終章──天火の舞
静けさの中、ひかるは筮竹を胸の前で整え、深く一度だけ息を吐いた。
問いはもう、かつてのように「答え」を欲してはいない。
ただ、ここまで連れてきてくれた道の全てに、静かに火を分けたいだけだった。
この旅を重ねるあいだ、八つの象がひかるを内側から刻んだ。
”山(艮)”は立ち止まる勇気を。
”地(坤)”は受け取る痛みと母のぬくもりを。
”雷(震)”は封印を揺さぶる怖れと目覚めを。
”風(巽)”は隙間に忍ぶ祈りを運び。
”水(坎)”は底でほどけぬ涙の冷たさを教えた。
”火(離)”は見抜くまなざしを。
”沢(兌)”は響きあうために。
そして”天(乾)”は創りなおす誓いを──。
八つが別々のものではなく、同じ一つの円環であったことを、いまならわかる。
遠い記憶が胸の底で鳴る。
アジスキタカヒコネ──言葉にすれば形となって争いを呼ぶから、彼は哭いた。哭くことしかできなかった。
国ゆずりの影に追われ、名を奪われ、妹・高照姫とともに自らを封じるしかなかった。
そして「魂の問い」を待つためにも。
雷羽刀が鍛え上げられたとき、あの哭く声は、ひととき止んだ。
切るのは人ではなく、怖れの結び目だと知れたから。
刀は祈りの形、鍔は記憶の輪。
封印を斬るのは暴力ではない。問うことだ。
ふっと、ひかるの意識が現代に戻る。
満員電車の窮屈、〇か✕かで切り捨てられる言葉。
やさしさが“非効率”と笑われる瞬間。
師匠は言った。
「あなたは、器になりなさい。答える者ではなく、響く者に。兌の道とは、耳で判断せず、魂で共鳴すること」と。
わたしは、あの言葉どおりに歩けているだろうか──問いはまだ、胸の奥で熱を帯びている。
ひかるは静かに易を立てた。
現れた卦は”天火同人”
空のただなかに火が在り、志を同じくする者が野に集う象。
わたしは孤独に見えて孤独ではなかったのだ、と胸の中心がふっと緩む。
卦は”離為火”へと転じる。
ひかるの中で灯火が立ち上がる。
見る・識る・照らす。
火は“わたし”を輪郭づけるが、それは誇示ではない。
誰かの中の火を呼び覚ますために。
鬼と呼ばれ土蜘蛛と呼ばれ、名を消された者たちも、ほんとうはこの火を抱いていた。
その火を、現代の誰かへ渡す番が来ている。
哭き止めなかった声が、ようやく言葉にならずとも“響き”として伝わるように。
ひかるは胸の前でそっと呟き、雷羽刀の鍔に指を添える。
冷たい縁が、体温でゆっくりと温まっていく。
刀身は抜かない。
抜くべきものではないから。
この刀は、問いを導くための道標。
思い出す。奈良の雨、出雲の風、阿蘇の空。
参拝ののちに落ちてきた雷雨は、まるで「見ているよ」と告げる合図だった。
失ったもの、見つけたもの、言えなかった本音、赦せなかった誰か──
それらがぜんぶ、いまの火に栄養を与えている。
わたしは“占い”をするのではなく、“問い”を灯して受け取る。
それが、わたしの選んだ巫女の形かもしれない。
東の雲が切れ、天の光が一気に地表へこぼれた。
同志はもう、ここにいる。
まだお互いの名を知らなくても、同じ方向をみている気配だけでも十分だ。
「行こう」
ひかるは立ち上がる。
終わりは、はじまりと同じ場所にある。
天と火が重なるところへ、わたしたちはまた集まるだろう。
天火同人──この名のもとに。
そしていつでも思い出せるように、離の小さな灯火を胸に残す。
見るために、照らすために、燃え尽きないように。
風が衣の裾を揺らす。雷の羽が、月光をまとって一枚、空へ舞い上がる。
封印の向こうで長く続いた嗚咽が、ようやく静かな呼吸に変わった。
その呼吸に歩調を合わせ、ひかるは一歩、また一歩と、歩き出す。
同じ火を見るために。
そして、まだ名も知らぬあなたに、この小さな火を手渡すために。