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第1章 冬暁と支度

 地平線から太陽が顔を出し、空が朝焼けで赤と青に染まる頃。街はすでに活気に溢れている。近隣同士で挨拶が聞こえ、今日は何の仕入れがあるだの、畑で何が収穫できるだの声が飛び交う。井戸の近くでは女たちが噂話に花を咲かせていた。変わらない日常が、今日もただひたすらに忙しなく動き出した。

 それは城でも同じだ。兵や官吏など、働く人々の騒がしさに、厳かな城内にも活気が出てくる。

 その煩さに加えて、容赦なく窓から差し込む朝日に、雪は目が覚めた。ぼーっとする中で、太陽に手招きされて窓を開ければ、冷たい風が部屋の中に入ってくる。

 雪は身震いして、両手で腕を抱きしめるようにして縮こまった。部屋から見える中庭は質素で緑と茶色だけの世界が広がり、葉の落ちた木々や花の終わった草が、時おり吹き抜ける冷たい風に揺られながら、まだ遠いだろう暖かい時期が来るのを切望している。

 そんな中庭に植えられた、ある一本の木を雪は楽しそうに見つめている。縮み込み厚手の布にくるまりたくなるような寒さの時期に、雪だけは毎日飽きずにその木を眺めていた。

 雪桜(ゆきざくら)

 それがその木の名だ。海羅島特有の木で、寒い時期の訪れとともに淡い紅色の花を咲かせる。だけど花が咲くのはほんの僅かな時だけで、それも一気に開花するために、見逃すと全く見れないなんてことも少なくない。

 それを見逃したくなくて、雪は毎朝、中庭を眺めるのが日課になっていた。今はまだ花は咲いていないが、蕾が少しずつ膨らんでいる。


「そろそろ咲くかなぁ」



 ひとりごちて雪桜を眺めていたが、やはり寒さに勝てずに窓をそっと閉めた。

 ふうと息を吐いて、部屋を見渡すが翠の姿はない。


「そうだった…」と雪は思い出す。


 今日は彼に休みを取らせたのだ。

 いつもならとっくに叩き起こされて、支度を終えているような時間だ。


「だいぶ、寝坊したな…」


 雪は誰もいない部屋でひとりごちる。部屋を見渡して、雪は自分のやるべきことを思い出し、パタパタと身支度を始めた。


「むう」


 そして、鏡の前で眉根を寄せた。可愛らしい顔が台無しなのだが、自分の事を可愛いなんて微塵にも思っていない雪は気にも止めず、鏡とにらめっこをする。


「さすがにこれじゃあ、表を歩けないよね…」


 と、雪が思うのも無理ないくらいに、髪が爆発している。

 そう言えば…と、雪は昨晩の事を思い出す。翠に休みを取らせるため、部屋から追い出す際に"髪を乾かせ。"と、言われていたことを。だが、もう後の祭りだ。濡れたまま寝たために、絡まりあってしまった毛は子どもが初めて編んだもののように、歪な形を成して広がってしまっている。さすがの雪もそのままではダメだと思った。

 いつもなら、綾が髪の毛を櫛で整え、結ってくれる。だけど、その綾も今日はいない。なぜなら雪も今日、休みを取っているから、その分の仕事を彼女がこなしているのだ。そんな時は雪の身支度は翠が手伝ってくれた。髪結いも上手で奇麗にまとめてくれていたのだが、もちろん今日はその翠もいない。


「まぁ、私がそうさせたんだし…なんとかするかなぁ」


 普段も翠は雪と同じ日に休暇を取る。だが、それで彼は雪の行きたいところについて来た。


「───それって、休みになってる?」


 と、翠に尋ねたことがある。翠の休みでもあるのに、雪のやりたい事や行きたい所にばかり付きあわせて、本当に休めているのか疑問だったからだ。

 だけど、翠はコクンと頷くだけ。休みなのだから一緒に行動しなくて良いのだと、何度言っても雪から離れることなく一緒に読書したり散歩したりお菓子を食べたりする。雪としては一人でいるより二人でいる方が心地よくて、休息になっているが、翠も同じ気持ちなのかは分からなかった。

 だから、今日は一人で過ごしたいと言って別行動すると言ったのだ。翠は最後まで納得いかないと不満顔だったが、護衛には李珀を付けるからと有無を言わせなかった。


「翠、今頃どうしてるだろう?」


 うーん。と、少し不安に思うが、今はそれどころではなかったと櫛を手に取る。頭の天辺から下に向かってグッと櫛を下ろした。


「痛っ」


 櫛は途中で止まってしまい、引っ張れば頭皮が悲鳴をあげる。


「うぅ…めんどくさい」


 不満を言っても誰も助けてはくれないので、仕方ないと雪は髪から櫛を外して諦めたようにため息を着いた。

 どうしたものかと顎に手を当てて悩めば、ふと翠が水を髪にかけていたことを思い出す。いつもは布を湿らせて髪に当てていたような気がするが、やり方をはっきり覚えてはいないし、面倒だと思った雪は手に水を付けて、その手で髪を梳かす。すると、先ほどとは違い毛が引っ掛かることもなくスルスルと解けていく。それに雪は気を良くして、どんどん水を付けては、髪を梳かしていった。


「こんなものかな。」


 雪が満足した頃には髪はしっとりというよりは、雨に打たれたのかと言いたくなる程に濡れていた。


「あ、おはよう。李珀。」

「おは…ゆ、雪様どうしたんですか!?」

「え?」


 部屋を出たところにいた李珀に挨拶すれば、彼は驚いたようすで目をぱちくりさせている。だがその指摘を雪は全く理解できず、自分の服装や靴を見直した。


「なにか変?」

「いやいやいや、なにかって、髪が濡れてますよ。湯あみでもされたのですか?」

「あ、あー…」


 やっと李珀が何を気にしているのか理解して、雪は困り顔で頭を掻いた。


「櫛で髪を梳かせなくて、水で濡らしたの。良い方法だと思ったのだけど…」

「外は雪が降るかもしれないってくらいに、冷えてるんですよ。そんなびしょ濡れでは風邪を引いてしまいます。私が護衛した日に体調を崩されては、綾になんて嫌みを言われるか。翠には命を狙われるかも…」

「そんな大袈裟な。」

「他人事だと思って──私が死んでも良いんですか?」

「いや、それは困るけど…」

「では、髪を乾かしますよ。ほら、戻ってください。」


 そう言って李珀は雪に部屋へ戻るように促す。

 そして、椅子に座らせると布を持ってきて、雪の髪を丁寧に乾かした。


「良いですか、櫛はこうやって髪の下の方から梳かしていくんですよ。少しずつ上に櫛を入れるようにして、頭の天辺から毛先まで梳かすのは最後です。」


 李珀は雪にも見えるように、耳近くの髪を梳かしてくれる。そして、一通り説明を終えると李珀は、徐に櫛を雪に手渡してきた。


「へ?」

「ほら、やってみてください。」


 普段、綾さんや翠は全てやってくれる。だから、今日も同じようにぼーっと見ていた雪は虚を突かれて、とぼけ顔で鏡に映る李珀を見た。


「やらないからできないんですよ。」

「え、でも…これから出掛けなきゃ」

「まだまだ時間はありますよ。問題ございません。」

「今日中にやりたいことがあるのよ。」

「はい、把握しております。」

「なら…」

「問題ございません。」


 はっきりと言いきる李珀に押し負けて、雪は櫛を受け取る。しばらく櫛と李珀を交互に見たが、李珀は全く折れるつもりはないようで、にこりと微笑むだけだった。

 仕方なく雪は反対側の髪を李珀がやったように梳かしていく。それを見て彼は満足そうに頷き、雪が髪を梳かし終わるまで静かに見守っていた。


「はい、良くできました。」


 子供を褒めるような口調で言われて、雪はなんとなくむず痒くて複雑な顔をする。


「では、続きは私が。」


 そう言って李珀は櫛を手にすると、手早い動作で雪の透き通った水縹色の長い髪を編んでいく。

 そして、あっという間に髪は結い上げられた。


「すごい。すごいわ!李珀。」

「お褒めに預かり光栄です。」

「こういうの得意だったの?えっなんで?どうして?」

「それは秘密です。」


 人差し指を口元に当てて、微笑めば女の子を虜にすること間違いなし。

 だけど、もちろんそんなもの雪には通用しない。


「ふうん…」


 あとで、綾さんにでも聞いてみよう。と、雪は気のない返事をしつつ、椅子から立ち上がった。


「じゃ、街に出かけましょ。」

「……はい、そうですね。」


 少しだけ気落ちした様子の李珀に気づかず、雪は明るい足取りで扉を開けて外に出る。

 いつもと違って、今日は雪華がいなくても、城内が慌ただしくなることはないので、気を揉むこともなく過ごせる。そう思えば雪の心は晴々とした。

 官吏たちも雪華の顔は知っていても、雪が同一人物だとは思っていない。親戚の子、という設定はあるが、気付かれたことなんて一度もなかった。


「今日は堂々と正門から街に出られるわ。」


 満面の笑みで正門を潜り街に出ると、雪は目一杯背伸びをして、心地よい空気を肺に取り込んだ。


「あまり羽目を外しすぎないでくださいね。」

「分かってるわよ。」


 失礼ね。と、腰に手を当てて頬を膨らます雪の姿は幼くて、李珀は口元が綻んでしまう。それがさらに雪を怒らせるのだが、李珀は困ったと言いつつ笑うのを止めなかった。


「もう、李珀といい翠といい、どうしてこうも私をからかうのを楽しがるのかなぁ。不敬罪で罰しようかしら。」

「そ、それはちょっと…」

「なら?」

「はい、お嬢様。下僕めはあなた様につき従います。」


 李珀は胸に手を当てて恭しく頭を下げる。その所作は完璧なのだが、雪は可笑しくなってクスクスと笑う。


「雪様?」

「コホン…では参りますよ。」


 笑いを堪えてそれっぽく言えば、楽しくなって二人の笑い声が正門の前で響いたのだった。

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