第4章 孤独と二人
考えが甘かった。と、雪は部屋を出てすぐに後悔した。
廊下のどちらを見ても翠の姿はなく、もちろん痕跡もあるはずがなくて、鬼ごっこ開始早々に鬼の方が敗北した気分だ。
部屋に戻って李珀の手を借りるべきかと一瞬考えたが、なんだかそれは本当に負けたような気がして嫌だったので、翠をそのまま追いかけることにした。
勘だけを頼りに雪は城内を駆け回った。いつも行く図書室から食堂に離れの堂まで、思いつくところは全て巡ってみたが、翠の姿は見つけられなかった。
日は完全に沈み、廊下や中庭ではすでに灯籠が点っている。
「…もう…どこ行ったのよぉ。」
日が沈めば一気に風が冷たくなって、雪はぶるっと震える。衣をもう一枚羽織ってくれば良かったと心の底から後悔し、鳥肌の立つ腕を擦りながら中庭に出た。
灯籠の明かりがあるので夜でも歩くのに困ることはなく、雪は殺風景な中庭を独りで歩いた。こんなところにいる訳がないと思いつつも、翠の姿を探してみるが、やはり見つけることは出来なかった。
「…もう…なんでいないのよ…」
今日は朝から街へ行って、昼からは頭を目一杯使って組紐を編んで、今は走り回って雪は憔悴しきっていた。自分が空回りしているのは明らかで、情けないやら虚しいやらで、感情がぐるぐるして泣きそうな気分になる。
何をやっても駄目な自分に溜め息が出て、立っていることすら億劫になった雪は、中庭にある雪桜の前にしゃがみ込んだ。下を向けば涙が溢れて零れそうになり、雪は腕で覆い隠すように顔を埋めた。
そんな小さな雪の背中に冷たい風は容赦なく吹き付けていく。だけど寒いとはもう思わなかった。それよりも寂しいと言う感情が勝り、胸を押し潰されそうになる。雪桜も枝をぶつけて荒立たしく音を立てて、まるで雪を追い出そうとしているかのように荒々しい。
まるで全てが自分を拒絶しているように雪は感じて、ますます現実から逃げるように、ぐっと顔を押しつける。
「こんなのいつものことじゃない…」
勇気づけようと声を出すが、声は震えて自分でも情けなく聞こえた。雪華ならこんなこと絶対ありえない。あってはいけない。
これは反動だ。彼女自身も気付いてはいない、心の機微。強くあろうとする雪華は雪本来の姿ではない。それどころか真逆であり、彼女の本質はこっちだ。
時折、うじうじした弱い自分が出てきて、それは押さえきれなくって、不安となって雪に襲いかかるのだ。こんな時いつもなら翠がいてくれる。それだけで、不安が和らぐのに……彼を怒らせてしまった…きっと自分が悪いのだと雪は考えてまた落ち込む。
「すぃ…」
「なに?」
「ふぇ…?」
返事があって驚き雪が顔を上げれば、いつもの仏頂面が雪を見下ろしていた。
「翠?」
名前を呼んだら涙が溢れた。ぼろぼろと溢れる涙に、翠が雪の耳元に顔を寄せる。
「俺はあんたのそばから離れねぇよ。裏切りもしない。だから、心配すんな。」
ぽそっと小声でそんなことを言い、不安な雪の心を落ち着かせてくれる。翠がくれた言葉のお陰か、それとも身体が近いからか、凍えきった身体に温かさを感じた。さっきまではなかった感情に、雪の心が我が儘を言い出す。もっとこうしていたいと。
だけど、伝えたいことを伝えきった翠が雪から離れようとするので、慌てた雪は翠の首に腕を回して抱きついた。
それは反射的だったのだろう。温かさを知った心が欲望に負けて、自分の手にいれたくなったのだ。離れがたくて、でも大切なものを壊さないように優しく。
だけど勢いが良すぎたのか、翠は体勢を崩して尻餅をついてしまった。
「っ!」
翠は咄嗟にその腕を振りほどこうとして、やめた。
雪の身体が震えていることに気付いたからだ。
振りほどこうと上げた手を雪の背中に置くと、それだけで雪は身体を強ばらせて、ふるふるとさらに震える。まるで今にも破裂してしまいそうな紙風船のように脆く、危うく見える。
「すいぃ...」
離れなきゃいけないと頭では分かっていても、弱々しい雪の声に、翠は背中に回した手に力を入れて彼女を抱き寄せる。彼女の体温を感じて高揚する頬は赤い。
「大丈夫だ。俺がいる。」
気恥ずかしくても言葉にする。それが今、彼に出来る唯一の事だから。
「……うん。」
雪は胸が熱くなるような感覚に酔い、頭が回らなくなる。いつまでもこうしていたいという誘惑と、心が落ち着き冷静さを取り戻しはじめて、気恥ずかしくなる感覚に戸惑いそれを誤魔化すために「えへへ。」と、照れ笑いをして顔を上げる。
すると、慌てた様子の翠とばっちり視線が合った。うっすらとだが翠の頬が紅く染まっているように見えたが、その理由を見つけてすぐに彼のさらに後ろに視線を移した。その視線に気付いた翠もまた彼女と同じ方に視線をやる。
ぽう…と、雪桜が淡く薄紅色に光っていた。さらに視線を凝らして見れば、雪桜が花を咲かせていた。ぽん。ぽん。と、花開く雪桜は咲かせる毎に光り出す。
「わぁ…綺麗」
きらきらと雪は目を輝かせて、その幻想的な開花を静かに眺めた。
「…ねえ、翠…なんでさっき怒ってたの?」
雪は雪桜の花から翠に視線を戻して、首をかしげる。
それに答える翠はただ静かに頭を左右に振るだけで、何も言わなかった。
「嘘。絶対に怒ってた。」
ぷくっと頬を膨らませる雪は、こつんと翠の額に自分の額を当てる。
「これで話しても周りには聞こえないわ。ほら、理由を言いなさい。」
「ちょ、おまっ」
「ほら、言うまで離さないから。」
翠が戸惑おうとも気にしない。雪にはそれよりも、彼の事を知りたかった。翠が何をどう思い感じて、怒ったのか。
「ばーか、言うかよ。」
「へ?」
雪が油断した一瞬の隙に、樽でも担ぐように雪は抱えられてしまい、そのまま何事もなかったように翠は歩き出した。
「ちょっと!下ろして!」
「…」
「翠!」
「…」
いくら暴れても雪の力ではびくともせず、虚しくなってきて雪は抵抗することを諦めた。




