あれは危険な男と彼女は言った
「母上。糸が引いてます」
俺はディオンの声でフォルミーカへと顔を向けた。
そこでディオンがフォルミーカに声をかけた理由を知った。
フォルミーカはベールごしでもわかる思案顔をしており、自分の釣竿が垂らす糸の先で起きていることに対して完全に無頓着のようなのだ。
「さあさあ、掬い網です」
俺はフォルミーカが思案顔になっている元凶を見返した。
好々爺然として勝手に救い網を差し出して来た御仁は、腕にはディオンよりも幼い子供を抱いている、という姿だ。ターニャと紹介されただけの薄茶色の髪に赤みがかった茶色の瞳の幼女は愛らしい事この上ないが、俺には彼女と彼の組み合わせに違和感ばかりである。
エルネストは整った顔立ちだが、この幼女から彼との血縁上の繋がりがどうも見つけられないのだ。
――まさか、俺達に話しかけるために誘拐してきたわけではないよな。
「おじいちゃま。とと、とと」
「落ちそうかなっ!!」
俺はエルネストの胸元に片手を差し出す。
女児がエルネストの腕から落ちかけたから、とと、と言ったのかと思ったのだ。
エルネストはハハハと笑い、幼女を抱き直すどころか俺に片目を瞑って見せる。
「あの」
「とと、とは魚のことですよ。西の方の言葉ですなあ」
「ああ。そうでしたか。お孫さんのご両親様のどちらかがあちらのご出身で?」
「出身はどちらもそうでもないですが、育ちが西だったものでねえ。この子は友人の子供なんですよ。南の方のねえ」
「はあ」
俺はエルネストの言葉にどう反応して良いのかと、とりあえずフォルミーカへと振り返り、すぐに顔をエルネストへと戻した。
「網をください!!」
完全に貴族の奥方を演じているフォルミーカが魚を引き上げるはずもなく、彼女は何もしない俺を凄い目つきで睨んでいたのだ。俺と違って何とかしようと動きかけているまだ五歳児に対し、彼が釣り堀に落ちないように押さえつけながら。
俺はエルネストから掬い網を受け取ると、急いで竿を操作して魚を引き上げ、網で完全に水から掬い上げる。
網の中のぴちぴちと動くマスは、太陽光を浴びて虹色に鱗を煌かせる。
「父上、タライです」
「おお、ディオンありがとう」
「とと、とと、おじいちゃん、とと」
「はいはい」
エルネストの腕から解放された女児はディオンへと駆け寄り、ディオンを前にすると可愛らしくぴょこんとお辞儀をした。
「わたしもとと見ていい?」
「いいよ。ターニャ。ねえ、父上。早く入れてあげて。死んじゃったら可哀想」
食うために釣っているのだから死んでしまっても、と俺は嫌な予感を抱えながら水を張ったタライにマスを放つ。マスは水に戻るやすいーと狭いタライの中を一周してから、子供達の注目から隠れたいようにして底に沈んで動かなくなった。
「このとときれい。かう?」
「うーん。飼うのもいいね。昔の僕ん家だったらお池があったけど、今は無いからなあ。ねえ母上。マスはタライで飼える?」
俺ではなくフォルミーカに振ってくれてありがとう、ディオン。
だがしかし、フォルミーカがジト目で俺を睨んだので、俺が息子に辛い真実を伝える役目が戻って来た事を思い知った。
「ええと、ディオン、あの」
「マスだってお友達が一杯いる方がいいよ。この子はあとで生け簀に戻してあげよう。それでそのかわりにお昼ご飯は私達と一緒にどうかな。ねえ、シリル殿。ターニャがこんなに楽しそうなのは久しぶりなんですよ」
俺はエルネストよりもフォルミーカからの視線が怖いと思いながら、エルネストの機嫌を損ねずに彼の申し出を断るための魔法の言葉を探す。
朴念仁は黙って剣だけ振っておれ。
親父殿の笑いを含んだ声が脳裏で響く。
権謀術数に長けたあなたが俺みたいな脳筋男を跡継ぎにしたせいで、あなたは名誉も失った無駄死となってしまった。
いいや、俺が書状を公に出来れば、彼の名誉は挽回できるはず。
だが、その時は俺の命も賭けて、と言う事だ。
残された息子は誰に託せば良いというのか。
俺はエルネストに真っ直ぐに顔を向ける。
「シリル殿、ご迷惑でしたらお断り頂いても結構ですよ」
「いいえ、喜んで。ただ妻は体が弱く、きっとこの後は部屋のベッドから出られなくなりましょう。俺と息子だけでよろしければ」
「そうですか。では、こうしませんか? 子守りと一緒にターニャをお宅様の部屋に預けます。そうすれば子供達は気兼ねなく昼を食べられますし、奥様も何の心配もいらずにお休みになれますでしょう。そして、私とあなたは、昼間っから飲んだくれる事が出来る。どうですか?」
「それは願っても――いた、いたた」
俺の右耳はフォルミーカに捩じられた。
エルネストは笑い声をあげ、俺は耳を押さえながらエルネストに謝罪を伝える。
「妻は俺に置いてきぼりにされたくないようです。せっかくのお誘いをもうしわけありません。ここまで妻に苦労ばかりでしたので、しばらく俺は彼女の下僕なんです」
「ハハハ。お宅様はせっかくの家族旅行でした。それを邪魔するような提案したこちらが申し訳ない。私はやもめ暮らしが長すぎたようです」
「え?」
俺はエルネストを見返し、そこで彼はニヤリと笑う。
その表情は東の顔役だと思い出させるもので、俺の腹の底をひんやりとさせた。
「禿を手に入れるには遊女こそ買わねばならなくてね」
俺はエルネストがジャイナを女房にしていた理由も、ジャイナの愛人を俺が斬り殺すことも見逃していた理由もその一言で理解した。
フォルミーカがエルネストに俺を近づけたがらない理由も。
俺の視線は幼い女児へと動く。
タライの中のマスをキラキラした目で見つめる純粋無垢な子供の姿が、消したい過去を受ける前のフォルミーカのように見えた。
「ターニャちゃんの遊び友達が必要ならば――」
「それには及びませんよ」
若々しい新たな声に、俺はハッとする。
そしてすぐに背筋に冷気が走った。
エルネストが見るからに機嫌を損ねた顔となっており、そのエルネストの隣には、息をのむような美人が立っていたのだ。
俺よりも若くフォルミーカよりは年上の男だ。
艶やかな黒髪は茨の蔓のようにところどころで巻き、気さくそうな笑顔が酷薄そうに感じてうすら寒いばかりなのは、流線型の見事な両眼で輝く瞳が銀色にも見える薄い青だからか。
「お邪魔は考えておりませんよ。って言いますか、増長させるとこの爺さんが遊びすぎてしまうので回収に来ました。こちらこそお邪魔してすいませんね。俺は一番番頭のバルヴァスと申します」
俺は、うむ、としか言えなくなった。
俺のケツをフォルミーカが抓っているからだ。
余計なことは言うんじゃないよって。




