第2章 苦悩と休息
「雪様、目的の店はこちらですよ。」
李珀に呼び止められて雪は、はしゃぎ過ぎだったと反省する。街に出るのは久しぶりで、街の活気に引きずられて気持ちが上擦っていたのだろう。
落ち着いて周りを見渡せば、自分が納める国が映る。今の羅芯に飢え苦しむ者はほとんどいない。民は皆、活気に満ち、街は栄えている。
まだ昼前だというのに、食事処はどこも賑わい、酒を飲み交わす者達の姿も見受けられた。衣類や雑貨の店には女性達が集まり、こちらもまた繁盛している。
そんな中の一つ、衣類を扱っている店が今日の目的地だ。
李珀を後ろに付けて、雪は店の中に入る。
色とりどりの布が壁一面に並んでいた。目が疲れそうな程にたくさんの色の中に、雪は目当てのものを見つけて駆け寄る。
「糸をお探しかい?」
「ええ。いろんな色があるのね。」
白髪混じりの中年の女が雪に声をかけてきて、雪の言葉に気を良くしたのかニカッと豪快な笑顔を見せた。
「ああ、うちはこの辺りで一番大きな布屋さ。服飾の仕立てもやってるよ。うちで服を仕立てるかい?」
「いえ、今日は組み紐の糸を買いたくて…」
雪の言葉を聞いて女主人は何か勘ぐったのか、「あんたの好い人かい?」と言いつつにやりと笑い楽しそうに聞いてくる。
そんな女主人の言葉の本当の意味を理解できなかった雪は首を傾げてから、「そうなのかな?日頃のお礼をしたくて」と、付け加えれば女はうんうん。と、自分にもそんな頃があったと言わんばかりに深々と頷いていた。
「組み紐用なら四色だね。」
「色かぁ、どうしよう。」
目の前に並ぶ糸の種類はかなり多くて、雪はじーっと糸を見つめた。似たような色も多く、並べて比べないと違いが分からない糸も少なくなかった。
そんな色とりどりの糸と、しばらくにらめっこをしていたら女主人が助け舟を出してくれた。
「とりあえず、その人の瞳や髪色から選んだらどうだい?」
「確かに…それは良いわね。それなら」
と、言いかけて雪は、はたと気づく。
さすがに黄金色の糸はないだろうと。金糸は王や高等官の正装にだけ使われる高級品で、早々手に入るものではない。
「…綺麗なのにな」
ポツリと呟くと、後ろに控えていた李珀が雪に顔を寄せる。
「金色のは戻ったら綾にでも聞いてみましょう。きっと、少しくらい分けてもらえますよ。」
「そうね。じゃあ…一つは黒色にして、あと二色ね。」
「そしたら、この辺りの色が良いんじゃないかい?」
そう言って女主人が持ってきたのは、青色の糸だった。それも水色から群青色までと幅広く、青だけで十種類もある。そんな中から李珀は迷うことなく、一つを選んで雪に手渡す。
「これなんか良いのでは?」
それは藍染の薄い色で、雪の髪色とそっくりな色合いをしていた。
「うーん…翠って青色好きだっけ?」
「はい、好きかと。」
なぜか確信したように答える李珀に、多少の疑問を感じつつも、有無を言わせない雰囲気に根負けして、雪はその青色を選んだ。
「あとは、お嬢さんの好きな色を入れると良いよ。組み紐は願掛けが大切だからね。願いを込めるのに自分の好きなものが入ってた方が良い。」
「へぇ…それなら…」
雪は女主人に言われた通り、自分の好きな色を探す。色とりどり糸束を見ていて、その一つに目が留まった。
「私、これが良い。どうかしら?」
振り返って李珀に問いかける雪は無邪気な笑顔を見せる。
「え、あ、そうですね。」
思わず言葉に詰まった李珀はそれだけしか返せなかったが、雪にとっては満足いく答えだったのだろう。彼女は店主に向き直って会計をお願いしていた。
そんな雪に気づかれないようにホッと息を吐く。
「いつの間にあんな顔するようになったんですかね。これでは、翠も大変ですね。」
李珀の口からはそんな独り言が漏れ、困ったように後ろ頭を掻くのだった。
「さっ、買い物も済んだし帰…」
「お昼ご飯にしませんか?せっかく街まで出てきたのですから。」
李珀の提案に雪は目を見張る。だが、すぐにうーんと唸り、
魅力的な提案に腕を組んで本気で悩んでいるようだった。ぶつぶつ「組紐を完成させたい…」とか「いや、でもせっかくだし…」とか呟きが漏れており、雪の心が揺れているのは誰がみても明らかだった。
「せっかくの外出ですよ?今日は綾の許可も得てますし、文句は言わないでしょう。こんな好機、逃す手はありませんよね?」
「うぅ…でも、今日中に組紐を完成させたくて。翠がいない今日しか…」
「大丈夫ですよ。組紐はそんなに難しいものではございません。雪の器用さなら、あっという間に完成しますよ。お昼ご飯くらい食べて帰ったって問題ありません。ね、雪様。息抜きも大切ですよ?」
おねだりするように、李珀は雪の両肩に手を乗せて小首をかしげる。
「ふぅ…分かったわ。」
店は李珀が選んでくれた。
賑わう街中にあるとは思えない静かな食堂。人がいない訳ではないのだが、落ち着いた空間が広がっている。李珀らしいと言えばらしい選択だが、少し意外だとも雪は思った。
女の子を連れて来るにはとても良い雰囲気の場所だが、雪(自分)にその店を教えるのが少々意外に感じたのだ。
「わぁ、可愛い。」
陶器の湯呑みの色は青または赤茶の一色が主流だが、雪の目の前に置かれた湯呑みは様々な色で模様が描かれていた。店主の趣味なのか、それとも懇意にしている職人の好みなのか、湯呑みは一つ一つ形も模様も違っていて、統一性に欠けているのだが、それがまた味になっている。
雪が楽しげに湯呑みを眺めている間に、李珀は適当に料理を注文した。
「わぁ…」
しばらくして運ばれてきた料理に雪は目を輝かせる。料理の盛り付けも然ることながら、その食器皿もまた湯呑みと同じように様々な形や模様で独特な雰囲気を醸し出している。大衆食堂なら大皿にごちゃっと料理をのせて出すのが当たり前で、こんな凝った盛りつけをするのは普通ではあまりない。それこそ、羅芯の王の食事なら別だが。
「お気に召しましたか?」
「ええ!」
「それはここにお連れした甲斐がございます。」
「食べてしまうのがもったいないわね。」
雪の素直な感想に、李珀はフフっと笑みをこぼす。
「ここは料理の味も良いんです。ぜひ、冷めないうちに召し上がってください。」
李珀に促されて、雪は名残惜しそうにしながらも料理を口にする。
「美味しい!」
「でしょう。」
思わず出てしまった崩れた言葉遣いが不敬だと思ったのだろう、李珀は口を手で塞ぐが雪は気にした様子もなくうんうん。と、頷く。
「…今さら言葉遣いどうこうなんて、気にしませんよー。李珀は真面目ね。」
「雪様が大雑把なんですよ。」
「えー、そうかなぁ。これでも隆盛よりは真面目だと思うけれど。」
前王の名前を出せば、李珀は声をあげて笑った。とても珍しい光景に雪は目が点になり、彼をじっと見つめてしまう。
すると、李珀は目尻の涙を拭ってから目を細める。
「…そうですね。今の羅芯の王は英明です。」
「隆盛だって素晴らしい王様だわ。」
「ええ……ですが、決して真面目ではありませんでしたよ。」
苦く笑うのは、李珀も何かしらのとばっちりを受けてきたからなのだろう。
「ふらふらと急にいなくなる方で、どれだけの人間が振り回されたか。」
「それは視察のためではないの?」
「まぁ、最終的にはそうなのですが…それを事前に教えてくれることはありませんので、付き合う側は散々でしたよ。」
「それは容易に想像できるね。」
「でしょう。」
湯呑みのお茶を眺めるように視線を落として、昔のことを思い出しているようだった。
「…それにあの方は残酷でした。決断に迷わず、人を切ることに躊躇いがない。」
「…それは現王も同じよ。」
「そうですね。ただ、私が心配していたのは残酷さが故に心が壊れてしまうことです。人の心は脆い。ちょっとしたことで壊れ、感情が失われます。そんな人間を沢山見てきました。隆盛はそんな荒むばかりの心の癒しを、見つけられないように私には見えました。だからこそいなくなってしまわれたのだと、私は考えております。」
「隆盛が?まさか…」
そんなこと考えたことがなかった。隆盛は立派な王様で、間違うこともなければ負けることもなく、ましてや心が弱いなんてことあり得なくて、雪の理想そのものだった。
だが、今、李珀の考えを聞いて、自分はなんと愚かだったのかと落胆する。
そんな完璧な人間なんていないのだ。人は悩み心を病む。そんなのは誰にでも起こり得ることで、隆盛だって例外ではない。
ただ、彼は弱味を見せなかった。少なくとも雪は見たことがなかった。だからこそ、雪は心が壊れるなんて思ったこともなかったのだ。
「…だから、私は貴女も心配なのです。あの隆盛ですら心を病んでしまわれた。そうでも考えなければ、現王を勝手に推薦し居なくなるなんてことあり得ません。」
「何かに巻き込まれたとかではないの?」
「その可能性も考えましたが、それにしては相手の動きがなさすぎます。捕まったにしろ殺されたにしろ、相手の意図が見えてこないのです。」
「そうね。」
「まぁ、ここでそんな推測をしても仕方ないことでしたね。とりあえず、私は貴女も心配しているのですよ。それに、雪様は少々お優し過ぎるような気が致します。現王はともかく、雪様はその優しさにつけ入られてしまいそうで、私は不安です。
悪事を働く者はいくらでもいます。彼らは少しでもつけ入る隙を見つけて、自分の有利になるように画策するのです。」
李珀はそこまで一気に言葉にして、一つ息をした。外れた視線は憂いを帯び、何かを思い出すように遠い目をする。
「だから、人というものは恐ろしい。」
「李珀でも怖いことがあるの?」
「ええ、たくさんありますよ。私は臆病者ですから。」
そうは見えないと雪は首をかしげる。それを笑顔で受け止めて、李珀は雪の頭に手を置いた。それは親が子を慈しむような優しさが見える。
「さあ、雪様、食事を続けましょう。せっかくの料理が冷めてしまいますよ。」
釈然としない気持ちを隠しきれない雪に、話しはここまで。と、李珀は食事を続けようと促す。
それ以上は聞いてはいけないという雰囲気に雪は諦めて食事に戻った。




