シリルは煮ても焼いても危険
突然に口づけて来た男を殴ってしまったが、シリルは悪びれるどころか嬉しそうに大声を上げて笑うだけだ。
その声が素晴らしいと思ってしまった自分も殴りたいが、シリルはここで私にキスをしてきた理由を弁解してきた。
「俺は君にならばいくらでもキスが出来るとわかった。君の夫として振舞う事など朝飯前だろう。これならば俺達は安泰だな」
私はシリルを睨みつける。
彼は私の提案を曲解していやがる?
「旦那ぁ、勘違いなさっていらっしゃるようですけどねえ、俺が言っていますのは、便宜上夫婦として名乗って宿に泊まったりしましょうや、ということですよ。夫婦生活など提案してなどおりません」
「宿に泊まれば部屋は一緒だ。仲睦まじい夫婦を演じるならば、キスぐらいできる関係の方が気安かろう」
「騎士の妻が人前でキスなどするか!!」
シリルは口元に拳を当てて、う~んと悩んだ素振りを一瞬した後、悩む必要など無かったでしょうという台詞を返して来た。
「酔客にキッスして見せろと絡まれたらどうする?」
「そんな恥知らずとは思わなかったと、俺は旦那を殴ります」
「あ、そうだ。騎士の妻ならば君はわたくしと言わねば。それよりも、俺達が商人か渡世人の夫婦を演じれば良いじゃないか!!」
「――そんなにキスがしたいんですかい?」
シリルは私がうっとりしてしまう笑みを顔に作った。
誰がこんな男を作ったのか。
私がこんなにも簡単に転びそうになるほどに、魅惑的に笑える男。
こんな男だから同僚に疎まれて領地から追い出されたのでは無いのか?
「ハハハ。冗談だ。それからキスしたことは謝罪する。君が美しくて優し過ぎたから、俺は自分を止められなかった。惚れたんだ」
……。
…………。
はい?
私は目の前の巨体をまじまじと見つめる。
あっけらかんと私に惚れたと言って見せた男は、言いたいことを言えたから腹が空いたという風にトルベ粉団子を齧り始めた。
それも、美味しそうに。
本当に好物だったのであろうか。
だとしたら、トルベ粉団子を目にした時に奴の双眸から光が消え、死んだ目になったのは、一体何だったのであろうか。
「騎士の家でもね、賭け事ばかりで散財するばかりの男が父親だったりすると、子供はトルベ粉団子で腹を塞ぐしかないものだよ」
私は無言だったはずだが、私の心の中の疑問に答えるようにシリルは語った。
シリルはきっと優秀な騎士、それも人を率いる立場であったはず。
だってこれは、私の表情の変化に気が付いたからのはずだもの。
私は、彼の周囲への目配りはかなりのものだなと思っただけでなく、仲間ならば安心だが、敵に回したら危険だな、とシリルに初めて警戒心が湧いた。
だから意地悪心が湧いたのだろうか。
「そうか。お前さんが絶望したような眼つきをしたのは、それでだったんだねえ」
かなり意地悪い声で言ってしまってすぐに気づいた、私は自分を助けてくれなかった父への恨みを彼に向けていた。
シリルは私の父と違うのに。
私の父は剣の腕でのし上がっただけだから、いざという時に助け手などいなかった。だから、私と母を助けようと動いてくれた人がいなかったのだろう。
シリルは私の父と同じ環境でも、私の望んだ父の生きざまを見せてくれるが、だからこそ癒されるどころか、父に裏切られた自分が悲しいと思うのだろうか。
だから私はシリルを傷つけたくなるのか。
「――君の言う通りだ。俺は辛かった。俺は過去に引き戻されて、それで今がどん詰まりだって思い知ったんだ。初めてね」
「え? 初めて思い知った? 旦那はどれほど楽天家なんだい」
シリルは印象的な大きな瞳を、さらに大きくした後、小さなお堂が壊れてしまうくらいの大声で笑い出した。
「ちょっ、ちょっと、ディオンが起きてしまうだろ」
「いやあ、ハハハ。俺はやばいなって思ってさ。こりゃ笑い飛ばすしか無いだろ?」
私は首を横に振っていた。
シリルの笑い声は心地良かった。
私の暗い思いを吹き飛ばしてくれるぐらいの、小気味良さだってあった。
だから、憎たらしい、とも思った。
「いいやあ。旦那の笑い声は良いなって思ったさあ。なんていい声だろうってね。そのいい声で啼かしてやりたいって思ったねえ」
私のセリフにシリルは満更でも無い顔をする。
男って簡単だ。
私はシリルの顎を指先で持ち上げる。
真ん丸に見開いた目、それがおかしくて、私は普通だったらしないことをシリルにしてしまっていた。なんだかとっても万能感に溢れてしまったから、私は彼の唇に自分の唇を重ねていたのだ。
でもそれが失敗。
しっかりした形の唇なのに、柔らかな感触、とは。
そのお陰で私はやってしまった自分、に冷静になる。
え、ええと。
「フォルミーカ?」
シリルこそ狼狽した声を出した。
それならばまだ私は優位に立てるはず。
顔には婀娜っぽい笑みを貼り付けたまま、ついでと言う風に左手をシリルの下半身へと伸ばす。
!!
くすぐってやろうとそれだけだったが、私の手はありえない感触に、それはもう、驚きのまま火傷した様に手をひっこめた。
いやだ、カチカチなものを触っちゃった!!
「フォルミーカ? 君は無理をしなくて大丈夫だよ」
今度の彼の声は笑い声を含んでいた。
無理って何? 私はとってもカチンときた。
「む、無理ってなんでしょうか?」
シリルはフッと微笑む。
女の子にとって無害にしか見えない、優しいばかりの笑顔だった。
ついさっき、あらぬところをカチカチにしていた助べえ男なくせに!!
「俺は君のままでいい。君の素地こそ知りたい。惚れてるんだ。まあ、その、阿婆擦れっぽい演技も可愛いと言っちゃ可愛いんだが」
「な、な、シリル!!それは私がおぼこだって言っているのかい」
シリルは大きく馬鹿笑いをし始めた。
黒曜石のような瞳はキラキラと輝き、高い頬骨も意志の強そうな顎も、なんて羨ましいほどに良い男の顔をしているのだと憎らしく成程だ。
畜生、本気でいい声で笑いやがる。