第4章 王様と王弟
2022.5.23
結局、黎夕は日が暮れても戻っては来なかった。
このまま居ても無駄に時間だけが過ぎると、雪華は綾に身なりを整えてもらってから王室へと向かった。
使用人の案内で部屋に入る。
入った部屋は本当に王室かと疑いたくなるくらいに質素で、家具や装飾品もほとんど置かれていなかった。部屋の奥には大きな窓があり、日中であれば日当たりが良さそうな場所にこれまた質素な机と椅子が置いてあった。
そこに座っているのは間違いなく空南の王様で、頭を抱えそうな程に難しい顔をしている。
「も、申し訳ございません!」
黎夕はこちらに気付くと、慌てて立ち上がった。慌てて駆け寄ろうとして躓いて転びそうになり、雪華は落ち着くようにと手で制す。
「慌てるな。それで、なにがあった?」
「い、いえ…そ、その…」
言い淀む黎夕はちらりと部屋に控える官吏を見るが、官吏の方は気にした様子もなく、ただ暇そうにして立っている。服には先ほどの郷岩と同じで裾や縫い口に金の糸が刺繍されていた。おそらく黎夕が何を言っても聞かないのだろうと雪華は判断して、大事な話があるからとその官吏に部屋を出るように伝えた。
あからさまに不満そうな顔をしていたが、彼は雪華の事を知っていたのだろう。官吏は渋々と言った様子で部屋を出て行った。
「それで、どうした?」
長椅子に腰を掛けた雪華は、対面で居心地悪そうにしている黎夕に問う。
「ええっと…空南では、この時期に徴収する貸与税というものがあるのですが…」
「ああ、国が所有する土地を使って、農作する者が支払う税金だな。」
「はい。晴嵐にもその土地がいくつかございます。そこに民が無断で農作を始めたという報告を受けました。」
黎夕の言葉に雪華は当たり前だろうなと頷く。民は飢えているのだ。つまり金なんてないし、売れるものもない。だけど腹は減っている。だから金を稼ぐために農作を始めるのは普通の事だろう。
徴収なんてあとでも構わないのだ。それで何を悩むというのだろうかと、雪華は頭を捻る。
「一刻も早く食糧を得たいと民は考えるだろうから、それくらい見当がついていたことではないか。」
「え?」
惚け顔をする黎夕に、雪華はポカンと口を開けた。
「…まさか、そんなことも考えていなかったのか?」
「も、申し訳ございません。思い至りませんでした。」
黎夕の言葉に雪華は呆れた。
だが、と思い直す。彼が無理でも他の官吏が誰一人気付かないなど、あり得るのだろうか?と。
「官吏からそのような意見はあがらなかったのか?」
「はい…」
「ということは、対策も考えていないのだろうな。」
「お恥ずかしながら。」
「…では、その民を見逃すしかないのではないか?」
「そ、それが…」
言いにくそうにして、一度口を閉じる。それが焦れったくて、雪華は少し声を荒げた。
「なんだ?早く言え。」
「……ち、勅任官の命で、極刑に処したそうなのです。」
黎夕の言葉に耳を疑った。勅任官は官吏の中でも、より権威のある役職だ。官吏には役職があり、下級官吏である判任官から始まり、奏任官、勅任官、親任官という順で位置づけされていた。
奏任官以上をまとめて高等官と呼ぶ。
その中でも勅任官は、王の補佐的な存在である親任官の右腕、と言って良いだろう。
ちなみに綾はこの高等官を束ねる最高位にある親任官だ。
簡単に言えば、勅任官は国で三番目に偉いことになるのだが、そんな地位にいるものが飢饉に困る民を裁いたと黎夕は言ったのだ。
税を払わないと重い罪に問われるのはどこの国でも同じだが、今の空南は状況が状況だ。普通は税金を免除して民の負担を減らし、貯めていた税で民を救うのが国の役目のはず。
だが空南はそれとは正反対に、民が貧困だというのに税の徴収は緩めず、助けようともしない。それなのに罰則だけはしっかりと与える。
雪華は痛む頭を押さえるように額に手を当てて、呆れ顔で黎夕を見る。だか目の前にいるのは怯えたように震えているだけの大きな子供。その姿に王としての誇りはないのかと腹が立ち、気づくと責め立てるような口調になっていた。
「どこまで民を苦しめれば気が済むのだ?お前は民を…この国を滅ぼしたいのか?」
「滅相もございません!」
「では、どうしたいのだ。」
黎夕は雪華の問いに涙して答える。その姿は王として相応しくない。上に立つ者なら気を強く持たなければいけないのに、黎夕にはそれが全く出来ていなかった。
「私はただ民を救いたいのです。」
「では、そうすればよかろう。官吏の好きにさせていては、この国はダメになる。何を躊躇うのだ?」
少し落ち着きを取り戻した雪華は、ため息と共に疑問を黎夕に投げ掛けた。
「私は…」
言いかけては口ごもってしまう。だが雪華はあえて何も声をかけずに、黎夕の言葉を待った。
「……私は王の中でも若いせいで、官吏に軽視されているのです。特に高等官の地位にいる者は、取り合ってもくれません。今回の件も、私に相談はありませんでした。」
決死の覚悟で口にした言葉なのだろう。膝に置かれた黎夕の手は白くなるまで強く握られ震えていた。雪華は彼をこれ以上刺激しないように、感情を抑えて言葉を紡ぐ。
「それは年齢ではなく、お前の態度の問題だろう。私はお前より年齢で言えば下になる。だが、官吏に侮られることはない。そうさせないと言う方が、正しいかもしれないな。」
「お恥ずかしい限りです。」
「倉炻は?」
雪華の問いに黎夕は首を横に振る。
「あれは私を良く思っておりません。」
「それはそうだろうな。私だってお前を良くは思っていない。」
肩を落とす黎夕は子犬のように弱々しく見える。
「だが人は幸いにも変わることができる。今からでも遅くない。」
「……。」
「それに倉炻は…」
雪華は言いかけた言葉を飲み込むように、口を一度閉ざした。今話しても分かってもらえないと思ったからだ。
あれは嫌っている訳ではなく、王のためになんとかしたいという彼なりの努力の現れなのだが、自分に自信のない黎夕に言っても信じないだろう。
自信のない者に、いくらお前は出来る奴だと説いても分かってもらえないのと同じだ。
「…実は」
黎夕が口を開くので、雪華は考えるのを止めて彼を見る。
「先程話した勅任官ですが名を蓮季と言いまして、これが筆頭となり私利私欲だけで動いているのです。
あまりに勝手が過ぎるからと、辞任させようとしたことがあるのですが、なんだかんだと理由を付けられて辞任させることが出来なかったのです。」
「だからなんだと言うのだ?」
「えっと、で、ですから、私が官吏を解任したくても…その、難しくて…」
「そんなもの首を撥ねれば良い。」
「それが出来ないと…」
訴えかけるような言葉には、彼がもう精一杯なのだと分かる。
「黎夕にも隠密くらい、いるのだろう?」
「え?ええ、それはおりますが…」
話が噛み合っていないと思ったのか、黎夕は僅かに眉根を寄せて小首を傾げる。
「簡単なことだ。その隠密に始末させれば良い。」
黎夕は目を見開いた。
「惨いか?だが、お前がこの国をこのようにしたのだ。お前はその責任を取らなければいけない。」
「…はい。」
「官吏が王の言うことを聞かないなど、本来ならあってはいけないことだ。まずはそれを変えないと、この国を変えるのは難しいだろう。」
黎夕はうつ向いて、ボロボロと涙を零す。
「それには見せしめが必要だ。お前はこの国の王なのだ。その権限はある。」
そう言う雪華だって同じ頃があった。だから彼を可哀想だと思わないわけではないが、これは彼が解決しなければならい問題だ。
雪華が権威を見せてもこの国を変えることは出来ないのだ。
「それに、高等官は民を苦しめ見殺しにしているんだ。そいつらを止めない限り、多くの民が死ぬことになるのだぞ。」
雪華の冷たいとも思える言葉に、黎夕はただただ涙を流す。だけどこの判断を間違えれば、何千万という民が死ぬかもしれないのだ。
それが分かっていても動けないでいる、哀れな子犬のような王を見て雪華はため息が出た。
「はぁ…では、その蓮季に会うことは可能か?」
「蓮季でございますか…」
鼻をすすりながら、机の上に置かれた木板を確認する。どうやら高等官の登庁が、分かるようになっているらしい。
「明日、こちらに登庁する予定です。」
「では、明日まで滞在させてもらいたい。問題ないだろうか?」
「もちろんでございます。すぐに、部屋を用意させますので。」
「待て。その顔のまま官吏の所に行くつもりか?」
「え?」
涙で目を腫らした黎夕の顔を見ながら言うと、黎夕は壁にかけられた鏡を見る。頬を恥ずかしさで赤く染めてあわてふためく。その姿はなんだか可愛く思えて笑えてしまう。
「これを使うと良い。」
「あ、ありがとうございます。」
雪華が渡した手拭いを受け取ると、目を擦るように涙を拭き取ろうとする。
「待て待て。それだと余計に目が腫れる。こういう時は押さえるようにして、拭うのだ。」
「は、はい。何から何まで申し訳ございません。」
「気にするな。…冷やした方が良い。その水差しで濡らして、目元にしばらく当てておきなさい。」
言われた通りに、黎夕は涙を拭ってから、水差しの水で濡らすと、目に優しく押し当てる。
「少し座って休め。それから官吏を呼んでも、問題なかろう。」
「はい…」
やっと落ち着いたのか向かいの椅子に腰かけると、小さくため息をこぼした。
そこに綾がお茶を淹れてくれた。湯気が立つ湯呑みを手にして香りを感じると、ほう…とため息が漏れた。雪華の心にも落ち着きが戻ってくる。
「先ほど見ていた木板は黎夕が作ったものか?」
「え?ええ。高等官とは連絡を取り合うことが多いので、どこにいるかを把握できた方が良いかと。
全てを紙に書いていては、紙が大量に必要になるので、使い回せるようにと作りました。」
そう言って黎夕は木板を見せてくれる。それには高等官の名前と日付の表となっており、城に来る日に印が置かれていた。
印も針がついたもので、木板に何度刺しても使えるように工夫されている。
「これは便利だな。」
「ありがとうございます。ですが、ほとんどの官吏に鼻で笑われてしまいました。あっ、でも…玉廉は欲しいと言ってましたね。」
思い出したように付け加えた黎夕に、聞き覚えのあった雪華は昔を思い出す。
「玉廉か…」
「はい。雲山を管理している勅任官です。」
「……他には?」
「そうですね…数名の官吏が、仕える高等官を把握するために使用しているとは聞いております。」
「そうか……それを私にももらえないだろうか?」
聞けば黎夕はお茶を飲みかけていた手を止める。
「陛下が使うのですか?」
「そうだが、ダメか?」
「い、いえ。そんなことはございません。ただ、我が国の高等官には馬鹿にされてしまったので…」
「お前のところの高等官は余程優秀なのだな。」
「どうなのでしょうかね…」
小馬鹿にしたつもりだったが、黎夕は寂しそうに答えて、自分には分からないのだと落ち込んでしまう。
「お前がそんなことでは、先が思いやられるな。」
「も、申し訳ございません。」
「私の親任官は優秀だぞ。私の予定を全て把握して動いているし、誰がいつ登庁しているか把握しているんだ。彼女に任せておけば間違いない。」
「羨ましいです。」
「お前にだってつくれるはずだ。お前を支えてくれる官吏を探せば良い。」
「はい。」
黎夕は疑問が浮かんだのか、不思議そうな顔をこちらに向ける。
「陛下、親任官が予定を把握されているなら、木板は不要なのでは?」
「悔しいじゃないか。いつも把握されているって言うのも。だから、たまには驚かせたいのだ。私だって高等官の予定を把握しているのだとな。」
ニッと、笑ってしまって、雪華らしくないかと思ったが、目の前の王弟は今日初めて笑顔を見せてくれたので、雪華は良しとすることにしたのだった。
――――次の日、王室で黎夕と共に蓮季の登庁を待っていたが、なかなか登庁してこず雪華は退屈し、黎夕はみるみる落ち着きをなくしていった。
今更、官吏の仕事振りが悪くても、黎夕に小言を言うつもりなど雪華にはなく、彼に声をかけたがそれはかえって彼の不安を煽ってしまった。
結局、蓮季が姿を現したのは昼に近い頃だった。
驚いたことに、彼は部下とともに王室に入るなり平伏して、ことの経緯を話し始めた。
内容としては、何故この時間の登庁になったのか、誰が悪いのかなど、まぁ聞きもしないことをペラペラとしゃべる。
やっと口を閉じたかと思うと、許可もしないのに頭を上げて蓮季は雪華を見た。
五十代くらいだろうか、目元に皺が刻まれている。そして整えられた髭は、より一層彼が傲慢な男だと形容していた。背格好は細身の長身。細身とは言っても民のような飢餓ではない。肉付きは良く、着ているものも絹であしらわれた一級品。民が飢えているというのに贅沢三昧のようだ。
「お前が大変だったこと、よく分かった。今日はそれを説教するつもりはない。」
「寛大なお言葉を、賜り心よりお礼申し上げます。」
「そんなことは良い。私が聞きたいのは民を極刑に処した件だ。」
「その件でございますか…」
急に暗い顔をする蓮季は言い辛そうな様子で続ける。
「あの民には気の毒なことをいたしました。」
蓮季の反応は雪華の予想と違っていた。慌てるかと思ったが、彼は全く落ち着いた様子で、民を憐れんだ様子を見せる。
これが演技ならなかなかの役者だ。
「あの民は子が二人おりまして、昨年の不作で生活が困難だと聞いて、色々と気にかけていたのです。」
「それは真か?聞いた話ではお前が処罰したと聞いているが?」
雪華の問いに蓮季はとんでもないと、大げさに目を見開き驚いた顔をする。だけどすぐに悲しみにくれた表情に戻ると、俯き手で涙をぬぐうような仕草を見せる。
本当に泣いているのかまでは雪華には見えない。
「あれは、私の部下が勝手に行ったことでして…私が気づいた時にはもうすでに…」
「つまり部下が勝手にやったことで自分は関係ないと?」
「まさか、とんでもございません!これは私が至らぬために、起こったことにございます。どんな処罰でもお受け致します。」
平伏する蓮季の表情は見えない。付き添った官吏たちも蓮季に倣う。その中には昨日、雪華に横柄な態度を取った郷岩の姿もあった。
「…ただ、私がいなくなると、管理している晴嵐はさらに飢えに苦しむかと…」
「それはどういう意味か?」
「あ、いえ、決して処罰を軽くしようとしている訳ではございません。私が行っている政策で、民に炊き出しをしております。」
「ほう。」
「嘘ではございません。ただ、旅民にお願いしているので、すぐに証明することはできないのですが…」
「疑っている訳ではない。」
恭しく頭を下げる蓮季の表現は全てがわざとらしく見える。別に、黎夕から話を聞いたから疑っているという訳ではなく、雪華の感がそう言っている。この男は裏があると。
ちなみに、旅民というのは、どこの国にも所属せず色々な場所を転々と移動し、一つの場所に留まらない民族を言う。遊牧をしている旅民もいれば、雑技を見せて生計を立てる旅民もいる、生業としていることは様々であった。
「何故旅民なのだ?官吏にやらせれば良かろう?」
「官吏は日々の業務に追われており、時間を作るのが難しいのです。そこで晴嵐によく訪れる旅民に頼んでいるのです。
それに正直申しますと、炊き出しなどの料理は彼らの方が手慣れておりますから…適材適所という訳です。」
「なるほどな。…ちなみに、民を罰した官吏に会うことはできるか?」
「そ、それは…」
雪華の問いに蓮季は急には切れが悪くなる。
「どうした?都合が悪いのであれば、別に日を設けても構わないぞ。」
「い、いえ…彼は自害したのです。」
雪華は耳を疑った。それは表情に出てしまったようで、雪華の顔を見た蓮季が慌てて続ける。
「責め立てたわけではございません。ただ民の状況を話して、どうしたら良かったのかを説きは致しました。
もともと変わり者で、周りに友もいなかったようでして、思い詰めてしまったようです。私がもっと早く気が付いていれば…」
悔しそうに顔を歪めて再び俯くと、涙をぬぐう仕草をした。だけどやはり雪華には、本当に泣いているのかは分からなかった。