君の心が一番
私はほっとしていたが、虚しくもあった。
シリルは私とディオンの飯が必要だと急に声を上げると、行為のここぞという場面で私を放って部屋から出て行ってしまったのだ。
つまり、私は誘惑した男に袖にされたのである。
それなのに私がシリルを恨む気持ちが一つも無いのは、ドレスを剥がされきった半裸の私を、彼が赤子にするように労わりながら毛布でグルグル巻きにしてくれたからではない。その点については殴ってやりたいくらいだ。
毛布の巻き方が拘束術そのもので、私一人では解けないものだったのだ。
ではシリルが私にした何が俺の心を打ったのか。
それは私の心の弱さに漬け込むどころか、自分こそが臆病者だという風にして私から退いてくれたからであろう。
私はシリルの愛撫にしっかりと体は熱くなり、蕩ける、という感覚を初めて知った。だけど、シリルが私に圧し掛かってきた瞬間に蕩けて解されきった体が一瞬で冷め、ぴきんと凍り付いてしまったようになったのである。
私を抱き締め首筋に唇を埋める男が、シリルではなく過去の男達に、いいえ、私を壊したタバニーダエの影絵にしか見えなくなった。
私に圧し掛かるは、あの男、タバニーダエ!!
悲鳴も上げそうになった。
自分がこんなにも脆かったとは、本気で情けないばかりだ。
それで恐怖から無意識に両目をぎゅっと閉じてしまったというのに、真っ暗になった私の視界にあの日の恐怖の記憶が投映されるばかりなのである。
目を瞑れば、あの夜に自分は引き戻される。
だから私は目を閉じることは出来なくなった。
そうだ、自分を抱こうとしているのはシリルでしか無いのだ。だから、シリルだけを見つめていれば良いのではないのか。
そんなこと、私が必死で考える必要も無かった。
私が心も体も強ばったことにシリルこそいち早く気が付き、それで彼は私の前から消えたのだ。
大事な命綱の己の剣を放った無防備な状態で!!
「母上様? お腹でも痛いの?」
私はディオンにドレスの裾を引っ張られ、それでもの思いから覚めた。
彼は私を毛布から解放してくれただけでなく、私の嘘、父上殿は私が病気になったと勘違いして部屋を飛び出して行った、を信じてくれた可愛い子だ。
私はディオンの頭を撫で、ベールごしでもわかるようにして微笑む。
「大丈夫。父上様が無事で良かったって思っただけよ」
「僕達が駆け付けてあげましたものね」
私は、そうだね、と言ってシリルへと視線を動かす。
シリルは、お道化た様に両目をぐるっと回して見せた。
「このうっかりもの」
「本当にな。それで、全員集合ならば、みんなで飯に行くか?」
シリルはディオンを抱き上げる。
それだけで、いつものように俺に腕を回さなかった。
「どうした? ミーカ?」
「何でも無いよ」
私は、……私こそシリルの背中に右腕を回した。
手の平が感じる温かくてしっかりした背中は、幼い私が抱きついた父の背中のようである。
そう感傷的に思ってしまうのは、シリルが大柄だからなのだろう。
父よりも背が高く、父とは全く似てない男であるというのに、彼の体が大きいせいで私は幼子の気持に戻ってしまうのか。
だから彼に甘えてしまうというのか。
「抱いてもくれない男なのにな」
私一人だけの呟きだったはずなのに、シリルはすっと首を伸ばして私にだけ聞こえる声で囁いた。かすれた低くて静かな声は、甘い響きが無い分心が震えた。
「抱きたいよ。抱き潰したい。だがそれは、君が俺を愛してくれたその時だ」
「私が好きなら機会を大事にしろよ。何が止まらないだ。止まりまくった上におかしな方向に飛び出しやがったくせに」
憎らしいと、私はシリルのふくらはぎを蹴る。
「こ、こらこら。俺はディオンを抱いているんだぞ。転んだらどうする」
「私を下敷きにすればいい。ご希望通り潰せるぞ」
「君は!」
シリルははずっぱな声を上げたが、すぐにまた私へと首を伸ばし、今度も静かでいやらしさも何もない声で囁いた。
「――すまんな。俺は君に愛していると囁かれて抱かれたいんだ」
「体を重ねりゃ情が湧くって言いますよぉ、旦那」
シリルはハハハと軽く、まるで自嘲するような笑い声をあげ、それから私に微笑んだ。ほんの少しやるせなさそうな顔つきで。
「シリル?」
「愛している。だからこそ君につけ込みたくない」
「立派ですなあ。それなのにどうしてそんなお顔をなさっているんです?」
「君につけ込んで愛したい俺もいるからだよ」
私はうぐっと喉がつまり、きっと耳まで真っ赤になったはずだ。
そんな自分を隠したいと、私はシリルの二の腕の辺りに頭を付ける。
彼から、うう、というくぐもった声が出たのは、私の頭を撫でるか体に腕を回したいのに両腕がディオンを抱いているので動かせないからであろう。
「ふふ」
「笑うな。俺こそ良い格好が何もできずで、情けないのはわかっておる」
「財布はおけらだし」
「むむ」
「ふふ。お金のことは本当に気にしないでくださいな。その代わり、ゴートに着くまであと一日、ゴートに着いたら三日ほど、お前さん方の時間を俺にくださいな。俺はね、お前さん方と一緒で楽しいんですよ。普通の人生の女だったら、きっとディオンみたいな可愛い子供がいて、あんたみたいな旦那がいただろうなってね、このごっこ遊びが楽しいんです」
「だったら、これを本当にしてくれて構わない」
「僕も母上が母上のままがいい」
「ありがとう。だけどね、どうしてもしなきゃけいないことがある。だから、どうしたって俺達は首都までだねえ」
俺はシリルの背中から手を外すと、涙目になってしまったディオンの目元をそっとなぞった。
ふかふかで柔らかな頬は手の平に吸い付くようだ。
「母上」
「――やることが片付いたら、お前に会いに行くよ。だけどさ、そん時の俺は落ちぶれて食っていけねえ状態かもしれないからね。ディオン、お前はちゃあんとお勉強して稼げるようになっているんだよ」
「――うん」
「いい子だ。そして俺達はまだ一緒。楽しいことだけ考えましょうよ」
「はい!!」
ディオンは私に手を伸ばし、私はシリルの腕から零れそうな子供を腕に抱いた。
そして子供を抱いていた大男は、大事な子供が自分の腕から逃げた事が気に入らないのか、少々むすっとした顔となっている。
「シリル? どうしたんです?」
「君は、ディオンにばっかり期待している」
「あんたったら!!」
私はシリルの肩に頭を乗せてくっついた。
仲の良い夫婦がするように。
こんなくっつき、私はムスカにだってしたことない。
彼は頭目で父親だったから。
「よおくやったよ、アリンコ」
ムスカが俺をそう言って褒め、私の頭に手を乗せる。
私はそれがとっても誇らしく嬉しいからと、彼を慕い彼のために頑張って……あれ?
「どうした? 敵か?」
私の表情が変わったのを気が付いたシリルは、周囲にさっと視線を動かし警戒という気を張った。私は慌てて、何でもない、と答える。
だって正直に答えたら大変だ。
私がシリルを、旦那、としか見ていなかったなんて、知らせるべきじゃない。




