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第一章-3「艮」──封じられた声を聴いた日【風水渙と魂の問い】

翌週、ひかるは意を決して、師匠が主宰するという「本筮易研究会」の扉を叩いた。

東京の下町。古民家を改装したその一室は、どこか懐かしく、

しかし不思議と緊張感を漂わせていた。

土間には季節の花が生けられ、棚には易経や神道、古典に関する書籍が整然と並んでいる。


師匠「ようこそ、いらっしゃいましたね」


師匠──八雲龍舟は、まるで待っていたかのように笑みを向けた。

あの講座のときと変わらぬ穏やかさと、

しかし眼差しの奥には、澄んだ水のような深い意志があった。


師匠「“本筮易”という言葉、初めて聞いたでしょう?」

ひかる「はい……なんとなく難しそうだなって。

占いとは違うって言われても、やっぱり……どこを信じていいのか、よくわからなくて」

ひかるの言葉に、師匠はうなずいた。

師匠「それでいいんです。“信じられない”というのも、大切な問いですからね」

ひかる「問い……ですか?」

師匠「ええ。本筮易は、あなたの“迷い”や“わからなさ”も、そのまま天に問いかけることができます。 “わからない”と正直に問うこと、それが一番、誠実な始まりなのです」

ひかるは、胸の中で微かに波が立つのを感じた。

けれど、まだそれをどう言葉にしてよいのかわからない。

ひかる「でも……なぜ本筮易なのでしょうか?

それに私は特別な知識があるわけでもないし……自分の人生を振り返るだけで、精一杯で……」


言葉にして初めて、自分の心がいかに“疲れていた”のかに気づいた。


母の言葉を胸に、優しさを大事に生きてきた。

でも、真面目に頑張れば頑張るほど、報われない日々。

他人に踏まれ、押し流されるように生きてきた。


ひかる「時々わからなくなるんです。どうして私は、ここにいるのか。生きるって、何なのか…」

師匠はしばらく沈黙したあと、ふと視線を上げた。

師匠「まず、“問うこと”から始めましょう」

ひかる「問う……?」

師匠「たとえば、“私はなぜ、ここに来たのか" それでいいのです。

心の奥底にある“声”を、少しずつ聞いていくために。

“本筮易”は、あなた自身の魂と対話するための、『鏡』なんです」


ひかるは黙ってうなずいた。まだ確信もない。

むしろ、信じてしまっていいのか戸惑いさえある。

けれど、目の前にいるこの人の言葉は、どこか嘘がないと感じた。

ひかるは、意を決して師匠に尋ねた。


ひかる「……それでは、その本筮易というものを立てていただけませんか?」

師匠「はい。では、それを“問い”として、立ててみましょう」


その瞬間、部屋の空気がわずかに張り詰めた。

茶の香が深くなるような、見えない何かが動くような、そんな気配。


それが、彼女の長い旅の、ほんの始まりであった──。


師匠の前に静かに筮竹が置かれた。

ひかるは深く息を吸い、手のひらを合わせる。

問いは、ただひとつ。


──私は、なぜここに来たのか?


静かに、慎重に、師匠の手により「本筮易」が行われる。

時間をかけて割られた竹の数、組み合わされた数爻の意味、

それらが一つひとつ丁寧に読み解かれていく。

師匠が、やがて口を開いた。


師匠「……出ましたのは、風水渙ふうすいかん

“渙”とは、凝り固まったものが溶けて流れ出すこと。

停滞していた気が動き出す、魂が再び散り、また集うという象です」


ひかる「……散って、集う……?」


師匠「はい。あなたはこれまで、“感じてはいけない”と押し込めてきたものが、たくさんあるようですね。悲しみ、怒り、願い、そして、魂の記憶。それらがいま、ほどけて流れ出そうとしている」


ひかるは、ふっと息を詰まらせた。確かに、今までずっと感じないふりをしてきた。

母の死も、都会での孤独も、自分の存在が軽んじられるような日々も。


「誰かのために」「迷惑をかけないように」そう言い聞かせて、生きてきた。


師匠は、さらに続けた。

師匠「“渙”は、水の上に風が吹く景象。

水は感情であり、風は意志や気配。あなたの中に吹いた風が、止まっていた水を動かし始めたのです」


その言葉を聞いた瞬間──ひかるの脳裏に、突如として映像のような記憶が、ふわりとよみがえった。

白い霧の中。

遠くにひときわ高くそびえる山。

その山裾に、何かを祈るように座っている“誰か”の姿。


──あなたは、そこにいた。

──風の声を聴いていた。


「……!」

ひかるは、無意識に手を胸に当てた。

それは夢でも幻でもない。

もっと深い場所から湧き上がってきた、“知っているのに、忘れていた”ような感覚だった。


師匠は、ひかるの変化を静かに見つめながら、柔らかく口を開いた。

師匠「本筮易は、形ある答えではなく、“声”を受け取るものです。

その声は、あなたの記憶に眠るもの、そしてこの世に託された願いかもしれません」


ひかるは震えるように、小さくつぶやいた。

ひかる「……私、どこかに戻ろうとしている気がします……」


師匠は、そっとうなずいた。

師匠「それが、問いのはじまりです。さあ、ここからあなたの物語が静かに動き出しますよ…」


──本筮易を学び始めてから数か月が過ぎた。

雨のあとの静かな夕暮れ。

畳の上に坐り、易のレッスンを終えた後、ひかるは師匠にそっと尋ねていた。


ひかる「先生……易って、やっぱり人から“占い”って言われてしまうんですね。

“当たらなかった”って言われたら、なんだか……悔しいです。」

師匠は、少し微笑んで言った。


師匠「“当たるも八卦、当たらぬも八卦”。

よく言ったものだ。だが、それは“答えを外に求める者”の言葉。

本当に易を知る者は、“答えを内に問う”のだよ」


ひかる「内に……?」


師匠「当たった、外れた――それは、“未来を他人任せにした者”の見方だ。

易は、“この一瞬の心の姿”を映し出す鏡だ。

その鏡をどう受け取るかは、己の深さにかかっている。

外れたと思ったなら、それは“耳を塞いだ自分”を映していたのかもしれない」


ひかる「……厳しいですね」


師匠「うむ。だが、それだけ本物ということでもある。本筮易は“神の声”に耳を澄ませる術。

それを“ただの占い”と切り捨てた人間が、神の声を聞けると思うか?」


ひかるは、静かに首を振った。

その胸に、“問いを立てる責任”というものが芽生えていた。

ただ、ひかるは、そんな易に対してまだ不安というものを感じていた。


ひかる「……先生、不安というものもやっぱり悪いことなのでしょうか?」

師匠「そう思うか?」

ひかる「はい。胸の奥がざわざわして、落ち着かなくなる。

未来が見えなくなって、苦しくなって……。

でも、どうしてか、そんな時に限って、何かを問いかけたくなるんです」

師匠「それこそが、“卦を得る”時だ」

ひかる「卦を……得る?」


師匠「不安とは、天地が揺らぎ、陰陽が交わる“間”のこと。

目に見えるものと見えざるもののあいだに、揺れが生じたとき、

人は“問う”ことを始める。

だから易は、不安の時にこそ生きる。逆に言えば、不安がなければ、人は問いを忘れる」


ひかる「……じゃあ、不安は、悪いことじゃないんですね」

師匠「悪いどころか、学びの門だ。

不安の裏には、まだ形にならぬ“氣”が渦巻いている。

易はその“氣”の動きを読む術。

あなたが今、感じているそのざわつきこそ、学びの扉なのだよ」


ひかる「でも、易を立てたところで、何も変わらない気がする時もあります」

師匠「変わらないのではない。気づいていないだけだ。

たとえば、山風蠱さんぷうこが出たらどう思う?」

ひかる「……腐敗、混乱、よくない卦、ですよね?」

師匠「表面はそう見える。だが、“蠱”とは変化の前兆だ。混沌は再生の胎動。

そこに気づけば、心は動き出す。易は未来を断言するものではない。

“今、ここ”にある真実を静かに照らすものだ」


ひかる「……“今、ここ”……」


師匠「だからこそ、不安の中にある者は、もっとも易の声を深く聞ける。

不安は、神々が耳元でそっと囁いてくれている時なのだ。

――“目をこらせ、心を澄ませ”とな」


(ひかるは、小さくうなずきながら)

ひかる「私……いつも、不安になると、空を見上げてしまいます。

雲の向こうに、誰かがいるような気がして……」

師匠「それでいい。空も、風も、雷も、水も……すべては八卦の中にある。

問いが生まれた瞬間、あなたの魂は天地と響き合っている。だから、“不安”を恐れることはない」


ひかる「……不安は、神さまの声なんですね」


(師匠は微笑して)

師匠「その声を聞くために、われらは“立てる”のだよ。問いと共に」

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