独楽鳥屋の一番番頭
俺達の前からエルネスト一行は去って行った。
ターニャは連れていかれる時に少々ぐずったが、エルネストではなく彼らを迎えに来た青年に抱かれた途端に静かになった。
それは彼による異能によるものなのか、女は幾つでも美しい男が好きなだけか。
「あの子は大丈夫だろうか」
「心配でも関わっちゃなりませんよ。二度と、あの子にはね」
「え?」
俺がフォルミーカに振り返ると、フォルミーカは肩を軽く竦めた。
それから、余計な事をしちまった、と呟いた。
「余計な事?」
「エルネストが言っていたじゃないですか。ターニャの親は南のお方だって。南の顔役はダグレーン。全く思い立ちで人は動くもんじゃないですね。ああ俺は西で動くべきじゃなかったってことです。本当に俺はアリンコだ。視野が狭い」
「ミーカ?」
フォルミーカの吐き捨てるような物言いに、俺は一体何事などだとさらに話しを聞こうとして、固まった。
釣り堀で大きく水が天へと持ち上がり、水で出来た巨大な何かが俺達に首をもたげたように動いた、のだ。
「どうして、サーペントがこんな場所に」
俺が呆然と呟いた周囲では、釣りを楽しんでいた家族たちが一斉に悲鳴を上げ、逃げ惑い始めた。宿の者でも客の誘導はできないだろう。彼等こそ急に出現した魔物の姿に脅え、己こそ一目散に逃げようとしているのだ。
俺は――まずはディオンを。
「きゃあ」
子供の悲鳴。
それはディオンではなく、ディオンと同じぐらいの年齢の誰かの子供。
蹴り飛ばされて釣り堀に落ちる。
サーペントが出現したその生け簀の中に!!
「待て!!」
「シリル!!」
声を上げて生け簀に飛び込みかけた俺を己の体でもって止めたのは、フォルミーカである。抱き着くようにして鳩尾に拳を入れてくれた事には、俺はどうしてと思わず感謝ばかりが湧いていた。
なぜならば、彼女に与えられた衝撃で、俺の視界からサーペントなど消えたからである。逃げ惑う客達ばかりの、混乱した世界までもきれいに。
「幻影だったか。ありがとう」
俺はフォルミーカを見下ろし、俺の体に抱き着いている女の姿にぞっとした。
美しいサンドベージュ色の髪は老婆のように乾いてぼさぼさであり、皮膚などは乾いて腐った魚のようなぐじゅぐじゅぶりだ。
その腐った死体は、拳ではなく短剣を俺の鳩尾に差し込んで、いた。
「ふぉる、みーか」
顔を上げた女の双眸は真っ黒な穴だけでしかなく、怯んだ俺を嘲笑うように歪めた口腔内は黄色く腐った歯が数本だけ残る真っ暗闇だ。
俺は反射的に抱き着く女の亡霊を振りほどこうと動き、けれど、ほんの少し動いた事で立ち昇った匂いに動きが止まった。
いや、動いた。
俺は彼女を振りほどくどころか、彼女の体を両の腕で抱きしめたのだ。
「いい加減にしねえか、バルヴァス」
エルネストの怒声?
ハッとした俺は、今までの数分間が全て幻術だと知った。
それも、エルネストの一番番頭による、厭らしい幻術だ。
俺がフォルミーカの柔らかな匂いに気が付かなければ、俺は自分の腕の中のフォルミーカを斬り捨てていたかもしれない。
「貴様、生きていた――」
「すいませんね。あんまりにもうちの大将が旦那に惚れこむばかりなんで、三下の俺の思わずって奴ですよ」
美貌の男はにやりと微笑んだだけでなく、ついっと俺の前に一歩踏み出し、それからなんと、自分の懐から出した艶やかな紫色した小袋を俺の帯に捻じ込んだ。
「おい!!」
「迷惑料です。それと、四時間ばかりの子守りの駄賃ですね」
「え?」
俺はバルヴァスが動かした視線の先へと素直に自分の目玉を動かし、俺の後ろに立つ俺の息子が三歳児と手を繋いでいる姿を目にする事となった。
「え? 子守りって、おい!!」
俺が再びバルヴァスへと振り返れば、俺が幻術を見る前の光景だ。
釣り堀から出ていくエルネストとバルヴァス、という奴らの後姿。
だがしかし俺は奴らに声を上げられなかった。
バルヴァスの幻術の始まりが俺には読めない以上、あいつに同じ術をかけられたらそこで俺は死ぬだろうと身を持って知ったからである。
そこでエルネスト達を呼び止める代わりとして、俺に抱き着いたままでいるフォルミーカを抱き締める。
「――すまん。本気で俺は甲斐性がない」
「エルネストの一番番頭に遭ったら夕立みたいにやり過ごせってのが、裏での合言葉ですよ。初めて見たが、確かにやばいやつです」
「確かにな。ベビーシッターの頼みごとだけで幻術かけてくる奴はやり過ごすしかない相手だよ」
「どんな幻を見なさったんで?」
俺は答えなかった。
腐った死体となった君だとは言えるはずは無い。
仇討を失敗して野ざらしになった君の姿だと、言えるはずないじゃないか。




