第三章 「震」──揺らぎのなかで、呼ばれる名
再び、本筮の場に戻った日。
ひかるの胸には、どこか静かな確信と、拭いきれない迷いが同居していた。
筮竹の扱い方、爻の意味、卦の象意。
かつて離れた時には見えなかった奥行きが、今では少しずつ輪郭を帯びていた。
けれど、日々の学びの中で、どうしても拭いきれない感覚があった。
他の生徒たちは熱心だった。
「将来は鑑定士として活動したい」
「自分の店を持ちたい」
「人の悩みを解決してあげたい」
目標ははっきりしていて、皆、現実的な道を真っすぐに進んでいた。
だが──ひかるだけは、違っていた。
「誰かを鑑定すること」に、どうしても違和感があったのだ。
──私は、誰かの未来を“断定”したいわけじゃない。
問いの奥に眠っている“その人の魂の声”を一緒に探したいだけなのに……
未来は、まだ形を持たない。
易とは、本来、誰かに未来を示すものではなく、
揺れ動く心の奥に、小さな響きを見つけるための道しるべであると…
ただ、その人が、まだ言葉にできない痛みや迷いに、
……そっと光を当てるために。
……見えない声に耳を澄ませるために。
──とひかるは思いつつも、
人を鑑定するということに躊躇している自分のいいわけではないだろうか…
自分の言葉で、誰かを導くということの重大さ、その重さ。
たったひとことが、人の未来を変えてしまうかもしれない。
言葉を受け取った誰かが、希望を持つかもしれない。
反対に、諦めてしまうかもしれない。
迷っている誰かが、ひかるの言葉を信じて、歩み出すかもしれない。
それがもし、間違った道だったとしたら……?
ひかるが未熟なまま投げた言葉で、誰かが傷ついたとしたら?
”言葉は、刃にも、灯火にもなる。”
だからこそ、怖かったのかもしれない。
未来を断定する怖さ。
誰かの可能性を、無意識に狭めてしまう怖さ。
易の卦を伝えるという行為は、単なる知識や技術ではなく、
ひとつひとつの言葉に、誰かの人生を預かる覚悟がなければならない。
己の浅い理解や、未熟な感情を乗せた言葉で、誰かを誤った道へ導いてしまうことが、
ひかるにはまだできなかった。
そんな想いを胸に抱えながら、ひかるはただ、問いを立てることだけを続けていた。
自分のために。誰のためでもなく。
けれど、時折、思ってしまうのだった。
──私には、目標がない。
目指す資格も、肩書も、職業も、何もない。
皆が夢に向かっているように見える中で、私だけが取り残されている気がする。
問いを立てる。魂の声に耳を澄ます。
──それが、職業になるわけじゃない。
易を“何に使うのか”が、自分でもわからない。
迷ってはいけない気がして、でも、迷いを捨てきれなくて。
ひかるの中で、答えのない霧が、静かに広がっていった。
稽古が終わり、他の生徒たちが次々と帰っていく中ひかるは一人、黙って筮竹を揃えていた。
師匠「ひかるさん、少し時間をいただけますか?」
師匠の静かな声に顔を上げると、すでに彼は、いつものように深い眼差しでひかるを見つめていた。
導かれるようにして通されたのは、畳の香の残る和室。
床の間には、名も知らぬ野の花が一輪、静かに咲いていた。
師匠は湯を沸かしながら、問いを投げかけた。
師匠「ひかるさん。あなたにとって、“問い”とは何ですか?」
ひかるは一瞬戸惑いながらも、そっと口を開いた。
ひかる「……誰かの奥に眠っている、言葉にならない感情……そういうものを、形にしたいんです。
未来が知りたいんじゃなくて、“なぜ今ここにいるのか”
──それを、一緒に見つけたいだけなんです」
師匠はゆっくりとうなずいた。
師匠「そうですね。“問い”とは、“未知”への扉です。
易は未来を断定するものではありません。
問いが立つとき、それはすでに“何か”が動き始めている。“問い”こそ、魂の呼びかけなのです」
ひかる「魂の……呼びかけ?……」
師匠「そう。問いの奥には、“大いなるものの意志”がある。
あなたは無意識のうちに、それを受け取る力を持っている。だからこそ迷うのです」
ひかる「……でも私、目標がないんです。
将来こうなりたい、とか、こう生きたいって、はっきり言えなくて……
それがダメなことのような気がして……」
師匠はお茶を注ぎながら微笑んだ。
師匠「目標は、“点”です。ですが、あなたが歩いているのは“流れ”なのです。
人はしばしば“形ある未来”を持つことで安心しようとします。
けれど、あなたのように“今”という水脈の中に耳を澄ませている者には、
無理に輪郭を描く必要はない。問いを立て続けること、それ自体が、あなたの人生を導いていく」
ひかる「……でも、それって、すごく怖いです。みんなが“先”を見て進んでるのに、
自分だけ“今”にしかいられないような気がして……」
師匠「不安とは、“他人の速度”と自分を比べたときに生まれます。
目標は、時に人を強くもしますが、時に視野を狭めることもある。
あなたには、あなたの時の流れがあるのです」
少し間を置いて、師匠はひかるの目を見つめた。
師匠「老子も言っています。“道”とは、なろうとするものではなく、
すでに流れているものなのです。“成る”のではなく、“還る”のです。
私たちは本来の姿を思い出すために、こうして問いを立て続けるのです」
ひかるはその言葉に、胸の奥がふるえるのを感じた。未来へ向かおうと焦る自分。
でも、本当はずっと、戻るべき何かを探していたのかもしれない。
──私にとって“問い”とは、何なのだろう?
──“道”とは、どこか遠くにあるものではなく、私の中にすでに在るものなのではないか?
そんな思いが、ふわりと胸の奥に芽吹き始めていた。
──そのとき、ひかるの胸の奥で、何かが静かに“震え”始めていた。
答えを急がなくてもいいのだと、
目標を持たなくても、問い続けることがひかる自身の“道”になるのだと──
そんな確信が、月の光のように、心に差し込んできていた。
そして彼女は、師匠の言葉の続きを、そっと待っていた。
師匠は少し間をおいてから、静かに言葉を継いだ。
師匠「人々が不安を抱えているときこそ、“正しさ”にしがみつきたくなるのです。 自分が傷つきたくないから、誰かを裁いて、位置を確かめる」
ひかる「そう、それが繰り返されて……気づいたら、皆が誰かを“見張る”ようになってるんですよね。職場でも、学校でも、“多数派”でいろ、っていう状況……
そして、ちょっとでもズレたら“変な人”って思われる……」
ひかるの声は、どこか怒りと哀しみの混ざった色を帯びていた。
ひかる「わたし、ああいう空気が苦手なんです。だから静かにしてる。
でもそれも、時には“何考えてるかわからない”って言われる。
じゃあ何かを話したら“意識高い”とか“空気読まない”って……結局、どこにいても責められる…」
師匠は目を細めて、茶を差し出した。
師匠「人の心が、言葉の奥にある“気配”を感じられなくなってきているからだよ。
目に見える投稿、発言、行動だけで、全てを判断してしまう。
けれど本当の痛み、本当の思いは、そんな場所には滲み出てこないものです」
ひかる「……そうですよね……
みんな、本当は泣きたくて、怖くて、誰かに気づいてほしいだけなのに……
それを素直に言えないまま、誰かを攻撃することで、心のバランスを保ってる気がする」
師匠は静かに、しかし決して揺るがぬ眼差しでひかるを見つめた。
師匠「だからこそ、あなたのような存在が必要なのです。◯でも✖️でもなく、答えを決めつけずに在る者。易は“グレー”の道。揺らぎの中に真実がある。
白か黒かではなく、“まだ決まらないもの”の中にこそ、魂の声が宿るのです」
ひかるは胸の奥で、小さな震えのようなものを感じていた。
師匠は続ける。
師匠「迷い、立ち止まり、聞こえない声に耳を澄ます──“その人の声なき声”に寄り添い、
ただそこに“在る”こと。それを“問い”として受け取る者こそ、本来の“巫女”の役割なのです。
あなたには、その巫女の素質がある」
ひかる「……巫女……?」
ひかるはその言葉を、心の内でそっと反芻した。
師匠は静かに頷いた。
師匠「古き時代の巫女は、神に仕える者ではありませんでした。
神を“語る”のではなく、神と共に“沈黙する者”。
神託を述べる前に、まず沈黙し、心を空にする──
空となって、天と地、人と神の“間”に立ち、ただ聴く者だったのです」
ひかる「語るのではなく、聴く……」
ひかるの声は、わずかに震えていた。
師匠「そう。“語る”という行為は、自我が生むものです。
しかし、“聴く”という行為は、自我を手放したときにはじめて起こる。
巫女とは、神に祈る者ではなく、“祈りそのもの”として在る者。
自分や目の前の誰かだけのためではなく、“この世界の調和”そのもののために立つ」
そして師匠は、ふと目を伏せて、こう付け加えた。
師匠「人々が忘れかけた“間”を取り戻すために、
そして、沈黙の奥に響く“真の問い”を再びこの世に響かせるために、
──あなたのような器が必要なのです」
師匠の声が、静かに響いた。
その言葉に、ひかるの胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
ひかる「……あの…卑弥呼も……そうだったのでしょうか?
どうして卑弥呼のような本物の巫女はいなくなったんでしょうか?」
師匠は静かに答えた。
師匠「神の声を聞く者は、この世界にとって“都合が悪い”存在だったからです。
目に見える法や制度が優先され、神の声は“迷信”とされていった。
見えないものを感じ取ること、それらはすべて排除された」
ひかる「じゃあ、卑弥呼のような古代巫女たちはどこへ行ってしまったのですか?……」
師匠「山の奥へ消えました。声なき者たちの祈りとともに。
本物の巫女たちは名を捨てて、闇に潜ったのです……」
ひかるの脳裏に、小さな頃に感じていた誰かに見られているような”山の気配”がよみがえる。
師匠は少し間を置き、さらに続けた。
師匠「神の声を聞く者には、共通の資質がある。それは、“我であって、我でない者”だ」
ひかるは、顔をあげた。
師匠「能を知っているか?」
ひかる「……はい。子供の頃、父と舞台を観に行ったことがあります」
師匠は静かに微笑んだ。
師匠「能の演者は、面をかぶる。あれは、自らを消すためだ。
面をかぶった瞬間、演者は“我”を離れ、神になる。
欲も、悲しみも、喜びも、すべてを脱ぎ捨てて、ただ在る。
だから、神は面を通してこの世に降りる」
ひかるは、息を呑んだ。
師匠「問いを立てる者も、同じだ。己の声を手放し、無名の器となる。
そのとき初めて、見えない声が、聞こえる。問いは、神を迎える門なのだよ」
月光が障子を透かして、ひかるの手元に淡い影を落とした。
──自分を捨てる。
──無になる。
それは、怖いことだった。
けれど、心の奥深くでは、なぜかとても自然なことのようにも思えた。
それらすべてが、“誰かの声“をきいた記憶だったのかもしれない。
師匠「あなたの中にも、その記憶は流れています。
この時代が忘れてしまった祈りのかたちを、あなたが思い出すために──」
そのとき、遠くで風がそっと木を揺らした。
障子の隙間から差し込む光が、ひかるの瞳を一瞬照らした。
──私は、何者なのか。
そして、なぜ私は誰かに呼ばれているのか。
問いは、静かにひかるの内で息づいていた。




