第八章 「乾」──光を放つ者
満月の夜、風が、鳴いていた。
遠い雷の気配が、天の裾を裂いていた。
ひかるの掌で鍔は、いつしか雷羽刀そのものに変わっていた。
その刃先は、天へ向けて静かに掲げられている。
かつてアジスキタカヒコネと高照姫が命を懸けて護ったこの剣。
風が、その嘆きを運ぶ。
その声は遠く、懐かしく、深く、やさしい。
──なぜ、人は争うのか?
「我らは争いを望まなかった。剣は、奪うためでなく、護るためにあった。
雷羽刀は、天と地と人をつなぐ、祈りの光だった。
だが人は、その意味を忘れ、力に正義の名を与えた。
欠けを埋めようとして、奪う者は、さらに欠けていった、己の不安を埋めるために…」
その声は、責めるでも憐れむでもなく、ただ真実を語るようだった。
ひかるは、空を仰ぎながら震えていた。
ひかる「人はみんな、誰もがこの世に生を受けたとき、あの満月のように光輝いていたはずなのに…
人はなぜ欠けた部分ばかりを見てしまうのだろう。
そして、その影を悪いと決めつけてしまうんだろう。
……でも、私もそうだった。自分自身もその欠けた部分しか見てこなかった」
雷が、遠くでひとつ、鳴った。
ひかるは静かに立ち尽くしていた。雷羽刀を抱きながら。
声には出せないまま、心の奥で、何度も何度も泣き叫んでいた。
そこに、足音もなく、風が形を得たように、静かに師匠が現れる。
ひかるは腕の中の雷羽刀を見つめながら、静かに言った
ひかる「師匠……わたし……。
彼ら兄妹は……争いを止めたかった。命を懸けてまで、この剣を、誰にも渡さなかった。
でも、それなのに……歴史は、ずっと、争いを繰り返してる……。
なぜですか?
人は……なぜ、完全な光を宿して生まれきたはずなのに、闇へと向かうんですか?
あの空の月は、満ち欠けをくり返すのに、誰も“悪い”なんて言わない。
むしろ、その満ち欠けを美しいと思ってる。
なのに人の心は、“欠けている”という理由だけで、
“あの人は悪い”“この人は間違ってる”って決めつけてしまう……どうしてなんでしょうか」
師匠「それが、この世の“盲”だからだ。その“欠け”に怯える。
……人はな、光しか見ようとしないからだ。“光”だけが正しいと思い込んで、“影”を忌み嫌う。
影ばかりを見ては、互いを裁くようになってしまったのだ……それが争いの根だ。
だが、光がある以上、必ず影は生まれる。
木陰がなければ若葉は焼ける。雲がなければ土はひび割れる。
影は奪うものじゃない、育てるための余白だ。
影は、決して敵ではない。ただ、そこに必ず“在る”ものなのだよ」
師匠は天を仰ぎ、さらに言葉をつなげた。
師匠「人があえて見せない“影”。
言葉にできなかった痛み。
語られなかった願い。
誰にも知られずに沈めた想い。
その“見えない部分”に、耳を澄ませ、心を寄せる。
その影を、裁かず、拒まず、押し込まず、ただ“感じる”ことだ。
目に見えるものだけを信じるのではなく…
それができるのは、“問いを生きる者”だけだ」
ひかる「私は……どうすればいいのでしょう?この世界に、まだ争いが絶えない中で……
私にいったい何ができるのでしょうか?」
師匠は、静かに言った。
師匠「天に問う前に、お前はまず、自らに問え。
この世界に“正しさ”などはない。あるのは、“祈り”か、“忘却”かだけだ。
お前が祈りを選ぶなら、それが道となる」
ひかるは、そっと目を閉じた。
“影”と見なされた人々──
隼人族、出雲族、蝦夷たち……
闇に沈んだ声なき声たちが、確かにここに宿っている。
ひかる「彼らは……本当は、叫びかったんですよね。
でもそれすら、許されなかった。
言葉にすれば、その言葉が誰かを斬ると知っていたから……
だから、“哭くこと”でしか祈れなかったんですよね……」
師匠「そうだ。だからこそ、お前の涙は、あの剣と呼応したんだよ。
あの雷羽刀は、“争い”を断つ剣ではなく──“祈り”を宿す器なのだから。
お前は、その“乾”の器になった。天とつながる者の道を選んだのだ。
“答える者”ではなく、“響く者”として。
人の声ではなく、魂の震えに耳を澄ませる者。
だからこそ、お前に託されたのだ──雷羽刀を」
遠雷がひとつ。
雲の切れ目から、淡い光がこぼれる。
ひかるは小さく息を吐いた。
ひかる「私は、変わりゆく光を奪わずに受けとめたい。
足りないと決めつけず、そのまま抱えて、生きていきたい」
師匠はわずかに頷く。
そして、静かに夜の空気に溶けてゆく。
ひかる「師匠!」
呼び止めるひかるに、師匠はふと、振り返った。
ひかる「……私は、きっと何も変えられないかもしれない。
でも、それでも……誰かの“欠け”に光を注げるような、そんな“満ち方”を選びたい。
争うためじゃない。満ち欠けのすべてを受け止めるために──」
師匠は、静かに微笑んだ。
師匠「それでこそ、“乾”の者だ」
そのとき、雷が天に響き、月がその輝きを増した。
雷鳴の中、風がひかるの頬を撫で、
彼女の持つ雷羽刀が、ほんのりと光を放った。
その光は、過去でも未来でもなく、
今この瞬間の、“問いを生きる者”だけが持つ、確かな光なんだと。
ひかるの胸に、ふと何かが宿るのを感じた。
魂の奥からふつふつと湧き上がる光。
ひかる「アジスキタカヒコネ……」
その名を口にした瞬間、
空に浮かぶ月が、一層、光を増した。
「我らは、もう姿を持たぬ者。だが、お前がこの剣を持ち、
誰かの“闇”に光を注ぐなら、それが新たな雷羽の祈りとなる」
雷がまた、天を裂いた。
それは悲しみではなかった。新たな誓いの音だった。
**月は欠ける。だが、その影は、失われたのではない。
欠けてなお、また丸くなることを知っている──**
『魂は、満ちていることを忘れているだけ』
実際、ある神社で、ふと耳の奥に響いた声がありました。
――「わたしの辿ってきた道を、見てきてほしい。」
その一言に背を押されて、各地に残るアジスキタカヒコネと高照姫の社をたずねました。
やがて、どの社でも不思議と同じ“気づき”が待っていました。
それは「刀」という鍵です。
由緒、宝物、伝承、意匠など――表れ方は違っても、必ずどこかに刀の影がありました。
私はそこで思い至りました。
二人にとって刀は、争いの刃ではなく、護りの約束ではなかったか。
長い時間の向こう側で護り抜かれたもの、その祈りのかたちがあったのでは…と。
それから刀のこと調べました。
一本が生まれるまでに、土と火と水と風、そして人の技と祈りが幾度も往復します。
刀は、簡単に「人を断つ」ための道具ではありません。
だからこそ私は、アジスキタカヒコネや高照姫と同じように思うのです。
刀で人を切ってしまえば、そこで終わってしまう。
それは命だけでなく、問うこと・聴くこと・結び直すことの余地までも断ち切ってしまう。
本書で描いた刀は、敵を倒すためではなく、恐れの結び目をほどくための刃です。
封印を斬るのは暴力ではなく、問いである――
ひかるの旅は、そのことを易に導かれながら確かめていく道のりでした。
刀は“答えを押しつける刃”ではなく、“問いを護る鞘”であってほしいと願います。
いまの時代は、刃物のような言葉で「切れば終わる」ほうが早いのかもしれません。
けれど、早さのあとに残る静けさは、ときに取り返しのつかない空白になります。
だから私は、この物語をお読みくださったあなたに、小さなお願いを残したいのです。
どうか、すぐに切らず、一度だけ問いを置く時間を持ってください。
切らずに見つめた先に、必ず灯る火があります。
その火は、かつて誰かが護り続けた火であり、
これからあなたが誰かに手渡す火でもあります。
辿った社々に、静かに頭を下げます。
「見てきました。たしかに、ここにありました」
雷羽の小さなきらめきが、あなたの胸にもそっと届きますように。