体の祈り”は、どこから来たのか――。
阿蘇の空は、晴れていた。
けれど風は強く、あたり一面のススキの原がざわざわと揺れていた。
ひかる「まるで、何かに呼ばれてるみたい……」
車を走らせていると、古い標識のようなものが目に入ってきた。
ひかる「……押戸の岩…?」
そこは、かつて古代祭祀が行われたと伝わる岩場。
巨岩が点在するあの場所で、何かが起きるような気がしてならなかった。
車を降りて、岩場へと足を踏み入れる。
風が強くなった。
まるで、導くかのように。
巨大な岩々が立ち並ぶその空間。
観光地として整備されているはずなのに、誰もいない。
音もなく、風だけが、ひかるの髪と服を撫でていく。
風はさらに強くなり、まるで何かが待っているかのようだった。
岩のひとつに手を置いた瞬間、目の前に閃光が走る。
ひかるは、そっとその岩に手を置いた。
その瞬間、またあの感覚が――。
そして同時に、風の中に、誰かの“声”があった。
前に聞いた“導きの声”にも似ていた。
だけど今回は、もっと深く、もっと重く、心の奥を揺さぶる声。
その時、目の前に、一陣の光が走った。
雷にも似た、しかし音を持たない閃光。
目を閉じたままでも、まぶたの裏に焼きつくような“稲妻”の影。
「この者、風と雷のはざまより来たりて、声なき声を託す者なり…。」
今回ははっきり声が聞こえた、そしてひかるの頬に温かい涙が自然と流れおちた。
あの夢の中で触れた“全体の祈り”が、ここでもう一度、自分を包んだのだ。
そのとき、ひかるのバッグの中で小さな鈴がほのかに鳴った。
——しゃりん。
音のない世界に、わずかな響き。
それは「応え」だった。
ひかる「この魂の記憶の先に……まだ、何かがある…」
押戸の岩を離れたあと、ひかるは阿蘇の宿へ戻っていた。
身体は疲れていたが、心は静かに燃えていた。
風の中の声、鳴り響いた神楽鈴の音、そして魂に刻まれた“稲妻の気配”。
ひかる「これは、ただの霊感ではない。」
神託のように、確かに届いた“問いの応え”だった。
そう確信したとき、ひかるはそっとバッグから筮竹を取り出した。
ひかる「“問う”ために、易を立てよう!」
その問いを抱えて、ひかるは易を立てた。
現れた卦は「火山旅」
ひかるの脳裏にふっと浮かんだのは、霧島岳の山頂に突き立てられた一本の剣だった。
噴煙の向こう、天と地のあわいに立つその剣は、
まるで“神火の誓い”を地に刻むようにそびえていた。
あの剣のもとへ行かなければならない──そう強く感じた。
翌日、阿蘇から霧島へ向かったひかるは、車で山道を走っていた。
空気は湿っていて、けれど心地よく肌を撫でる。
杉の根の間を小川が流れ、そのせせらぎが遠い笛のように聴こえる。
やがて鳥居が現れた。車を降り、苔むした石段をのぼっていくと、
その先に、ひとつの社が佇んでいた。
その時だった。
社の奥から、年老いた巫女が現れたのだ。
彼女はひかるを見つめ、まるで待っていたかのようにこう言った。
老巫女「あなた……“神火の問い”を持ってきたね」
驚いて何も言えないひかるに、
老巫女は微笑みながら社の奥へとひかるを招いた。
ひかるのバックの中の小さな鈴が、静かに響いていた。
炎の灯る空間で、老巫女は語り始めた。
老巫女「かつて霧島の地には、火山の息吹を“神の声”と捉える民がいた。
地震も、噴火も、雷鳴も、ただの自然現象ではない。
それは神の怒りであり、神の涙であり、時に“天からの予兆”でもあった。
そうした声を、山で、風で、火の中で受け取るのが、隼人たちの役目じゃった」
ひかる「隼人…?」
老巫女「そうじゃ、隼人とはな、“火の国の祈り人”よ。
朝廷が“南の異族”として恐れた隼人たちは、ただの反逆の民ではない。
あの者たちは……火を祈り、火を鎮め、火の精霊と語る術を持っていたんじゃ」
ひかる「火の精霊……?」
老巫女「阿多、日向、薩摩──この南の山々は、古くから“火の神”が棲む地とされておった。
隼人たちは、噴火も、雷も、風も、すべて“神の御声”として受け取り、それに舞と呪術で応えていた。
とくに巫女たちは、火口に向かって祝詞を捧げ、雷鳴の夜には、山裾で“火の神楽”を舞ったと言われておる。戦う民でも、異族でもない。
あれらは“神火”と共に生き、神と共に舞う者たちじゃった……」
そして、老巫女は一息つくと、また話を続けた。
老巫女「火は命を生かしもするし、奪いもする。
だからこそ、隼人たちは、神火は敬い、鎮め、火と共に生きるべき存在だった。
だが、朝廷は、隼人たちのその霊力を恐れた。言葉にできない神との交信、火と風の力、
それらの意味を知らぬ者たちが、それを“異”として封じたのじゃ」
老巫女は、ため息をひとつするとまた話を続けた。
老巫女「姫木城をご存知か?」
ひかる「姫…木…城…⁈」
ひかるはその名前を聞いたとき、はっきりと胸の奥が反応するのを感じた。
老巫女は一枚の古い絵図を差し出した。
霧に包まれた山の頂に、わずかにその姿を残す幻のような砦。
老巫女「隼人の姫が、最後の最後まで神火を護った場所じゃ。
“神火を人の手に渡すな”という祈りのもと、隼人の姫は、霧と共に姿を消した場所と伝えられておる…」
ひかるは急に立ち上がり、
ひかる「おばあさん!! その場所はどこにあるのですか⁈…」
ひかるは、老巫女からその場所を聞き出した途端、急いで姫木城跡とされる山へと向かっていた。
その山道を歩くうち、急に空気が変わったことに気づいた。
音が遠のき、風のざわめきが耳元でささやきのように響く。
まるで誰かの祈りが、その場に漂っているようだった。
木々の隙間から差し込む薄明かりの中に、ひかるは一瞬、白い影を見た。
長い髪を風に揺らし、舞うような姿。
それは火を鎮める巫女の姿のようにも見えた。
風がひかるの中を通っていく。
「“風の語り部”が、北の地でもあなたを待っています…」
そう聞こえた。
それが、次の地へと向かう旅の始まりだった。
再び易を立てる。
現れた卦は「風水渙」
──風は霧を散らし、封じられた魂をほどく。
ひかるは地図を開いた。
なぜか、「胆沢」という地名が胸に引っかかった。
それはかすかに、霧島で感じた気配と重なっていた。
そう感じたひかるは、次なる封じられた祈りを求め、その地へと向かう決意をした。
胆沢に着いたひかるは、その土地の歴史を調べるために、
小さな歴史資料館を訪れていた。
そこには、戦乱の歴史というよりも、
“失われた声の記憶”がひっそりと並べられていた。
ひかる「阿弖流為…?」
受付にいた係員が、ひかるの問いに穏やかに答えてくれた。
係員「阿弖流為──
彼は、蝦夷の長でありながら、ただの武人ではありませんでしたよ」
係員は、蝦夷の古い地図と、風のように流れる線画をひかるに見せた。
係員「彼ら蝦夷は、山・森・川・空すべてに神が宿ると信じていた。
人はカムイ(神々)と共にあり、自然からいただく命は、必ず感謝を込めて返す。
そういう、“循環の霊性”を生きていた民なんです」
ひかるはその言葉に、霧島の老巫女の語りと同じ響きを感じた。
係員「阿弖流為は、戦を好んだのではない。
“見えぬものを見ようとしない者たち”に対して、“この土地の声を聞け”と伝えようとした。
それが……戦という形になってしまっただけなのです」
係員はふっと寂しげに笑いながら語った。
係員「8世紀末──朝廷が「征夷」の名のもとに蝦夷を“平定”しようとした時代。
蝦夷の長・阿弖流為は、決して単なる反乱の首魁ではなかった。
彼は、山と森と川に生きる民の生活を守り、自然の声を聴きながら、
民の魂を導いた「霊的な王」だったのです。
この地の風には、“名もなき者たち”の祈りが今も染みついています…
ここ──“胆沢城”のあたり。ここが、阿弖流為の最後の拠点となった場所なのです。」
係員は、一息つくと話の続きをした。
係員「彼は、蝦夷の軍を率い、坂上田村麻呂の大軍を何度も退けた。
だが、ただの戦術家ではなかった。彼は、戦いのない未来を望んでいた。
だからこそ、最後には“自ら出頭”し、田村麻呂に命運を委ねたのです。
阿弖流為と共に投降した副将・母礼とともに、
その後、京へと護送された二人。
田村麻呂は、最期に“彼らの首を斬るべきではない”と奏上した。
敵でありながら、阿弖流為の中に“真の誇りと霊性”を見たのでしょう。
しかし、田村麻呂の声は届かず、彼らは斬首されてしまったのです。
それが、歴史に刻まれた最期だった…」
ひかる思った。
彼らは、“殺された”のではない。封じられたのだと。
隼人たちが、神火の声を封じられたように、阿弖流為もまた、霊的な力を封じられたのだった。
朝廷は、この見えない力を“恐れ”、“封印”したのだと。
ひかるは風の中に、彼らの声を聴いた。
──我らが語る言葉は、今も風にある。
見えぬ声に、耳を澄ませ。
言葉の奥の、言葉なき願いに。
それを聴ける者が、再び現れる日を、風は待っている。
あの時、霧島で感じた風の鼓動。
それは、蝦夷の山々にも、同じように確かに生きていた。