第3章 奴隷と思い出
更新:2021.10.20
雪がこの海羅島へとやって来たのは五歳の時。奴隷として売られ、この島へと送られてきた。
何も分からないまま、売られた先で使用人のようなことをしていた雪は、屋敷の掃除や食事の準備に追われる日々を送った。
時には壊れた屋敷の修繕なんかもして、役立つことで色々な仕事を任されるようになっていた。日々が忙しくて、気付いた時にはすでに日が暮れているなんてことは日常茶飯事。
小さなからだの雪にとって仕事は大変だったが、疲れること自体は雪にとって苦ではなかった。食事も与えてくれる。豪華ではないが、飢えて死ぬことはない。
それだけなら前の生活より余程良かった。いつ死ぬかも分からない過酷な状況下で生きてきた雪にとって、その日の食べ物の奪い合いで命を落とすなんてことは当たり前で、その食事が確保されていると言うのはものすごく幸せなことだった。
だけどそんな幸せな日は長く続かなかった。
雪は使用人ではなく奴隷として買われたのだ。
他の使用人とは違う。
ある日、使用人が寝静まった頃に雪は主人に呼び出された。
それが悪夢の始まりだ。
いつもニコニコして優しそうな顔をしていた主人が、変貌した。
雪に暴力を振るったのだ。殴る蹴るの繰り返しで、それはまるで子供が玩具で遊ぶように乱暴で、小さな雪の身体は簡単にふき飛んで壁や家具などに激突する。痛いと泣き叫べば、主人は子供のような笑顔で楽しそうに笑うのだ。
だからと思って、痛みを堪えて我慢すれば、つまらないと言って主人の気が晴れるまで殴られた。
最初のうちは数刻で終わり、他の使用人に手当てもしてもらえて、仕事を休むこともできたが、そのうちそれすら許されなくなっていった。
主人は雪を手当てしてくれる使用人たちに罰則を与えはじめ、仕事を休ませれば怒鳴り散らして、使用人にまで暴力を振るうようになった。使用人たちもとばっちりは受けたくないと、そのうち雪に構わなくなっていった。
日に日に悪夢のような時間は長くなり、陽が昇るまで殴られたことも少なくなかった。
怪我の具合も悪くなるばかりで、もう、どこが痛いのか雪は分からなくなっていた。身体中痛いのに、どこか他人事のように思えて、辛いということすら感じなくなっていた。
今考えれば、心が壊れていたのだと思う。
心身ともに弱り果てていた雪は、とうとう動けない状態になって、屋敷の物置小屋に打ち捨てられた。
あとは、死ぬのを待つだけだった。
「死にたくないな…」
そんな言葉が雪の口から無意識に零れた。こんな状況でも生きていたいのか…と、雪は自嘲する。
だけど目からは涙が溢れるのだ。
痛みを感じているのに、それを認識していない心が生きたいとだけ訴えている。腫れあがって指を曲げることすら出来なくなった手を、ゆっくりと扉の方に向けて伸ばそうとするが届かない。それでも、雪はボロボロになった身体を少しずつ動かして、扉の方へと一歩一歩と近づいた。
あともう少し…
そんな時だ。扉が勢いよく開かれる。雪は絶望した。主人が戻ってきたのかと、恐怖に顔が歪む。
太陽の眩しい光が差し込み目を細めて見ていれば、同じような格好をして武器を手にした男たちが入ってくるのが分かった。
だが腫れ上がった目蓋が邪魔をして、人の姿は分かってもその顔まで判断できない。
そのうちの一人が倒れている雪を見つけ、何やら外に向かって叫ぶと、他の男たちとは明らかに違う雰囲気をした大柄な男が部屋に入って来る。
それが雪と隆盛の出会いだった。
「…すまない。」
彼は動けない雪を見て、膝をつき屈むと頬にそっと手を当てる。おそらくは腫れ上がっているのだろう。触れられた感覚はなかった。
「すまない。」
隆盛は何度も繰り返す。彼はとても辛そうな顔をして、その瞳からは涙を流していた。
きっと隆盛が泣いているのを見たのは、あれが最初で最後かもしれない。
後で聞かされた話では、主人であった者は羅芯の官吏で、規律違反である奴隷の購入をして私用目的に使っていたのだそうだ。
それが公になり官職を辞したということだ。その者が実際のところ、どうなったかまでは雪にも分からない。
心身ともに弱り果てていた雪は、隆盛のもとで保護され療養することとなった。
そこでは皆が優しく、事ある毎に何か必要なものはないかとか、不便なことはないかとか、色々と聞かれた。一番雪が驚いたのは、食べたいものを聞かれた時だった。雪はあまりの衝撃に固まってしまい何も答えられず、結局隆盛が全て用意させたと言うことがあった。その時は泣きながら吐くまで食べてしまい、それ以降は毎日違うものを少しずつ出してくれるようになった。
そんな劇的に変化した生活を雪が送れるようになったのは全て隆盛のお蔭で、感謝してもしきれない。食べ物もそうだが、それ以外にも服や靴に髪飾りなどの装飾品まで。他には読み書きや教養など生活をするのに必要な知識も与えてくれた。
隆盛は四十代くらいに見える大柄な男で、初めは少し怖い印象だった。酷い言い方をすると賊の頭領をやっていてもおかしくない、野性的な雰囲気があるのだ。
それなのに女性には困らないのだろうなと思うような、整った顔立ちをしている。実際、隆盛は色んな女性と交流があったようだ。隆盛と一緒にお忍びで他国を訪問すると、綺麗なお姉さんが必ず声をかけてきていたのだから間違いないと雪は思っている。
それと隆盛は剣の腕も長けており、戦や郊外に出る妖獣退治に参加することもあったと聞いたことがある。だから腕に残る傷は生々しく、それが彼におそれを抱く要因の一つでもあった。
だけど実際の彼は、よく喋るし、よく笑う明るい性格で、とても優しかった。
雪という名前も彼がつけてくれたものだ。
「なぁ、雪。」
「何でしょうか?隆盛様」
「雪、様はいらないって言っているだろう。」
「で、でも…みんながそう呼んでるから。」
雪が戸惑いつつ言葉を返すと、隆盛はニカッと笑い雪の頭をわしゃわしゃとなでた。
「ここには誰もいないから良いんだよ。」
「綾さんがいるよ?」
「あいつは良いんだ。気にするな。」
隆盛がそう言うと、綾は困ったような顔をしてため息をつく。だけど、特に反論することもなく、彼女は黙々と書類の整理を続けていた。それが日常だったのだ。
「雪は海羅島に来てどのくらいになる?」
「分からない…でも、隆盛と会ってから一年は経ったと思う。」
「もうそんなに経つのか。ここには慣れたか?」
「え?うん。みんな色々なことを教えてくれるし、優しいし、ここ好きだよ。」
「そうか。」
隆盛はニッと笑ってから今度は雪の頭を優しくポンポンとなでる。隆盛にこうしてもらうのが、雪は好きだった。
「じゃあ、この島のことはもう分かるな?」
「う、うん。」
「説明してみろ。」
隆盛は時々こんな風に、問題を出してきた。それには意味があったのだと今の雪には分かる。もちろん、その時は気づきもしなかったけれど…。
気づいていたら、今とは違った未来になったかもしれないなと雪は思う。
「えっと、海羅島は島の中心に『羅芯』と呼ばれる都市があって、それを囲うように東西南北と四つの国に分けられてて…えっとぉ…」
「東は?」
「あっ、東は東刃。で、えっと…」
「何が盛んだ?」
「あっ、武道と武芸を極めていて、特に剣技がすごい国。」
「そうだな。あとは?」
「空南は農業が栄えている国で、島の食材は空南で取れた物が多くを占めてて…
それから、北織は衣類や装飾品で栄えている国で私が着ている衣も、そこで作られたものだって。
最後に、西は工西といって、工業で栄えていて、東刃の剣や空南の農耕具、北織の機織りなどを作っている国。
それで、これらの四つの国を束ねているのがこの羅芯。それで、羅芯には王様がいて、四つの国にもそれぞれ王様がいて…あれ?」
話をしているうちに混乱してしまい、雪は自信を無くした。慌てる雪に隆盛はニッと笑いかける。
「それで間違ってない。四つの国にいるのはそれぞれを統治する王で、羅芯の王弟・王妹と呼ばれている。
別に血が繋がっている訳ではないが、そういう呼び方をしているんだ。四つの国をさらに束ねるのが、この羅芯と言うわけだな。」
「…ごめんなさい。」
「なぜ謝る?」
「だって、うまく説明できなかったから。」
雪が落ち込んで俯くと隆盛は大きな手で、再び頭を優しくポンポンと叩く。それは温かくて心地が良くて、少しだけくすぐったい。
「そんなことはない。よくここまで覚えたと感心していたんだぞ。字もだいぶ読めるようになっているし、今は書く練習をしていたな?」
「はい。」
「雪は優秀だな。えらいぞ。」
そんな風にほめてもらえるようになったのは、ここに来て隆盛に出会ってからだ。それは彼だけではない。綾もそうだった。雪が何かをすると、褒めてくれた。悪いことをすれば叱ってもくれる。そして何より雪の荒んでいた心に潤いをくれたのは、雪のことが好きだと言ってくれる言葉だった。家族…というのは、こう言うものなのかなと雪は思った。
「焦る必要はない。しっかり学んでくれれば良い。」
「はい。」
「雪は学ぶのが好きか?」
「はい、色々なことを知るのは楽しいです。」
「そうか。それはお前の強みだな。」
「強み?」
「そうだ。自分が得意とすることをそう言うな。これは、生きていくうえで役立つ。そうだな…少なくともあと二つその強みを自分で考えて見つけてみなさい。」
そう言われて雪はうーん。と頭を捻らせて悩むが出てこなかった。すると、隆盛は声を出して笑う。
「すぐに見つかるものではない。もう少し時間をかけて考えてみると良い。どうしても見つからなければ、努力して作ったって良いんだ。」
「?」
この時、その意味は分からなかった。首をかしげると隆盛はさらに笑ってから、たくさん悩めと雪に言った。
「あっ、そうだ。今日はこいつを貰ってきたぞ。」
そう言って、隆盛が取り出したのは、絹のような糸が幾重にも巻かれた、繭のような形をした砂糖菓子だった。それは北織の名産なのだと隆盛は教えてくれた。
彼は雪が問題に答えると、答えが合っていても間違っていても、褒美だと言っていつもお菓子をくれていた。温かい…そんな心地良い自分の居場所が出来たのだと、雪は生まれて初めて心に灯りが灯ったのだった。
―――と、そんな過日の思い出に浸りながらも、手にしていた繭の菓子を口へと運ぶ。口の中で砂糖が溶けて、甘味が広がっていく。あっという間に、溶けてなくなってしまった。
雪はもう一つ取ろうと手を伸ばして、お菓子がほとんど残ってないことに気がつく。視線を上げれば、無表情の翠がそのお菓子を頬張っていた。
「美味しい?」
聞くと、無表情のままコクンと頷く。三つ四つと手にするあたり気に入ったのだろう。
一つだけもらって、残りは翠に譲る。代わりに雪はお茶を啜った。少し苦味のあるお茶は、今日の甘味の強いお菓子に丁度良く、強めの香りもまた良く合っていた。温かくて心がホッとなり、ため息が漏れる。
「ねぇ、翠。」
「…。」
「隆盛の手掛かり、何か入ってこない?」
「ない。」
少しだけ翠の反応は鈍かった。
「そっか」
「…すまない。」
手にしたお菓子を皿に置いてうつ向く姿は、叱られた子供のようにも見えなくない。
「翠が謝ることないよ。仕方ないことだから。それに、悪いのは居なくなっちゃった隆盛だし。」
二十になった雪は、昔、隆盛に言われていた強みをもう見つけていた。だが、このことを教えてくれた隆盛はここにいない。彼は三年前に雪たちを置いてどこかへ行ってしまったのだ。
もちろん、探してはいるのだが、城内では死んだことにされているため、大規模な捜索ができない。
―彼はこの羅芯の王だった。
だが隆盛はある日突然、雪を次の王に推挙して姿を消したのだ。
突然王様が居なくなり国は平静を失った。雪も隆盛の裏切りに悲嘆していたが、それを支えてくれたのは翠と綾だ。二人のお陰で、今こうして王様を務めている。
王様になると覚悟を決めた日から、雪華という役を演じている。それを知る人は少ない。
雪みたいに幼い子供が全土を統治するためには、冷酷無慈悲の王を演じるしかなかったのだ。
“…隆盛がいたら褒めてくれたのかな。”
どこにいるのか分からない、前王に雪は想いを馳せる。窓から流れ込んでくる暖かい風を感じて、雪は窓の外に目を向けた。外では木々の花が咲き始め、花の季節の訪れを告げていた。
これから暖かくなる時期に入る。それは田畑の時期とも呼ばれ、作物を育てる時期に入ることを示している。
“空南は大丈夫だろうか…”
暖かな空を眺めながら、現実に引き戻された雪はこれからの事を思案するのだった。