終章 組紐と日常
「こちらにいらっしゃいましたか。」
昼下がりの中庭。雪は手にしていた資料から視線を声の方に向ければ、李珀がひらひらと手を振りこちらに近づいてくる。
「ちゃんと渡せたみたいですね。」
「うん!」
任務を達成して満足気な雪に、李珀はにこりと微笑みを返しつつ、長椅子の隣に腰を下ろした。
「翠はどうしたんですか?」
「お茶を持ってくるって。ここなら、私ひとりでも大丈夫だろって…」
「ああ、なるほど。」
納得したように頷いていた李珀だったが、すぐに雪に視線を戻すとじっと見つめた。
「な、なに?」
「なに?ではありませんよ。渡してみていかがでしたか?喜んでいましたか?」
楽しんでいるのがとてもよく分かる顔で雪を見て、彼女の答えを待つ李珀。それはまるで玩具を与えられた子供のように目を輝かせている。
「う、うん。喜んでもらえた。」
「それは良かったです。で?」
「うん?それだけだよ。」
「いやいやいや、そんなはずないでしょう。組紐の贈り物をもらって『ありがとう。』で、終わるなんて…」
言いかけて李珀は「翠なら...」とか「雪様だし…」とか何かぶつぶつと呟いて、考え始めてしまうので、雪はどうしたものかと手にしていた紙をなんとなく眺めて待つことにした。
「雪様は翠の機微を読み取るのが得意ですよね?」
「うん、まあ…たぶん。」
「なら、なにか喜び以外の感情は見えませんでしたか?」
「他に?うーん…」
せっかく面白くなると思ったのに、雪がこれでは李珀的にはつまらないのだ。実は今回の一件、李珀が考えたことで、雪から翠が喜びそうなものが何かないか聞かれて、真っ先に組紐を提案していたのだ。
雪は知らなかったが、本来、組紐を贈る相手は家族や恋人など大切な人に贈るものなのだ。特に告白する際に贈ると恋が叶いやすいというのが、城下町で流行っている恋まじないだった。もちろんそんなこと雪は知らない。
「あ…そういえばね。その時に、この辺りが痛くなって…」
「心臓ですか?」
これまた話が見当違いな方向に行ってしまったと思いつつも、李珀はそれはそれで問題かと話に集中した。
「うーん、ちょっと違うような気もするんだけど…よく分からなくて。胸の辺りをぎゅーって握られるような苦しさ?っていうのかなぁ…」
雪の説明を聞いていて、李珀はもちろん雪の心理に気が付いて、にやけそうになる口許を隠して雪に問いかける。
「翠はなんと?」
「一時的なものなら神経痛じゃないかって…」
「ぷっ…本当に?」
「え、ええ。そこ、笑うところ?」
訝しがられて李珀はとんでもないと手と頭をぶんぶんと左右に振ったが、内心は笑いを堪えるのに必死だった。
「翠がそう言うなら、問題ないでしょう。」
「そうよね。」
「…翠も存外、鈍いのですね」
「李珀、なにか言った?」
「いいえ、なんでもございません。」
にこりと作り笑いで誤魔化す李珀に、若干の疑問はあったが雪もそれ以上は問い詰めるつもりもなく、雪は空を見上げた。
暖かい日差しがぽかぽかと気持ちの良い昼下がり。庭の端には満開になった雪桜が誇らしげに凛と佇む。それも今日で見納めだろうと思えば、少しだけ寂しいなと雪は感じた。毎回この時期が訪れる度に、こんな気持ちになるのだから雪桜もなかなかに罪深い、などと考えていたら茶器のぶつかる音が聞こえてそちらに目を移せば、丁度よく翠がお茶と菓子を運んできた。
長い袖口からは金や黒、青、そして桃色の糸で編まれた組紐が見え隠れしている。
男性に桃色とも思ったが、やはりその色にして良かったと、雪は雪桜を背にして歩いてくる翠の姿を見て目を細めたのだった。




