第一章-1「艮」──封じられた声を聴いた日【都会の沈黙と光の柱】
亡き母の着物が導いたのは、遥かなる魂の記憶──
「わたしは…誰の声を聴いているの?」
出雲を追われ、封印された巫女の魂と、雷の神”アジスキタカヒコネ”の囁き。
現代を生きる女性が、“神と共に沈黙する巫女”として覚醒していく、
スピリチュアル歴史ロマン。
易の八卦とともに綴られる、魂の旅が今、始まる。
高月ひかる──
都内で派遣社員として働く、ごく普通の女性。
特別な能力も、特別な経歴もない。
ただ、どこにでもいるような“真面目な人”だった。
だけど、“どこかが、少しだけ違っていた”。
それは、自分でもはっきり言葉にはできない、違和感のような、予感のような……
何かが、ずれている――この世界と、自分自身が…。
痛っ!!――
満員電車の中、また今日も足を踏まれた。
踏んできたのは、顔も上げずにスマホをいじっていた中年男性。
謝る気配すらない。いや、そもそも人を踏んだことすら気づいていないのかもしれない。
まるでこの世界には、自分とスマホだけしか存在していないかのように。
また、後ろに立つ背の高い女性は、スマホを熱心にみているせいか電車が揺れるたびに、
ひかるの頭にスマホの先をぶつけてくる。誰も気にしていない。
ひかるは、軽くため息をついて、
「またか……」
心の中で呟いても、誰に届くわけでもない。
こんな風景は、日常になりすぎていて、もう誰も違和感すら覚えていない。
──そんな毎日だった。
人の温度が感じられない街。誰もがスマホの中に心を預けて、
目の前にある“他者”という存在を見ようとしない。
彼女の日常は、少しずつ“なにか”に擦り減らされていた。
会社に着けば、パワハラを恐れて指示も出せない上司のもと、
真面目に働く者ほど負担を背負い、適当に振る舞う者ほど気楽そうに笑っている。
──心底、疲れていた。
ひかるには、ずっと心に刻まれている言葉があった。
「人に迷惑をかけず、優しさをもって一生懸命に生きるんだよ」
幼い頃、母がいつも言っていた言葉。それを信じて生きてきたつもりだった。
けれど今の世の中は、スマホを見ながら人を押しのけ、
雨の日には狭い道なのに大きな傘を広げぶつかってきて、それでも謝りもせずに去っていく。
会社では、頑張るほどに「バカを見る」ような空気。真面目に向き合うことが、損になる。
そんな理不尽が、日常になっていた。
──人は、優しさを忘れてしまったのか…
母の言葉と現実の間で、心が少しずつ擦り切れていく。
言葉の通りに生きようとするほど、世界のどこにも居場所がないように思えてきた。
その日もまた、同じ時間の満員電車に揺られていた。
押し合いへし合いの車内で、彼女はストレスの波に飲まれていた。
まるで、ここに“人間”はいないみたいだった。
周りを見渡すと、今日もまた乗客のほぼ全員がスマホを見ていた。
誰一人、顔を上げようとしない。
無言のまま、無表情のまま、画面をタップし続ける姿は、まるでロボットのようだった。
──ここに、誰か“生きている人間”はいるのだろうか。
ふと、ひかるは視線を車窓へ向けた。
そして──思わず、息を呑んだ。
一本の太い虹が、まっすぐに地から天へと伸びていた。
どんよりとした都会の空を、まるで“光の柱”がまっすぐに貫いているようだった。
「……こんな虹、見たことがない!!……」
目を凝らしても、幻ではなかった。確かに、七色の太い光がそこに存在していた。
けれど──誰も、気づいていない。
車内の誰もがスマホの画面だけを見つめ、その異様な現実には目もくれない。
まるで、その虹はこの世界の光ではないかのように──別の時空へとつながっていた。
だが、電車は変わらず走り続け、ひかるはやがて、また人の波に押し戻されていく。
不思議な光景は、何事もなかったかのように、日常に飲み込まれていった。
そんなある日の昼休み。
ひかるは、窮屈な職場から外へ出た。
でも、街は相変わらずせわしなく、人の流れは一様にスマホとにらめっこしながら、
誰とも目を合わせないまま進んでいく。
溜め込んだ息を吐き出すように歩きながら、ふと視界に入ったガラス張りの店舗に足を止めた。
「……あ、本屋だ……」
とくに探している本があったわけではない。
けれど、そのときは何かに引かれるように、自然と足が中へ向かっていた。
新刊の平積みコーナー。
色とりどりの表紙が並ぶ中、ひときわ目を引く一冊が、まるでこちらを待っていたかのように、
目の前にあった。
”阿蘇”――天と地が交わる場所。
タイトルの下には、雄大な緑の山々、なだらかな草原を抱く阿蘇のカルデラが、
圧倒的な存在感で広がっていた。手が勝手に伸びる。
ページをめくると、風のように柔らかい光の写真が目に飛び込んできた。
山、雲、川、滝、…そして祈りの場――
そこには、何か“呼吸”が宿っている気がした。
心のどこかが、かすかに疼く。
(……行かなきゃ‼)
その言葉は、思考よりも先に、感覚として内側から湧き上がった。
まるで、遠い記憶が反応しているように。
「……阿蘇へ、いますぐ行きたい‼」
その瞬間、書店の空気が少しだけ変わった気がした。
外の喧騒が遠のき、自分だけが、何か別の世界に足を踏み入れたような感覚。
ひかるは、その本をそっと胸に抱えた。
それは一冊のガイドブックなどではない。
呼ばれていた場所の記憶を、思い出すための扉だった。
……阿蘇……
阿蘇の空は、思っていたよりも広かった。
東京のビルの谷間では決して感じられなかった、空と大地のあいだに息づく“何か”が、ここにはあった。
ひかるは、レンタカーでミルクロードを走っていた。
牧草地が続く丘陵をぬける一本道。窓を開ければ、風が頬をなでていく。
その時だった。
前方の景色が開けた瞬間、胸の奥にざわりと波紋が広がった。
(……え?)
誰かに――呼び止められた気がした。耳で聞いたわけではない。
でも、たしかに“感じた”。
風の中に、音ではない“気配”が混じっていた。言葉のようで、言葉ではない。
風の音でもない、エンジンの響きでもない。それは、胸の奥で“聞こえた”声だった。
その瞬間だった。
忘れていた何かが、心の底から立ち上がってきた。
――それは、私が幼い時の記憶だ。
父の故郷から車で帰る夜道でのことだった。
ヘッドライトの光だけが頼りとなり、
その先に続く細く曲がりくねった道路は、
闇の中で生きた蛇のようにうねっているように見える。
後部座席にいた私はなぜか眠気をこらえながらずっと窓の外を見ていた。
暗闇の中に浮かび上がる、黒い山の稜線。
寝るのがもったいないとも感じていた。
その山々が、なぜか、胸の奥に深くしみ込んできた。
そして――感じたのだ。
「……誰かが、見ている」でも、怖くはなかった。
確かに“見られている”という気配があった。それは、木の影でも獣でもない。
もっと静かで、もっと深い、太古のまなざし。
山の奥深くから、こちらをじっと見つめている“何か”。それは声にならない囁きだった。
胸がきゅっと熱くなった。
幼い私は、意味もわからないまま、涙が出そうになるのをこらえて、ずっとその稜線を見つめていた。
――あれは、神のまなざしだったのではないか。
そんなことを思い出し、ミルクロードを吹き抜ける風がひかるの頬をなでた。
ゆっくりと息を吸い込み、そして吐いた。
あの山の記憶と、今この瞬間が、一本の線でつながった気がした。
ハンドルを握る手に、自然と力が入った。ひかるはそのまま、静かに車を走らせた。
やがて道が森へと入っていくと、古い神社がみえてきた。
車をとめて、鳥居をくぐると、境内は静けさと、
どこか賑やかな空気が不思議に混じっていた。
「今日は例大祭なんですよ」
突然、背後から声をかけられた。
振り向くと、白装束をまとった宮司さんが優しく微笑んでいた。
「どうぞごゆっくりしていかれてください。今日は、神様が喜ばれる日ですから」
朝の陽が、社殿の屋根を照らしていた。
空気はどこか神聖に澄みわたり、ひかるは境内の木陰でその気配を胸いっぱいに吸い込んだ。
人々が次第に社前に集まり始める。
祭りの喧騒とは少し違う、どこか厳かな空気が漂い始めた。
やがて、笛の音が響いた。
――ピィィ……ヒュウゥ……
それは、現代の音ではなかった。
魂を呼び覚ますような、遠く、深く、古代の風が吹き抜けていくような音。
舞殿に、白装束の巫女が一人、ゆっくりと歩み出る。手には、神楽鈴。
シャンシャンシャン――
小さな音が、空間を震わせるように広がる。
神楽の舞が終わると、境内にはやわらかな余韻が漂っていた。
ひかるは、人々のざわめきのなかに溶け込むように歩きながらも、
心のどこかが静かに震えているのを感じていた。
それは、期待でも興奮でもない。もっと奥にある何かに引かれていく感覚。
ふと、視界の隅に、鳥居の奥へ続く細い山道が見えた。
誰かに「来なさい」と言われたような気がして、自然と足がそちらへ向かっていた。
山道は思いのほか静かだった。
人の気配が遠のき、森のざわめきだけが耳に響く。
葉の揺れる音、鳥の羽ばたき、木の軋み――
それらすべてが、ひかるを見守るようにしてそこにあった。
しばらく歩くと、ふいに視界がひらけた。そこには、池があった。
澄んだ水をたたえた、静かな池。
周囲を森に囲まれ、どこか時間の流れすら違って感じられる場所。
水面は鏡のように空を映している。
そのほとりに、小さな祠がぽつんと立っていた。
古びた木の板に、墨で書かれた文字があった。
”龍神池”
ひかるは祠の前に立ち、そっと手を合わせた。
何を願うでもなく、ただ、ここにいることを告げるように。
そのとき――
風が吹いた。突然のことだった。
森の奥から、まるで誰かが息を吐いたように、ひとすじの風が池に吹き渡る。
水面が揺れ、陽の光がきらめきを跳ね返した。
ひかるはその場から動けなくなっていた。
身体のどこか深いところが、呼ばれたことを理解していた。
声ではない。けれど、確かにそこに“誰か”がいた。
水面のゆらぎが落ち着くと、風もやんだ。ただ森だけが、静かに、静かに揺れていた。
東京に戻ったひかるは、再び日常に身を置いていた。
駅のホームには、人々の無言の行列ができ、
満員電車の中では誰もが相変わらずスマートフォンを見つめている。
ついこのあいだまで、自分もその波の中で呼吸をしていたはずなのに、
どこか別世界のように感じられた。
心は、まだ阿蘇の風の中にあった。
草原を渡る風の音、あの神社で耳にした優しい言葉、そして神楽の余韻……
それらが断片となって、胸の中で静かに鳴り続けていた。