お母さんの匂いがします
男だろうが女だろうが、大事なのは気立てと優しさでは無いだろうか。
息子のディオンは完全にフォルミーカの下僕となった。
翌朝、俺とフォルミーカの取り決めの話を聞くや、ディオンはフォルミーカを母上と呼び出してしまったのだ。
俺もフォルミーカも慌てた。
本気で俺達が結婚するとディオンが勘違いしていたら、真実を知るその日、俺達が袖を分かつ日だが、その日はディオンの心を砕いてしまうだろう。
ディオンの気持ちは物凄くわかる。
心細い旅路に突如現れた、天使そのものの優しき剣士。
その上、彼女は約束通りに、お堂に着くやトルベ粉で団子を作って空腹を癒してくれたのである。トルベ粉はパンを主食にして来た人間にはぬとっとして美味しく感じないものだが、一日近く飯にありつけていなかった息子は喜んで食べた。美味しいと喜んで、満腹になったそのまま転がって熟睡したほどなのだ。
旅慣れた彼女は食品も薬品も携帯していたという。旅慣れない俺と息子には神から使わされた天使そのものだと、俺こそ数日ぶりに見られた息子の幸せそうな寝顔に涙が零れていた。
だがしかし、昨夜と今は違う。
ディオンが無邪気にフォルミーカに纏わりつき、フォルミーカがディオンを全く邪険にしないどころか可愛がる姿を目にし、俺はどんどんと息子が憎たらしく感じるようになっていた。
確かにディオンの母が亡くなったのはディオンが二歳の時で、幼い彼が母親を覚えてはいないのは当たり前だ。だがしかし、そんなにあっさりと母上呼びをしてどうすると、息子を持ち上げてガクガク揺らしてやりたい気持ちが湧いたのだ。
ただし本気で情けないのが、俺だ。実際は、俺がフォルミーカと楽しそうな息子に嫉妬しているだけ、なのである。実の母親はどうした、と心の中でディオンを怒ったそこで、俺こそ亡くなった妻を思い出したのだから。
ディアーナは、柔らかな陽光のような金髪にディオンと同じ露草色の青い瞳をした美しい人だったと、俺は久しぶりに彼女を思い出したのだ。
ディオンの切り替えが早いのは、そんな薄情な俺が父だからだろう。
出会ったばかりのフォルミーカを、俺は本気でものにしたいと考えているのだ。
ああ、節操が無さすぎだろ、俺は。
「父上。母上は母上の匂いがします。不思議です」
俺はディオンの言葉に彼を見返し、フォルミーカに抱き着いている彼の姿に心の中で首を傾げる。フォルミーカも俺と同じく疑問顔だ。
フォルミーカに抱かれているのだから、フォルミーカの匂いがするのは当たり前だろう。
「母上の匂いです」
ディオンはさらにフォルミーカにしがみ付き、両目を瞑ってすんすんと彼女の匂いを嗅いでいる。俺はディオンのその姿に、ようやく彼が言いたかった事に気が付いた。気が付いて、ディオンが痛ましくなった。
赤ん坊の時に母親に抱かれた記憶は残っていたんだな。
体の弱いディアーナは、そうか、だから具合が悪かろうとディオンの世話を自分でしていたのだ。普通は乳母に任せるものだというのに。
俺はディオンを抱きとろうとしながら、ほんの少しだけ鼻をひくつかせる。
フォルミーカは俺には嫌そうな顔をしたが、それは俺がかなり顔を歪めてしまったからだろう。
かすかに果物を感じる甘くまろやかな芳香を感じた。
妻が大好きだったハーブの香りだ。
「――臭い?」
「違う。君からカルモーアの花の香りがする。ディオンの母が大好きだったハーブの香りなんだ」
「そうかい。カルモーアは消炎作用があるからね、お前さんの熱冷ましに煎じたから臭いが付いているんだろう」
俺とフォルミーカは微笑み合う。
ディオンが母親の匂いを覚えていたことよりも、必死に母を求めていた証拠なだけだと感じるからこそ、俺達はディオンを思いやって微笑んだのだ。
ディオンはこんなにも寂しさを抱えていたのか、と。
「ちがいます!!だって、お薬飲んだ父上からは同じ匂いしません」
俺はいい感じの雰囲気を壊すのも子供だよな、と愛息子を見つめた。
それは加齢臭があるからと言いたいのか?
惚れた相手の目の前で、臭い男と言い切るのは止めてくれ。
俺はディオンをフォルミーカから引っぺがした。