序章 掲げたものと手にしていなかったもの
人生は楽しい方が良い。
楽しいか楽しくないか。選べるなら、そりゃあ楽しい方が良いに決まっている。だから、その宣言はわざわざ掲げるようなものではない。
それでも、今わたしは、敢えてそれを掲げたい。
楽しければ良いと思っていた。
夢だの目標だの、誰もが持つべきという風潮はあっても、誰もが当たり前に持ち得るものではないと思っている。
それには、縁だの運だのが重要だ。自分に何が合うかなんてわからない。何かに夢中に取り組んでいる人たちは、それを「夢中になろう」と思って始めたわけではないはずだ。気付いていたら、そうなっていた。そのようなものに出会えていることそれ自体が、奇跡的ではないだろうか。
それなのに、世の中は夢を追うものを貴び、目標を定めるべきだと押し付ける。
結果、無理やりとってつけられたように掲げられた「夢」や「目標」は、時に人を蝕む。
純正の「夢」ですら、追い続けた結果が必ずしも全ドリーマーにとってのグッドエンドになるわけじゃない。費やした努力が必ず報われるとは限らない夢に、人生を擦り潰されてしまうことだってあるはずだ。
ましてや意識して掲げた夢なんて、足かせにしかならないまである。
なんて考えに思い至るにあたり、一層その「風潮」を否定的に捉えたわたしは、夢を持たないことをこそ、目的にしていた節があった。
わたしもまた、思い込みに囚われていた一人だ。
それは、世の中が貴ぶ「夢」を、正しく追いかけていた、眩しく輝く人生を送っていた、双子の姉の存在も、多分大きい。
比較の対象にならないようにし、羨ましいと思わないようにする。
そのための生き方が、夢を追う姉とは真逆の、「夢を持たない」ではなかっただろうか。
夢を持たないことにしたわたしが掲げたのが、それでも自分の人生、決して姉より劣るものではないと自分に言い聞かせるように、唱えていたのが「人生楽しむ」こと。
それは間違っている題目だとは今も思っていない。
第一義は変わっていない。目的を果たす手段に、「取り組みたいこと」ができたとしたら、その「運」と「縁」に感謝をしつつ、わたしはそれを思いきり楽しむだけだ。
夢や目標を持つべきだと主張する世の中に反発心を持ってはいても、夢や目標を持つことそのものを否定していたわけではない。
得るべくして得たなら、全うした方が良い。何かに全力に取り組み、やりきると言うことは、とても「楽しい」ことなのだから。
それをわたしは、知った。
これまでの人生で、本気で取り組むような何かに出会えていなかったわたしでは知り得なかったことを、知ることができた。