第二章 「坤」──魂の絵、涙の記憶
本筮易を学べば学ぶほど、ひかるの心で、少しずつ違和感を抱くようになっていた。
卦の意味、爻の変化、天地自然の象意──
それらは確かに深く、美しく、理にかなっていた。
けれど、現実の人間関係や、自分の葛藤に易を当てはめようとすると、
かえって混乱することがあった。
“優しさ”や“迷惑をかけないこと”を信条としてきた自分が、
易の示す厳しい現実と向き合うたびに、何かが剥がれていくようで、怖かった。
ある日、ひかるは師匠に思い切って自分の想いをぶつけてみた。
ひかる「師匠……私、どうしても納得できないんです。
“自分を貫くためには、周りに迷惑をかける覚悟がいる”って言われても……
私は、そんな風に生きたくない。迷惑をかけたくないから、我慢してきたし、
自分の気持ちなんて後回しにしてきたんです。それが“優しさ”だと思ってたから──」
師匠は、ひかるの言葉を黙って聞いていた。
ひかる「……でも、今の世の中は、自分がよければ何してもいいっていう人ばかりです。
自分の欲望を通すために、平気で相手を傷つける。
自分が迷惑をかけてるとわかっていながらも、それでも我を通す…
それが“勇気”なんでしょうか?」
その問いに、師匠はゆっくりと口を開いた。
師匠「……“迷惑をかけないようにしなさい”というのは、
“迷惑をかけないようにする心構え”を持ちなさいという意味です。
それ自体は大切なことです。
しかし──“迷惑を一切かけずに生きる”というのは、
不可能なことをしようとする自己過大評価にすぎません」
ひかるの呼吸が止まる。
その言葉は、胸の奥の“何か”を突いた。
師匠「あなたは、優しさを大切にしてきた。それは尊いことです。
けれど、優しさを盾に、何も選ばず、何も問わず、ただ耐え続けることが、本当に“謙虚”だと思いますか?」
ひかるは何も言えなかった。
言葉にできない痛みが、心を締めつけていた。
師匠は静かに続けた。
師匠「回りに迷惑をかけることを覚悟する勇気を持つこと──それが“謙虚さ”です。
易を通じて、何かを変えたいと願うのなら、そこには必ず、誰かに波紋を及ぼす瞬間がある。
それを恐れていては、何も始まりません」
ひかる「……でも、それは結局、自分勝手なんじゃないですか?
他人に迷惑をかけて、自分だけが前に出て……それが謙虚なのでしょうか?勇気なのでしょうか?」
師匠「いいえ。真の勇気とは、“他人に迷惑をかける覚悟”を持つことです。
胸の奥に絡みついた想いを吐き出すように、ひかるは問いかけた。
ひかる「……自分の欲望や、勝手な期待を優先して、そして人に迷惑をかけて…
それが……勇気というものなのでしょうか?
今まで、人に迷惑をかけないようにと生きてきた私は間違いだったのでしょうか?」
師匠は、しばし黙ってひかるを見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。
師匠「あなたは本当に人に迷惑をかけず生きてきたのでしょうか?
誰しも他者に迷惑をかけずに生きることは決してできはしない。
できると思うのは、自分を過信している証だ。
それを”傲慢”というものだ、己を知れば、限界があるとわかるはずだよ」
ひかる「傲慢⁈」
ひかるはっと息を呑んだ。
師匠「易を通じて、自分が何かを得て、何かを変えて、
それが世の役に立つのならばね……そのために迷惑をかけることも、覚悟しなくてはいけない。
これは、自分勝手に振る舞うこととは違う。己の小ささを認め、謙虚さを抱えたうえで、
なお他者に泥を被ってもらわねば進めないとき、涙を流しながらも踏み出すことだ。
――それが、勇気だ」
ひかる「…人に泥を被せる勇気…?」
師匠「そう。戦国の武将たちは、偉人だと讃えられるけれど、
その道は血に塗れていた。
人を殺し、悲しませ、恨まれもした。
だがその痛みを、嘆きを、自ら背負いながら、それでも進んだ。
だからこそ、平和がもたらされた。謙虚でなければ、その覚悟はできなかっただろう」
師匠の言葉が、魂にしみ入るようだった。
師匠「迷惑をかけることを恐れて何もできなくなる臆病さを、正しさで覆い隠してはいけない。
『私は人に迷惑をかけたくないんです』という言葉の裏にあるのは、
自分が否定されることへの恐れだ。
だが本当の謙虚さは、自分が人に迷惑をかける存在であることを受け入れ、
だからこそ涙しながら感謝して、そのうえで何かを為そうとする姿勢なのだよ」
ひかる「でも、この情報社会も色々な争い、 人間の欲望、傲慢さなどからできたものです。
人間は知恵をもった猿。その猿がこのような状況をつくり続けてしまった…
それは、師匠がおっしゃっていたことです…
戦国武将たちが人に迷惑をかけ、人のものを奪い、命までも奪って作りあげたこの世の中が
世のため人のためなのでしょうか…⁈」
師匠はふと目を細めて、静かにうなずいた。
師匠「そうだな……確かにこの世界は、人の欲望と傲慢によって形作られてきた。
知恵を持った猿――まさにその通りだ。知恵は人間を進化させた、
だが同時に、自らを滅ぼす火種にもなった」
(師匠は一拍置いて、続ける。)
師匠「戦国武将が築いた世も、現代の情報社会も、根っこは同じさ。
利を求め、力を競い、正義を掲げながら、誰かの犠牲の上に立っている。
しかし、だからといって、そのすべてが無価値だったとは言えない。
人が苦しみ、血を流し、涙を流して得た平穏には、やはり意味がある。
問題は――その上に立った者が、その痛みを忘れてしまった時から始まるのだ」
ひかる「……痛みを、忘れる…」
師匠「そう。戦国武将たちは、その道がどれほどの犠牲を伴ったかを知っていた。
だからこそ、静かに、心の中で詫びながら生きてきた。
しかし、現代の多くの者は、自分の“便利さ”や“正しさ”の陰で、どれだけの犠牲があるかに鈍感になっている」
師匠の声は、深く、静かだった。
師匠「だがな、ひかるさん。だからこそ、君のように“問いかける者”が必要なんだ。
易もまた、問いかけの学問だ。
世界は、問いによって変わる。迷い、葛藤しながらも、
“それでいいのか?”と問い続ける者が、この世界の希望になる。
戦国武将たちは、多くを殺し、悲しませ、不幸にしながらも、
その悪行を自覚した上で、そのすべてを引き受け、涙し、苦しみ、
それでも“後に続く平和”のために歩みを止めなかった。それが、易の言う“天命”に従った者の姿です」
師匠の瞳が、まっすぐにひかるを見つめていた。
師匠「己を知り、己の小ささを知ること。
そして、その限られた力であっても、他者のために迷惑をかけることを恐れず、
それでも涙を流して前に進むこと。それを“謙虚”と呼ぶのだよ」
ひかるは、唇を噛んだ。
ひかる「優しさって何だろう……
私が信じてきた“優しい人”って、ただ傷つかないように、逃げてただけじゃなかったのか?
誰にも迷惑をかけないようにと、ただ、何も選ばず、何も主張せず──」
ひかる「……私は、ただの“臆病者”だったのかもしれません…」
ぽつりとこぼれた言葉は、自分でも意外だった。
師匠はその言葉を、ただ静かに受け止めた。
師匠「それに気づいたあなたは、もう臆病ではありません。
“気づく”というのが、すべての始まりですから」
ひかるの耳にはもう師匠の言葉が何も入ってこない。
母の言葉、それを信じてここまできたひかるには、
どうしていいのかわからなくなっていた。
同時に、こんな自分が易を使って人を導くなど、到底できることではないと感じとっていた。
ひかるは、この日を境に、師匠から離れていった。
──本筮易から離れ数か月が経っていた。
ひかるは完全に“問い”から逃れられたわけではなかった。
師匠の言葉が、心の奥に静かに残り続けていた。
それでも、あのときは受け止めきれなかった。
本筮易が示す世界の厳しさ、自分の未熟さ、
そして「優しさとは何か」という問いの重さが、あまりにも大きすぎた。
ひかるは別の道を模索するようにして、「略筮」を学び始めた。
本筮とは違い、もっと簡略化された手法。
易として広く親しまれているスタイルは、手軽で楽しかったし、日々の判断にも役立った。
──でも、何かが違う。
心の奥で、ずっとその声が響いていた。
問うた内容に答えは出る。
けれど、根源的な問いには触れられない気がした。
その違和感をうまく言葉にできずに、ただ日々を過ごしていた。
そうして、一年が経った。
その年の秋、知人の紹介で、ある文化団体の催しに参加することになった。
舞台は、都内の郊外にある、ひっそりと佇む古寺。
紅葉に包まれた静かな境内には、時折風に舞う落葉の音だけが聞こえていた。
催しのテーマは、「祈りと記憶」
秋の午後。ひかるは、古寺の境内に立っていた。
会の案内状には、「本堂左手奥、参道を抜けた先の書院にて」と書かれていた。
だが、初めて訪れたその寺は想像よりも広く、
幾重にも枝分かれする参道と複雑な回廊に、ひかるはすっかり迷ってしまっていた。
紅葉の葉が風に乗って舞い、石畳に淡い音を落とす。
その音さえも耳に入らないほど、ひかるの心はざわめいていた。
──どこだろう。
──もしかして、通り過ぎた?
苔むす石段を上り、木の柱に触れながら歩を進めていたそのとき。
ふと、左手の廊下に目がとまった。
──ここだけ、空気が違う!!
何かに誘われるようにして、ひかるは廊下を左に折れた。
その瞬間。
目の前に、天井まで届くかと思われるような、巨大な絵が現れた!!。
「……!」
足が、止まった。
心臓が、跳ねた。
息が、浅くなる。
──あれは……⁈
それは、あのとき、師匠のもとで一度だけ目にしたことのある絵だった。
“龍騎観音”。
風をはらんだ衣が雷の羽のように舞い、天空を翔ける観音様の姿。
龍のうねり、観音様の目の奥にある静けさ、
それらすべてが、記憶の中のあの一幅と寸分違わぬものだった。
けれど今は──あのとき以上に、鮮烈だった。
廊下の光が斜めに差し込み、絵の中の観音様の瞳が、ひかるを見つめ返してくる気がした。
その視線に触れた瞬間、胸の奥が突き刺さるように痛んだ。
──忘れていた。
──見て見ぬふりをしていた。
あの絵は、師匠の書斎の奥、誰にも見せずにしまってあった。
一度だけ、ひかるが手伝いで蔵書を整理していたとき、偶然その奥で見かけた絵。
師匠はそれをじっと見つめながら、こうつぶやいていた。
師匠「これは……“導く者”の姿です。雷の羽をまとい、風とともに天と地をつなぐ者。
目覚めを待つ魂の前に、必ず現れます」
あのとき、意味がわからなかった。
でも今は──わかる気がした。
この絵は、自分に“問いを取り戻せ”と告げている。
避けてきた問い。
逃げていた記憶。
押し込めていた涙。
ひかるは、絵の前に立ち尽くしたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。
ひかる「……あのとき、もう一度向き合っていればよかった」
観音様の瞳は、何も責めなかった。
ただ、すべてを受け入れるように、静かにそこにあった。
──戻ろう。
もう一度、問いに立ち返ろう。
“師匠”に、会いに行こう。
この日を境に、ひかるの“魂の旅”はふたたび始まった。
“問うこと”も、まだ形にはなっていなかった。
けれど、今度こそ、自分の足で歩いていこうと思えた。
その観音様は、風のなかで、微かに微笑んでいるように見えた。
むしろ、本当の“問い”が、ここから始まっていくのだった──。
その日、ひかるは一年ぶりに、あの古い家の門をくぐっていた。
季節は秋から冬へと向かい始めていたが、庭にはまだ名残の紅葉がちらほらと舞っていた。
門を開けると、懐かしい土の匂いと、あの静けさが迎えてくれる。
玄関先で「こんにちは」と声をかけると、しばらくして襖の向こうから懐かしい声が返ってきた。
師匠「……やっと、戻ってきましたね」
師匠は、あの日と変わらぬ静かな笑みをたたえて、畳の上に座っていた。
ひかる「急に押しかけてしまって、すみません」
師匠「いいえ。来るときは必ず風が先に知らせてくれますから、わかっていましたよ」
そう言って、師匠はゆっくりとひかるのために茶を淹れ始めた。
懐かしさからなのか、心のどこか片隅に残っていた師匠の言葉がよみがえる。
──タンポポはタンポポ。薔薇にはなれません。
ひかるは、思い切って口を開いた。
ひかる「……師匠が昔、おっしゃっていた言葉、覚えています。
“タンポポは、どう頑張っても薔薇にはなれない。タンポポとして生きていく覚悟が必要だ”って」
師匠は湯飲みをそっと差し出しながら、静かにうなずいた。
師匠「ええ。それは、今でも変わりません。多くの人が、“薔薇”になろうとして苦しんでいます。
けれど、タンポポにはタンポポにしか咲かせられない花がある。
それに気づいたとき、人はようやく“自分の道”を歩き始めるのです」
ひかるは、目を伏せたまま言った。
ひかる「私は……ずっと、“優しくて強い誰か”になりたかった。
薔薇のように華やかで、鋭くて、誰にも負けない存在になりたかった。
でも、実際は……誰かを優先して、自分の気持ちをごまかして、
迷って、逃げて……結局、私は“タンポポ”だったのかもしれません」
師匠「それは、悪いことではありません(師匠の声は、ただ柔らかかった)
薔薇は、孤高の美しさを持つ。
でも、タンポポは、風に乗って種を飛ばし、どこにでも咲く。
踏まれても、日陰でも、必ず芽を出す。どちらが良い、という話ではない。
ただ──“自分が何の花であるかを知り、その花として咲く覚悟”が必要なのです」
その言葉に、ひかるは心の奥底で小さな灯が灯るのを感じた。
ひかる「師匠……私、まだ怖いです。
でも、あの“絵”を見てしまったんです。また、何かが始まる気がして……」
師匠は、目を細めて静かにうなずいた。
師匠「それは、“魂の声”です。再びあなたが、“問いを持った”ということ──それが、始まりです」
ひかるの目が、うっすらと潤んだ。
ひかる「私は、タンポポ……それでも、何かを伝えられるでしょうか?」
師匠「もちろんです。風に乗る花だからこそ、言葉はどこまでも届くのです。
あなたの問いが、やがて誰かの問いを生みます。その連なりが、時代を超えて響いていくのです」
そのとき、ふわりと部屋の障子が風で揺れた。
──風が、また吹いていた。
ひかるの中で、何かが確かに動き出していた。
次こそは逃げない。
この小さな問いとともに、もう一度、歩き出してみよう。
それが、薔薇じゃなくてもいい。タンポポとして、咲ける場所があるのなら──