第2章 化粧と甘芋
更新:2022.10.18
「さすが、伝説の雪華ですね。」
後ろからかかる女の声に、雪華は前を向いたまま首をかしげる。鏡の中では雪華と呼ばれた麗人が、同じように首をかしげている。
「それは褒めてるの?」
「もちろんですよ。雪華様。見事に使者を凍てつかせました。」
雪華が聞き返すと、女は満足そうな笑顔で頷いた。
伝説の雪華とは、この海羅島にあるお伽噺だった。昔、雪華という名君がこの島にいたと言う話で、その美貌は男女とも魅了する程だと言われている。
そして彼は決して優しいだけの王ではなく、冷酷無慈悲と言われる程、人々に畏怖の念を抱かせるような人物でもあった。
そんな名君になりたいという思いから、王になる際に同じ名前をもらったのだ。
女は雪華をからかって楽しんでいるのだ。そんな女を雪華が鏡越しにジト目で見ていたら、鏡の中で視線が合ってお互いに笑ってしまう。
そんな風に気軽に王と接する女の名前は綾。雪華よりも年上で笑顔が素敵なお姉さん的な存在で、まっすぐ長い黒髪と紅桔梗色の瞳にすらりとした体つきは、大人の女性らしい。
雪華と出会った頃から変わらない姿なので、彼女が何歳なのかは雪華も知らない。見た目は二十代くらいに見えるが、おそらくもっと上なのだろう。普段は雪華の補佐をしているが、同時に世話係でもあった。
「お勤めは終わったんだから、もう雪華じゃないよ。綾さん。」
「そうでしたね、雪。」
雪とは雪華が王になる前の真の名前だった。
雪降る日に拾ったからだと、名付け親はそう教えてくれた。
綾が雪の肩をポンと軽く叩く。
これがいつもの終わったという合図だった。鏡には先程まで映っていた雪華の姿はなく、雪華とは似ても似つかない幼い少女が映っている。
髪や瞳の色は雪華と同じだが、綾みたいな艶麗さはなく、ましてや王様らしさなど微塵もなかった。
そんな鏡に映る自分を見て、雪は落胆のため息が出てしまう。
"綾さんの化粧ってすごい。こんな私を才色兼備の雪華に仕立て上げるのだから。"
雪がそう思って鏡を見ていると、再び綾と視線が合う。彼女の口元は先ほどと同じように弧を描いていたが、その目はもう笑っていなかった。綺麗な顔立ちのせいなのか、目が笑っていないと彼女の顔は怖く感じる。
「さて、次は本日の報告書を作成していただきますよ。雪。」
「…はい。」
この人に逆らってはいけない。雪の第六感がそう警鐘を鳴らしている。だから逆らわず、いつも通りに机の前に座り、適当に紙を出して筆を手に取る。
紙に書く内容を考え始めるが、あの肉厚そうな丸い背中が印象的だったと言うことしか雪は思い出せない。確かに色々話しはしたが、細かいことまで覚えていないし、どうまとめたら良いのか、文章を書くのが苦手な雪には思いつかなかった。
だから今日も諦め、気付かれないようにそっと筆を机に置く。
「雪?」
少し離れた場所で作業していたから気付かれないと思ったのに、今日もすぐ綾に見つかってしまう。
“背中にも目が付いているのだろうか…”と、雪が思えば、綾がこちらに向かってくる。
白紙の紙を見て綾は目を吊り上げた。
「ゆーきー!!」
怒られても困ると雪は思う。頑張っても苦手なものは苦手なのだと目で訴えるが、もちろん無駄である。
怖い顔で見てくる綾は、人を喰うと言われる妖獣よりも怖い。
“これでもこの国の王様なのに…”と、自信を失くし雪はしょんぼりと肩を落とす。
「まとまらないの…今日はもう…」
「今日もでしょ!」
まとまらないのだと不満を漏らせば、綾の雷が落ちる。今日も説教が始まるかと雪は身構えたが、どうやら今日は綾が諦めたようで、ため息をつくと何もない天井を見た。
「翠!」
綾の声に何もないはずの天井から、音もなく一人の少年が姿を現す。雪よりも少しだけ身長が高い同じ年頃の少年。
だけど切れ長の目が鋭く、年相応には見えない。大人っぽいという言葉で済ませてしまえば、それまでなのかもしれないが、彼の場合、愛想が無さすぎるのだ。それは人生で幾多の死線を越えてきた者の顔。少なくとも雪はそう感じている。
それに加えて翠は目立たないような黒衣を着ていて、瞳以外が全身真っ黒で余計に鋭い黄金の瞳が際立っている。
そんなことを雪が思っていると、その美しくも鋭利な黄金色の瞳がこちらを向いていることに気がつく。彼の視線は大人ですら物怖じする程なのだが、雪には彼が”またか”と呆れたように見ていると思った。
「翠、悪いけどよろしく頼むわ。」
綾の言葉に頷いた翠は雪の隣に来て、彼女が投げだした筆を取ると報告書を書き始めた。さらさらと筆が進む。どこかで、先程の男との会話を聞いていたのだろう。雪に何一つ聞くことなく、どんどんと白紙が文字で埋まっていった。
そんな翠の横顔を眺めていて雪は思う。退屈だと。
「すーい。」
「…。」
「翠!」
「…。」
「ねぇ、翠さーん。」
「翠」
おっ、反応があった。と、雪の顔が明るくなる。表情も視線も全く動いてなくても、人前でほとんど感情を表に出さない翠にはこれでも十分に珍しい。
基本的には頷いたり首を振ったりで完結しようとするから、言葉での会話が少ない。
昔はこんなんじゃなかったんだけどなぁ…なんて雪は思うが、当の本人はそんなこと気にした様子もなく、黙々と報告書の作成に勤しんでいた。
「あら?もう終わったの。」
退屈になって船を漕いでいた雪は、移動した翠に気が付かなかった。綾の声にやっと雪が目を覚ますと、翠は綾に完成した報告書を渡していた。
本来の翠の仕事は隠密。そのため、足音なんてしないし、気配もない。そう言うことに疎い雪は、彼の動きに気付いていないことが多いと思う。普段は隠れて雪の護衛をしているはずだが、見つけられた試しがない。
「相変わらずの速さね。助かるわ。」
そう言って、渡された報告書に目を通す綾。
遠目から見ても整った字で書かれた報告書は、内容を読まずともその出来が分かる。
それに雪はいつも思うのだが、彼の字は子供とは思えないほどの達筆で、報告の内容も簡潔に書かれていて分かりやすい。
翠に出来ないことなんてないのではないだろうか。と、思う程に翠は器用に何でもこなした。雪はそれが自慢であり、少しだけ悔しくもあった。雪も器用な方ではあったが、彼に及ぶ程ではない。翠は雪にとって弟のような存在であり、好敵手でもあるのだ。
「ありがとう、翠。」
お礼を言われて、雪の方を振り返った翠は少しだけ満足気に見える。
雪は機微な変化によく気づく。それは雪の自慢できることの一つと言えた。
そんな満足そうに見える翠は、報告書を作成するという業務外の役目を終えて、持ち場に戻ろうとする。それを雪の言葉が引き止めた。
「お菓子があるから、一緒にお茶にしよ?」
「…。」
翠はコクンと頷くと、軽い足取りでこちらに戻って来て椅子に腰かける。
特に楽しいおしゃべりをする訳でもないのだが、一人じゃないことが嬉しくて雪はその感情を隠すことなく素直に翠へと向けた。
だけど翠はふいっと視線をそらせると、窓の外へと目を移す。
少しして、綾がお茶とお菓子を運んでくる。今日のお茶は鮮やかな紅色で、心を落ち着かせてくれる香りが広がった。
お菓子は南方の名産で芋を使った焼き菓子。口に入れるとほろほろと崩れ、甘い芋の香りが口いっぱいに広がった。
「こんな手土産まで持ってきて、どこが貧困なんだろうね?」
「演技が下手すぎる。」
翠の言葉に雪はドキリとする。
「違う。」
「違う?」
翠の言葉に頭を捻る。
「雪の話じゃない。」
少し遅れて焼き豚のような背中をした、甲高い声の男の顔が浮かんだ。
「空南の使者のこと?」
翠は頷いてから、お菓子を口に頬張った。感情を感じられない無表情の翠は、まるで動く人形のようだった。綺麗な顔立ちだからそう思うのだが、それを言うと翠が拗ねるので言葉にはしない。そんな翠を眺めながら、雪は空南のことを考える。
空南が本当に貧困だったら、あんな服はまず着て来れないだろう。こんなお菓子だって用意してる場合じゃない。
つまり官吏はそうする余裕があるということだ。
それでもわざわざ羅芯まで助けを求めるのだから、民は貧困なのかもしれない。あんな官吏が外交として来るような空南に、民を任せておくのは危いとも思う。
官吏の無能さを知って、雪の考えはどんどんと不安な方向に向かう。
「見て来るか?」
そんな雪の不安を読み取ったのか、翠が小首を傾げて尋ねてくれる。聞いてくれるのは嬉しいが、彼の言葉はいつも足りないと雪は思う。
今のは自分が空南を見て来ようか?という意味だろう。いくら長い付き合いで慣れているとは言え、彼の言葉は時々理解できないことがある。
「…うーん、どうしようか。」
雪は悩んでいても、お菓子を食べる手は止めない。モグモグと口を動かしつつ、頭の中では空南についての計画を立てている。
「頼んだらどうですか?」
「…綾さんもそう思う?」
「はい。冷酷無慈悲と言われる羅芯の王に、わざわざ助けを求めるのですから、民の状況は良くないのかもしれません。」
書類をまとめていた綾が口を挟んでまでそう言うのだから、そうするべきなのだろうけど、と思いながらも冷酷無慈悲と言われたことが心外だと雪は心の片隅で思った。
確かに雪華は怖い。自分でもそう思っているのだから間違いない。だけど、これは国のために必要であるし、官吏に厳しいのはその下にいる民のため。
そこまで思考して雪は考えを改める。民のためを思うなら、自ら行くのが筋ではないか、と。
翠に行かせれば情報はすぐに手に入るが、即刻の解決は望めないだろう。ならば一層のこと、自分の目で見た方が良い。
「よしっ!決めた!」
雪の言葉に翠が分かったと頷く。
「あっ、違う違う。」
「…雪の護衛じゃないのか?」
「今、私…考えていたことを口にした?」
問いに翠は首を左右にゆっくりと振った。
「分かりやすい。」
顔に出ているのだろうか?と、考えていたら今度は縦に首を振る翠。
何でもお見通しだと言われているようで、なんだかそれは自分が劣っているみたいに思えて、雪は少し悔しく感じた。弟に負けた気分という言葉が近いだろう。
翠は人の表情から簡単に読心する。実は心を本当に読めるのでは?と、疑いたくなるくらい何でもお見通しなのだ。それに比べて雪ができるのは、翠の感情を読み取るくらい。裏表のある人間の感情までは、すぐに読み取ることが難しい。それが無性に悔しいと思うのだ。
だけど翠だって人間なのだから、本当に人の心が読めるはずもない。彼は人をよく観察し、相手の気持ちを読み取るのを強みとしているのだと。雪だってそのくらい分かっている。だけど、劣等感を抱かずにはいられなかった。
雪がなにも反応しないからか、珍しく困ったような顔をする翠は、いつもの大人びた彼とは違って幼く見える。
「翠、可愛いね。」
「…答えになってない。」
思わず言葉にしてしまうと、翠は本当に拗ねた子供のような雰囲気になる。
いつもの抑揚のない聞き慣れた声色なのだが、本当に少しだけ翠から不満そうな色を感じて、雪は勝ち誇った笑顔を向けた。
「…」
翠は何も言わなかったが、不機嫌になったのは明らかだった。やり過ぎたかと雪は苦笑し謝ってから言葉を続ける。
「とりあえず、自分の目で見てみたいから一緒に行きましょう。空南に。」
翠が頷き、今度こそ話がまとまったと満足してニッと笑う。だけどそれは長く続かない。すぐに後ろが静かなことに気がついて、ハッとなり背筋を凍らせた。
「ゆーきー。そう言うことは急に決めないようにって、いつも言ってるよね?私が大変になるの分かってるかな?」
静かにでも確実に怒気の混ざった声が聞こえる。あまりの怖さに雪は振り返ることが出来なかった。
結局、反対する綾を押し切って、空南へと向かうことに決めた雪が、その後こってり綾に説教されたのは言うまでもない。