湯けむりとくじら親子
「ちちうえー!!アブサント湖みたいに広いお風呂ですよ」
「これこれ、アブサント湖が風呂程度の広さだと聞こえては、アブサント湖が唯一の名産なシャドネ領地の民が怒ってしまうぞ」
私は親子の会話を聞いて、やっぱり、と合点した。
アブサント湖で有名なのはシャドネ領地だが、アブサント湖はもう一つの領地にも恩恵をもたらしている。それは、デウタート領だ。
王家の造反を隠すために家令を殺し、シリルまでも放逐した領地が、あのデウタートだったとは。あそこの領地は何を考えているのやら。
あの地は敵国ガルガントゥーラだけでなく、敵対関係には無いが友好関係にもない宗教国家のミゾスと、北と西を接しているという要所じゃないか。
七年前の大戦争で、シリルは戦場の戦鬼とまで呼ばれてパレード迄させられたのだというならば、彼はこの国の英雄だ。
英雄の存在が敵国の侵攻を防いでいたと、誰も気が付かないのか。
「彼を追い出したことを知られたらって、誰も考えなかったのか。ガルガントゥーラ兵が国境を越えてく来たらどうするつもりだ。デウタート領には戦える人材はいるのだろうな」
「父上~バタ足です~」
「おお、泳ぎが上手くなったなあ」
…………。
「風呂は泳ぐとこじゃない。非常識が常識なのかな、デウタート領は」
私はデウタート領の未来に心を砕く事を止め、仲睦まじい非常識親子を遠目で見守るだけにした。
せっかくのひと時なのだし、私こそ久しぶりの広い湯を堪能しよう。
ああ、風呂はやはり良い。
空を見上げれば、日が落ちようとしている西側は赤から紺へと見事な色のグラデーションだ。空の天辺では気の早い星がぽつぽつと煌いている。
「やっぱり湯に浸かるのは良いなあ」
裏街道を彷徨う剣客が名を上げた途端に打ち取られて名を失うのは、こうして贅沢を覚えて腑抜けてしまうからであろう。
「う~ん。風呂が無い世界は生きて行けねえ」
「同意だ!!」
「うわ!!」
風呂の湯が海の大波となって俺に襲い掛かり、そんな状況を作った男は俺の横に当たり前のようにして落ち着いた。
「お隣はいいですか? 奥さま」
「もう座っていらっしゃるではないですか」
シリルはハハハと良い声で笑う。
湯の気持良さかこの露天という開放的な環境からか、彼はゆるっとしている。
ざばっと湯で顔を洗った後に顔を拭った手で頭を撫でつけ、その仕草によって彼の額にかかっていた髪も全て後ろに流される。
ほんとうに! なんて見事な額でございましょう。
うん、ディオンの母親がパレードでシリルに一目惚れしたのも分かるな。
撫でつけられた黒髪は水滴のお陰で艶を取り戻し、顎には薄汚れて見えた無精ひげの存在などさっぱり消えている。
今のシリルは誰が見ても、水も滴るいい男だ。
彼は私にゆっくりと視線を動かし、その目つきが流し目のようになっていたので、私はシリルの頬を指先で突いた。
「そんな目で見るな」
「いやらしい目はしていないと思ったが」
私達は全裸だ。
それでも私には、恥ずかしいや厭らしい、そんな気持ちが一つもない。
それはディオンの存在もそうであるし、服を着ていた時の方が誘惑してきた男の存在も大いにあるだろう。
脱衣所から洗い場、洗い場では背中合わせな状態で体を洗ったが、そう言えばそこでも私は何の警戒もしていなかった。裸であること(もちろん薄布で隠せる場所は隠していたけどね)に照れはしたが、なんだか野生動物のように裸の状態が当たり前の感覚になっていた。
シリルの振る舞いが、性を知る前であるディオンと同じだったからだろうか。
うん、大きな子供って私こそ認識してしまってた。
いいえ、本当のことを言えば、シリルの裸が見慣れてしまって、彼の裸に私が恥じらいを感じなくなってしまったのよ!!
だからだ。
だからシリルの顔が、流し目にも見えた目元の表情がいつもと違って見えたから、私はどきんと動揺してしまったのだ。
悔しいなあ。だが、無意味に人を傷つけるものでは無い。
ほら、傷つけてもいないのに、シリルったらしょぼんとしている。
「もう、すぐ落ち込む。旦那はいやらしい目なんかしていませんよ。ただ、旦那は自分の顔の良さももう少しお考えあそばせ。お風呂の温かさも相まって、つい逆上せてしまいましたよ」
「ハハハ。こんな俺に逆上せて貰えるなら、俺は君のために温泉を掘りに行くよ。それで俺と結婚してくださいとお願いするんだ」
「アハハ。温泉堀りは良いですねえ。目的が無くなったら、温泉堀りをするのもいいかもしれませんね」
「任せておけ。俺は体力だけは無駄にある。いくらでも穴を掘ろう。君が望むなら、いくらだって」
あ、やば。
この人は攻め時を知っている戦士だった。
冗談話に乗っかって、ここぞという時に良い表情を見せて来た。
ええと。
ざばんと湯が弾けた。
「きゃあ」
思わず声を上げてしまったが、湯から飛び出した子供はそれで大喜びだ。
ちっちゃな体でバンザイしてる姿は、可愛いの一言。
「潜水成功です!!僕はクジラになりました!!」
「そうか。間違って踏み潰してしまうかもだから、これからは湯に沈むのは無しな。――それから、シリル。あんたは、なんてことを子供にさせてんですか。危ないでしょう」
それは私にも言えることだ。
幼い子供から何分目を離していた?
一分でも子供は溺れ死んでしまうと言うのに。
私の脳裏に、起きたかもしれない事が浮かび、ぞっとしたまま両手で顔を覆う。
もちろん、今度こそディオンから目を離さないように、指を開いた手での顔覆いだ。――あ、ディオンがしょぼんとしてる。
落ち込み方が親子でそっくりだと思いながら、私はディオンへと両手を伸ばす。
「ああ。悪かった。ディーから目を離してた私が言う事じゃ無かった。ディーも放っておかれて寂しかったんだよねえ」
あ、物凄いニコニコ顔になった。
ホッとした私に追い打ちか、シリルが余計な事を言い出した。
意を得たり、というしたり顔で!!
「俺達は君がいないと駄目だねえ。君がいてこその俺達だってよくわかった」
「はん。駄目だったのは目を離した私達です。ディオンは子供だから大人の責任をぶっ被せちゃいけません。ねえ、ディオン」
ディオンは潜水遊びをしてたからか、真っ赤にゆだっていた。
これはもう終了ね。
「シリル。そろそろ上がりましょうか」
私はシリルへと顔を向けたそこで凍ってしまった。
私達が出て来た脱衣所に人の気配。
いえ、もう人がそこから出てくる?
でも、その先は分からなくなった。
私の目の前にはシリルの大きな背中が聳え立っている。




