うっかりさん
男と女が「秘め事」に進む過程には、「うっかり」という要素が含まれることがしばしばあり、最中に「うっかり」が生じる事も多々ある。そして「うっかり」を包括してしまった「秘め事」が、最悪な結果を生むというのはよくあることだ。
例えば、「秘め事」に進む過程で起きた「うっかり」は、酔った勢いで好きでも無い女と寝てしまい、結婚を強いられるぐらいなら可愛いが、洒落にならない病気を貰ったり美人局のカモになったりなどの失敗が良く上げられる。
また、相手がよく知っている好意を持った相手であれど、「秘め事」の最中で起きた「うっかり」となれば、それは避妊の失敗を意味し、望まない妊娠を招く。
だがしかし、「うっかり」を「計算通り」に書き換えた場合、「秘め事」を目論んだ方こそが勝利を得てしまうのもおかしな人の世の理でもある。
そう、俺は「秘め事」と「うっかり」の密接な関係を知っていたはずなのだ。
それなのに、今回の俺はしっかり「うっかり」の道を歩んでしまった。
フォルミーカは俺に癒しを求めてくれた。
彼女の辛い過去を俺という男で書き換えてしまおうという、光栄なる相手に選ばれたというのに、俺は「うっかり」俺本来の望みを思い出してしまったのだ。
惚れた女に愛されたうえで惚れた女を抱きたい。
フォルミーカに愛されていないのならば嫌だ、と。
俺の体は一瞬で冷め、だからこそフォルミーカを求める俺は彼女に縋るようにして見つめた。それでわかったのは、彼女こそ俺を見つめているばかりだったことだ。壊れそうな緊張感を持って。
初めて彼女に触れられた、と俺は感じた。
世間慣れしている阿婆擦れを装うフォルミーカが、実はとても若くて純な少女でしかない、ということを、だ。
本当に俺はうっかり者だよな。
子持ちのいい年をした親父が抱いて良い相手じゃ無いじゃないか。
それで俺はフォルミーカから逃げた。
彼女が若過ぎると気が付いても自分の気持ちを殺すことはできないからと、ディオンがもうすぐ起きそうだ、と、適当な事を言って誤魔化したのだ。
そうじゃない。
フォルミーカが俺に抱かれる事を望んでいたとしても、彼女に愛されていない時点で彼女を抱くのは彼女を傷つけた奴らと同じではないのかと俺の良心は叫び、いたたまれなくなった俺は逃げたのだ。
「ああ、なんたる臆病者か」
「あなたが臆病者ならば、私は日陰に巣くう羽虫程度ですな」
俺は気配なく後ろから聞こえた声に本気で驚き、騎士時代でもこんなになった事は無いだろうというぐらいに、飛び上って後ろに振り向いた。
俺に気配を気取られずに出現できるのは、この男しかいない。
そいつがしてやったという風に、クスクス笑いながら立っている。
あの休憩所で出会った時と同じく豪商の最近の流行らしく着物姿であるが、あの休憩所の時の濃紺の着物とは違い、宿の薄茶色の着物を纏っていた。肩にはやはり泊まり宿の灰色の外套を掛けており、今の彼は外風呂帰りの観光客にしか見えない姿である。
存在感は観光客どころでは無いが。
「エルネスト殿」
「奇遇だね。ふふ――嘘だ。旦那とゆっくり話したくてね、忍んできたよ」
「――俺は、あの」
エルネストに威圧など出来ないとわかっている。だが俺は左手を帯に掛け、何の気なしに剣の鞘に手を置いているだけ、を装うとした。
のに、俺は腰に剣が下がっていないことに気が付いただけだった。
大事な剣を部屋に置いて来てしまっていた、とは。
――絶対に大事なものは手元から離したらいけませんよ。
すまん、フォルミーカ。
俺は本気でうっかりさんだ。
「旦那、私もから手ですよ。それで、私があなた様に求めるのは、ほんの数分、あなたが知っている話を聞かせていただきたい、それだけでございます」
俺はエルネストを真っ直ぐに見つめた。
彼は俺の領地のいざこざなどを知っているというのか?
俺から家令の書状を奪い、俺の口を拭いに来た刺客なのか?
「ほんとうに、あなた様がご存じの話だけで良いのです。あなた様は西から伸びている街道を使って東の首都に向かってやって来なさった。そこで聞いた噂話、赤い着物を着た剣士についてご存じならば、単なる伝聞で構いませんから、全て教えて頂けませんか?」
赤い着物の、剣士? だと?
俺は、知らない、と答えたが、答えるのが早すぎただろうか。
「知らない、と答えなさったか。なんですか、それは。では無いのですね」
俺はしまったと歯噛みするが、エルネストこそやるせない笑みを浮かべてた。
俺はそこで興味が湧いた。
エルネストは赤い着物の剣士を探しているが、命を取るための相手として探しているようには見えないのだ。
「エルネスト殿がその方を探している訳を教えて頂きたい」
「ハハハ。あなたは、本気であけっぴろげですな。それでは政治など難しかったのでは無いかな。それであんなにも武がありながらも放逐された身の上でございますのか」
「――恥ずかしい限りです」
「なんの、恥ずかしがることなどありません。この薄汚れた世でも、あなた様の様な純なお方がいらっしゃるのは僥倖です。だが、この世ではあなた様のような方は食いものにされるばかり」
「――それが脅しであるならば、俺はいくらでも汚れましょう。俺には大事な息子と妻がおります。彼等を守る為ならば、ええ、底なし沼にだって沈みますよ」
「それは、その時の話になさってください。私はね、ただ知りたいだけです。恩人がちゃんと生きていらっしゃるのか。その方と再びあいまみれることができるのか。ハハ、そんなしょうも無い夢が、この老体の生きる糧となっております」
「恩人?」
「ええ。私は騙され殺されるところだった。そこを救って下さったのが、赤い着物姿の剣士様だったのですよ」
エルネストはしみじみと語ったが、その台詞のせいで俺はかえって彼を信用できなくなってしまった。彼は俺がフォルミーカに助けられたことを知っているのか? それを暗に俺に伝えて脅しているのか? と。
俺の警戒心が再び首をもたげる。
俺達の旅路のどこからをこの男は掴んでいるのだろうか、と。
不安に導かれるようにして俺の左手は腰に伸び、当り前だが俺の隙だらけの腰骨を叩いただけだった。
剣など無かったな、そういえば。
「――まあ良いか」
「はい?」
「知らぬのならば、そのまま誰に聞かれてもそれでお願いします。でないと、このエルネストを騙したことになりますからねえ」
エルネストは表情と存在を単なる商人のそれに変えると、俺に軽く一礼をした後に簡単に背を向けて歩いて行ってしまった。
俺はエルネストの去って行く後ろ姿を見送りながら、どうして彼の気配をこんなにも掴めないのだろうかと焦燥感を募らせるしか無かった。
これではフォルミーカをあの男から守ることなど出来やしない、と。
「ちちうえ?」
「わあ!!」
俺は突然出現した息子を見下ろした。
どうしてディオンの気配が読めなかった?
俺がまじまじと息子を見つめていると、息子はにっこりとそれは良い笑顔を顔に作り、母上がと口を動かしたが息子の声が全く聞こえなかった。
え?
「風を使った異能ですよ。あんたは人が動いた微かな空気の動きを読む人だ。あんたの周りの空気を動かさねば、あんたには気取られる事は無い、ということ」
やはりいつの間にか俺の後ろを取っていたフォルミーカが、ハイ、と言う風に俺に俺の剣を差し出した。
「父上は凄いうっかりさんです」
「ああ。今日はしっかり身に染みたよ」
俺は息子に笑って見せた。
エルネストがフォルミーカと同じく気配を風魔法で消せる武人ならば、俺には勝ち目など無い、そんな焦燥感を抱きながら。




