第一章-2「艮」──封じられた声を聴いた日 【母の着物と運命の扉】
数日が過ぎたある夜、ひかるは寝つけずにいた。
窓の外は静まり返っていて、都会特有のざわめきもこの夜ばかりは不思議なほど遠かった。
ふと目を閉じ、意識が沈みかけたその瞬間だった。
──シャリン……。
どこからともなく、鈴の音が聞こえた。
柔らかく、それでいてはっきりと耳に届く澄んだ音。
あの神社で聞いた時と同じ音色、そう、これは神楽鈴の音色だ。
ぱちりと目を開ける。部屋は真っ暗で、誰もいない。
ただ、窓の隙間から差し込む月の光が、静かに床を照らしていた。
ひかるは起き上がり、窓際へと歩み寄った。空には、雲ひとつない夜。
満月が、静かに世界を照らしていた。
その光に照らされた瞬間、彼女の中で何かが目を覚ました。
──思い出せない何か。
──封じられていたような何か。
そして、どうしても眠れなくなった彼女は、ふと箪笥の引き出しを開けた。
そこにあったのは、亡き母が生前に大切にしていた着物だった。
淡い藤色の地に、雷光のような銀の刺繍が走る、
どこか神楽の衣装にも似ていた。
「これだけは……絶対手離せない」
着物に指を滑らせながら、母のぬくもりが胸にこみ上げる。
でも、このままでは箪笥の肥やしになってしまう。
しかし、着物の知識など何もない。帯の結び方も、襦袢の着方もわからない。
けれど、今の自分が変わるきっかけになる気がした。
何かを学ぶことで、母ともう一度、深くつながれる気がした。
──この着物を着られるようになろう!
そう決めたひかるは、仕事の合間をぬって、近くの着付け教室を探し始めた。
いくつかの教室のホームページを見比べていると、ふと、ある一文が目に留まった。
「母娘の思い出をもう一度。はじめての方歓迎。」
その言葉に心をつかまれた。
すぐに申し込みの連絡を入れ、数日後、初めての教室へと向かった。
こぢんまりとした和風建築の一室。畳の匂い、障子越しのやわらかな光。
教室の中では、数人の女性たちがそれぞれのペースで着物を身につけていた。
「ようこそ。今日が初めてですね?」
そう声をかけてくれたのは、品のある年配の女性だった。
静かな口調ながら、芯の通った優しさがにじんでいる。
その講師の姿を見た瞬間、ひかるはふと、阿蘇で出会った宮司さんの言葉を思い出した。
──「今日はちょうど、例大祭の日なんですよ。」
あのときと同じ、**何かに導かれている**ような感覚が、胸の奥でふくらんだ。
講師に手ほどきを受けながら、ひかるは母の着物に袖を通す。
しゅるりと身体を包み込む絹の感触。鏡に映る自分の姿が、どこか別人のように見えた。
──私の中に、母がいる。
──この着物が、私を守ってくれている。
授業の終わり、講師がふと、こんな言葉をかけてくれた。
「着物には、不思議な力がありますよ。その人の“心”を、映してくれるんです」
ひかるは、静かにうなずいた。
まだ、その言葉の真の意味を知るには早かった。
けれどこの出会いが、彼女を本筮易の世界へと導いていく。
それは、偶然を装った、必然の始まりだった──。
着付け教室に通い始めてから一年。
仕事と両立しながらも、ひかるは一歩ずつ、着物と向き合ってきた。
着物の構造、襦袢の重ね方、帯の結び方、所作の意味──。
何度もつまずき、何度も練習し、それでも続けてこられたのは、
あの夜に聞いた神楽鈴の音色と母の着物のぬくもりが背中を押し続けてくれたからだった。
そして、ついにその日がやってきた。
資格を手にした日、ひかるは教室を出たあと、ゆっくりと空を見上げた。
雲一つない空の下、風がそっと頬をなでる。
──さあ、これからだ。
初めて、自分の足で着物を着て出かける日が来たのだ。
箪笥から、母のあの藤色の着物を取り出す。
帯は自分で選んだ柔らかな銀。襟元には小さな桜の刺繍をあしらった半襟を添えて。
鏡の前に立った自分は、どこか母と重なって見えた。
──さて、どこへ行こうか。
着物で出かける最初の一歩。
ただ歩くだけでもいい。けれど、せっかくなら何か目的が欲しい──。
そんなことを考えながら、何気なく開いた地域の情報紙。
そこに、小さな広告が目に飛び込んできた。
「心の原点に出会う講座──東洋思想の扉を開く」
その横に、小さく書かれていた一文。
「着物での参加者には割引あり♪」思わず、息をのんだ。
講座の内容は、陰陽五行や暦の思想についての入門。
難しそうだけれど、なぜか惹かれた。
その瞬間、身体の奥から、
「そこへ行きなさい」とでも言うような感覚がふっと立ちのぼった。
──これは、偶然ではないかもしれない。
ひかるは迷いもなく申し込みをしていた。
それは、日常から半歩抜け出し、運命の出会いへとつながる、静かな扉の音だった。
母の藤色の着物を身にまとい、静かに会場の扉をくぐった。
思ったよりも会場は落ち着いた雰囲気で、年齢も性別もさまざまな人々が集っていた。
演台の前には、講師として紹介された一人の男性が立っていた。
年の頃は五十代。
髪をきちんと後ろで結び、どこか僧侶のような静謐さを纏っている。
言葉は穏やかで、しかし一言一言に確かな“芯”があった。
「暦とは、天の動きを知ることだけではありません。
人が天地の理とどう向き合い、どう歩むか──そこに“術”があるのです。」
ただの知識ではない。
話の中に、ひかるは“見えない何か”を感じていた。
それは、阿蘇の風に紛れて聞こえたあの声、
そして深夜に響いた神楽鈴の音と、どこかでつながっているような感覚だった。
──この人は、ただ者ではない。
講座が終わると、受付で参加者全員に美術館の無料チケットが配られた。
「よろしければ、そのまま隣接の美術館もご覧ください」と係の人。
予定もなかったので、ひかるはその足で静かに向かった。
展示は「祈りと美──古代から現代まで」という企画展だった。
仏画、神像、陰陽道の絵巻、そして平安時代の神職の装束……
一つ一つを眺めていくうちに、胸の奥にわきあがる不思議な感覚があった。
──私の知らない“記憶”が、目を覚ましそうになる。
時間を忘れて見入ったあと、ひかるは静かに出口へ向かった。
ガラスの自動ドアが開いたその瞬間。
「……やあ、ここでお会いするとは。着物がよくお似合いですね」
あの講座の講師──そののち「師匠」となる方が、目の前に立っていた。
ごく自然に、まるで待ち合わせをしていたかのような穏やかさで。
師匠「まさかおいでになるとは思いませんでしたが、何か感じるものがありましたか?」
その問いかけに、ひかるは戸惑いながらも、胸の内のざわめきを隠せなかった。
ひかる「……はい。何か、“懐かしいもの”を見た気がしました」
師匠は、静かにうなずいた。
師匠「それは、おそらく“魂の記憶”というものです。
今のあなたには、まだ早いかもしれませんが……いずれ、必要なときが来るでしょう」
そして、師匠はふと何かを思い出したように、名刺を差し出した。
師匠「もし、もっと深く“暦と心”について知りたくなったら、ここへいらっしゃい」
名刺の肩書きには、こうあった。
「本筮易 研究家」──八雲龍舟
この瞬間から、ひかるの人生は、静かに、しかし確かに変わりはじめていた。
それは、遥か遠い時代へと続く、魂の旅の始まりでもあった──。
名刺を手にした夜、ひかるはなかなか眠れなかった。
“魂の記憶”という言葉が、何度も胸の中で反響していた。
東洋思想の講座、美術館で見た神々の装束、あの神楽の音、そして、師匠の声の余韻──
すべてがつながっているような、不思議な感覚があった。
──私は、いったい何を思い出そうとしているの?