12話 うちのエンジェルは羽虹しかいません
6時限目の体育は、バスケのボールに当たって魂が飛び出たくらいで、特に何事もなく。
7時限目も盗撮メガネで録画した動画を見直してみても通常の授業風景で、平穏そのものだった。
王子が出てくるのかが気になって。保育園の午後の自由時間、絵本タイムに突入した羽虹が地蔵の様に動かなくなったタイミングで、何度か戻ってみたが、5限目以降王子が目覚めた様子は無かった。
“サービスタイム“と女子が言っていたくらいだし、そう毎日何度も出てくるものでは無いのかもしれないな。
今度、王子宛に手紙でも書いてみるか。
羽虹が“はじめてのまじゅつ“で消しゴムを使うまじゅつを覚えていたぞ!と。
消しゴムに好きな相手の名前を書いて、本に載っている魔法陣の上に乗せて相手の筆箱に転移させるそうだ。
明日俺の消しゴムに、自分の名前が載っていたら、共に喜ぼうではないか‼︎喜びの涙で、お前の体は体内の水分が抜けて、動けなくなるかもしれないな。
そんな事を考えながら、俺はダッシュで下校していた。
目的地は高校の入り口付近にあるバス停。バスの到着時刻はアプリで走行チェックもしているので、大体わかっているのだが、羽虹に会いたくて気が急くのだ。
保育園の最寄りのバス停に着いたら、バス停前のクリーニング店に立ち寄って制服を出す必要もあるし。
翼化を覚えると、逆に苛々する部分なんだよな…。
まもなく、バスが到着し、同じ制服の奴らの群れに下半身ジャージの俺も乗り込んだ。
「あら、はにちゃんのお兄さん?」
「え?あはい、こんにちは…。確か、慎之助くんのお母さん、ですよね?
私の事まで、覚えていてもらって光栄です」
バスの中、俺は天敵の母と遭遇した。みさえ(仮)とでもしておこうか。
彼女の名前が実際に“みさえ“かどうかは俺には聞けない。保育園の付き合いは、あくまで子どもが中心となった付き合いなのだ。個人的な付き合いなど深めると、大体トラブルになる。
深入りしてはならないのが暗黙のルールだ。
しかし、対面して無視するとなると、印象が悪すぎるというもの。
世間話で茶でも濁すのも保護者の業務と言えよう。
俺の挨拶に、“あらあら〜こちらこそ〜“と、みさえは柔和な返事を返した。
その時、身振りで手をひらひらさせていたが、その手首には5本ぐらい数珠がついている。そんなにいるぅ?
「お綺麗ですね…」
「あらやだーお上手。これはイエロータイガーズアイっていう石なの。
下がルチルクォーツで、真ん中が水晶。水晶の上下を水晶系で挟んで、4番目がシトリンでしょ。
最後の5番目は色が薄いけどこれでも琥珀なのよ。
今日は似ている色の石でグラデーションにしてみたの。褒められて嬉しいわ〜」
なるほど、わからん。
保護者同士の鉄板ネタなら覚えておきたいところだが、これは違うだろう。
にしても、言った後に、女性を勘違いさせる様な、“綺麗“という言葉を使って失敗したかなと思ったが、さすが人妻みさえと言ったところか。ちゃんと付けている数珠の方だと判断したらしい。
「男性にも人気なのよ?気になったものがあれば、一つ差し上げる
わ〜」
「いえいえ、大変貴重な物だと思うので頂けませんよ。それに、私とみさえさんでは手首の太さが違いますから頂けませんよ」
価値はわからないが、貰っても困るので、頂けませんを二度言って、俺は愛想笑いで返した。
「あら、私の名前までご存知?お兄さんは…えーっとちょっと待ってね、今聞いてみる」
そう言って、みさえは目を閉じた。
聞くと言っていたはずだが、スマホをいじるでもなく、たまに指で数珠を触る。
そのままバスが3停通過した頃だ。
「わかった!………翼くんね?
あなたにぴったりな素敵なお名前ね。常にエンジェルに守られているのが見えるわ!私も天使系の守護がついているのよ〜」
どこに問い合わせしていたんだろう。俺に直接聞いてくれれば返答は1秒くらいで済んだと思うが。
これはもしかしなくても…スピリチュアル系という奴だろうか?
うちにエンジェルは羽虹しかいませんので!守って頂かなくても結構ですので!
「ありがとうございます。みさえさんも。ご家族でとても印象深い名前ですよね」
「……え?パパの名前はひろしじゃないけれど…それに慎之助には兄しかいないの。そのお名前はどこから?………ああ、アニメのお話なのね?
翼くんが私の名前を当てていたから、てっきり同類の方かと思っちゃったわ〜」
個人情報という思考が筒抜けじゃないですか。
読まれても差し障りが無いように、明日の天気の事でも考えておくとしよう。
程なくして、保育園に近いバス停に着いた。
しかしそうだった。みさえの目的地も同じ保育園だ。
そうして何故かみさえも、俺の入るクリーニング店に一緒に入ってきた。
俺は、制服が入った袋を店舗の台におき、クリーニングをお願いする。注文の際には、少し濡れていますとも伝えておいた。
猫のおしっこが掛かった商品なども持ち込まれるので、きっと許容範囲だろう…多分。
「翼くんは制服を汚したからジャージなのね」
ジャージをクリーニング店に預け、支払いを済ませた俺に、みさえは話しかけてくる。
初対面なのにぐいぐい来るな、この人…。話を聞くに男家族が多いとこんな感じになるのだろうか?
「あ…えーっと…学校で粗相をしてしまいまして」
黙っていても読まれるかも知れないと思ったので、事実を伝えて俺は出口へ向かう。どう受け取るかは相手次第だ。
「あらぁ〜!若いって大変ねぇ」
背中をバンバン叩かれた俺は咳き込む。みさえは思いの他、力が強かった。
にしても、今の反応。絶対勘違いされているよな!その辺は詳しい問い合わせは不可能だったのだろうか。
確かに受け取り方は相手次第と言ったけどもぉー。
でも、おもらしとそれと、どっちが高校生の威厳を保てるだろうかと考えたら、勘違いされたままの方が良いかも知れない…。知られたら確実に保育園児にクスクス笑われてしまうだろう。
うんこを描いていれば爆売れするという幼児向け商品伝説がある程だ。
汚物大好き系児童らにネタにされ始めたら、羽虹の思春期が、うんこまみれにされてしまうに違いない。
「恥ずかしいので…今日の事は2人だけの秘密にしてくださいね」
俺は口元に手を当て、小声でみさえに伝える。
「うふふ、私役得ね〜大丈夫、仕事柄、個人情報は厳守するわ〜」
癖なのか、今回も、手をフリフリさせて数珠を見せつけながら、みさえは答えた。
その後、俺が退いた受付のカウンター前にみさえは立ち、クリーニング済みの衣類を受け取っていた。
あんたも客だったのかよ。
保育園までの距離、普段ダッシュで向かう距離だが、今日は慎之介の母のみさえも一緒だ。
「すっご〜い。私、久々に全力で走っちゃった!」
「ハァ…みさえさんは自分のペースで良かったのに…」
もちろん今日も俺は走った。みさえも一緒に走るとは予想外だったが。
肩で息をしつつ、俺達は門が解放されている保育園へと入る。
途中、園児を連れて出てゆくお母さんとすれ違い、会釈などをして、うちの子を引き取るための玄関へ向かった。
保育園では、園児の引き取りで対応中の保護者がいたので、そのまま後ろに並ぶ。
程なくしてやってきたのは、羽虹!と、その背中を無理やり押すように、移動してきている慎之助…だった。
天国と地獄が一緒にやってきた感があるが…俺の笑顔は崩れない。
羽虹はどうしたことか、絶望の表情をしていた。
「翼くん…」
ジャージを指さす
「カッコ悪いかな…?お兄ちゃんと一緒に歩くの嫌か羽虹」
言っていて、泣きたくなる俺だ。世のお父さん達はどうやって、この絶望感を乗り切るんだろう。
『ううん。ごめんなさい。いつも通り翼くんはかっこいいよ。違うの、ごめんなさい』
頭を左右に振る羽虹の姿に、都合よく妄想アフレコして少しだけ俺は自分を慰めた。
それにしても羽虹のこの態度は一体何なんだろう。保育園から帰りたくなくて、ぐずっているのだろうか。
「もしかして、絵本の続きが気になる?」
先生達も、いつもはお兄ちゃんの、お迎え到着1分前には入り口に立って、他の児童の保護者を魅了している羽虹と、今日の羽虹の呼ばれても出たくないという様な態度の違いは気になっていたのだろう。ハッと気づいたように他の先生と目配せをしている。
「お兄さん、貸出しましょうか?」
そう言い、保護者の対応をしていたひよこ組の先生は室内へと向かう。
「はにちゃん、今日もお利口でしたよ。この絵本お気に入りみたいですね。はにちゃん以外読める子もいないので、どうぞ〜」
そう言って、“はじめてのまじゅつ“を持ってきたのは桃山先生だった。
「では、お言葉に甘えます。明日また持ってきますね。いつもお世話になります。ありがとうございます」
思いやり溢れる先生方の対応に俺も真摯に感謝の言葉を伝えた。
「あれ?それうちにあった絵本ね〜。しんちゃんは全然読んでくれなかったけど、はにちゃんは読んでくれているのね〜嬉しいわぁ」
…そうか、みさえ、これはお前の趣味か。
「あの今日は…何で、翼さんとママが一緒に…?」
慎之助は羽虹と真逆で普段よりも素早く靴を履き、1人で速攻帰ったと思っていたのだが。それは希望的観測だったらしい。
みさえの後ろに隠れて、俺達の様子を伺っていたようで、モグラ叩きのモグラのように、人を苛つかせる動きをしていた。
しかし妙だな。
いつもは不機嫌かつ乱暴な慎之助が、今は別人の様に、目をキラキラとさせて照れている。
何か悪いものでも食べたのだろうか?あの嫌々食べていた野菜だとか…。
「慎之助くん、こんにちは。さようならだね」
俺はしゃがんで慎之助と視線を合わせると、笑顔で話を切り上げた。
そのまま後ろを向いて、靴を履いている羽虹の手伝いだ。
「今日はね、ミカエル様のお告げでバスに乗ったら翼くんに会ったのよ〜うふふ。羨ましいでしょー?
しんちゃんは、はにちゃんのお兄ちゃん…翼くんのファンだものね。
保育園を狙う不審者を撃退する、仮面ヒーローみたいな、翼くんみたいになりたいって…ねぇ〜」
「っ…何で言うの!」
背中側では声の主が移動を始めている。
慎之助…お前そんな風に思っていたのか。
幻滅させて悪いが、俺が成敗していたのは保育園を狙う不審者じゃなくて、羽虹を狙う不審者だからな。兄なら当然の事だ。
将を射んと欲すればまず馬を〜…みたいな感じで羽虹を狙う足掛かりに俺に近付いているのだとすれば、お前も同じく成敗されるんだよ。そのヒーローにな。
「でも、ほらぁ〜神様と仲良くしておいた方がよかったでしょ?ママとお勉強しましょうよ、ね?」
「嫌だ!あんなの…ぼくはあんなの、聞こえたり見えなくしたいんだもん‼︎ぶっころしてやる‼︎」
何だか少しずつ分かってきたぞ…。
慎之助よ、お前が殺したい程嫌がっているのは多分……いや、みさえを前に色々考えるのは止めよう。
色々な事が把握できた1日だったな。