第1章 雪華と焼豚
更新:2022.5.18
しんと静まり返った広間に、男にしては甲高い声が響き渡った。
そこは羅芯国の王の間。天井が高く広々としていて、壁際に置かれた金や銀の装飾品はその場所に相応しく部屋を華やかにしている。良い意味で緊張感をもたらす雰囲気があるのだが、今はその全てをその男の声が台無しにしていた。
男は平伏して玉座に座る人物に向けて、自国のことを延々と訴えかけている。必死な様子からして、国が何らかの危機的状況に陥っているのだと伝わってくる。しかも、わざわざ最高位である羅芯の王にまで助けを求めるのだから、由々しき事態なのだろう。
だが、その玉座に座っている羅芯の王は眉間にシワを寄せて、つんざくような男の声にうんざりしていた。
彼女の名は雪華。───羅芯国の王である。
齢二十とまだ幼さを残していてもおかしくない年頃なのだが、氷のように冷たい印象を与える切れ長の目と、海のような瑠璃色の瞳はそれを感じさせない。
透き通った水縹色の長い髪を持つ雪華は艶やかで、見た者を虜にすると言われる程の美しさを持っていた。
だが、今はその美しさが台無しだと言っても差し支えない程に、退屈そうな顔をしている。
肘をつき手の甲に顎を乗せて、よくしゃべる男の背中を眺めながら、雪華はあくびを噛み殺す。
"まるで焼き豚のような背中ね…。"
そんな雪華の様子になど全く気づいていない男の丸い背中は、服がはち切れそうな程に肉が貯えられていた。どれだけ食べたらこんなに太れるのかと雪華は考えてみる。朝から晩まで好きなだけ食べて、お菓子も目一杯食べて、ごろごろと身体を動かさずにいたらこうなるかもしれないと思ったら、雪華はなんだか急にお腹が空いてきて、お腹を手で押さえた。
“お菓子が食べたいなぁ…”
お腹にもう少しだから我慢してね。と言い聞かせてから、早く話が終わらないかと男に視線を戻せば、嬉しいことに丁度話に終わりが見えてきた。
「ですからして、我が空南では貧困に飢え苦しむ民であふれているのです。」
一通り話を終えた男は、満足気な様子で雪華へ上目遣いを使う。何としても助けてもらいたい男はそのことを目で訴えている。
だが、雪華の目に映るのは丸い背中。貧困に飢え苦しむという言葉があまりにも不似合いで、いまいちこの男が言う国の危機が伝わってこないのだ。
こちらに向いている顔も脂肪をしっかりと蓄えており、パンパンに腫れ上がっているし、血色も良くて男がまともな食事をしていることが想像できた。
「ほう…そんなにも南の地は苦しんでいるのか?」
雪華は手に乗せていた顎を持ち上げて、気だるくなった身体を起こし姿勢を正した。
どうやらその動きで、関心を持ってもらえたと男は思ったのだろう。男の表情が明るくなり、頷くように頭を地につけて平伏する。
勘違いも甚だしいと思いながらも、男のはち切れそうな服を見て雪華は薄笑いを浮かべた。
「では、お前のその服を売ってはどうだ?」
「え…?」
予想していた答えと明らかに違っていたらしく、顔を上げた男は見て分かるくらい間の抜けた顔を雪華に向けた。
そんな男が着ている物は絹でないものの、質の良い綿であしらわれており、金糸の飾りが豪華であった。
「私は商人ではないが、お前の着ている服が高値で売れることくらいは分かる。」
「…。」
「間違っているか?」
「い、いいえ。我が王が間違っているなどと…そのようなことは決してございません。
確かに普通の物よりは上等です。ですがそれは王の御前に相応しくあるようにと…。」
「私のせいでお前は無理をして豪華な服を着たと言うのか?」
「い、いえ!決してそんなことは……」
その後が続かず、男の口はごにょごにょと動いて見えるが、何を言っているのか雪華には聞こえない。
「なんだ、申してみよ。」
男のそんな態度がまどろっこしくて、雪華は少し強い口調になった。すると男は意を決したのか、頭を床に押し付けるように平伏すると口を開いた。
「畏れながら、陛下。私がこの服を一着売って得られる金銭では、救えて民が数人というところでしょう。
我ら空南の民は何千万とおります。とても足りるものではございません。」
「ならば、空南にいる官職にある者たちの、服や装飾でも売れば良かろう?
それでも足りなければ、食事を減らし民に分け与えれば良い。」
「そ、それでは我らの生活が!」
感情が高ぶり男の声がさらに高くなる。つんざくような耳の痛みに雪華は顔をしかめて、わざと大きくため息をつき怒鳴りたい気持ちを抑え込む。
「…空南では昨年の不作で食べるものに困っていると言うが、国庫はどうした?…確か、一昨年は豊作であったな。民から田畑の作物を徴収しているだろう。」
「そ、それは…」
「なんだ?」
「…尽きました。」
開いた口が塞がらないとはこのような時に使うのだろうなと、雪華は思った。
国庫が底を尽くなど、何年も不作が続かない限りあり得ない話だった。
豊作の時に、保存のできる食材や金などを民から多めに徴収して国庫に貯めておき、不作や何か問題が生じた時に国庫から支給する。それは二度同じ季節を迎えても、足りる量はあるはずなのだ。―――それなのに、その国庫が底をつきたとこの男は言った。
呆れて言葉も出てこない雪華を、男は落ち着かない様子で伺っている。このまま黙っていても話は進まず時間だけが無駄になると雪華は考えて、仕方なく口を開いた。
「……民に課した税で私腹を肥やし、国庫も無能な官吏どもで使い果たしたか。」
「け、決してそのようなことは…」
「お前のその高値の服も税で買ったものであろう。官吏の給金は、民の税から支払われているからな。」
「…。」
図星だったのだろう。男は何も言葉を返せず、平伏したまま動けないでいる。
「この件は、お前たち官吏やその王の問題ではないか。それを羅芯の王に助けを乞うとは…空南は恥と言うものを知らんのか?」
「そ、そんなことは!」
焦りに勢いよく上げられた額には汗が滲んでいる。
「ならなぜ、自国の問題を私に話せるのか?」
「そ、それは…」
狼狽する男の態度に、雪華が玉座から立ち上がった。その顔は情という言葉が一切通用しない、感情のない人形のようだった。
「自分たちで撒いた種であろう。自国の問題は自らの手で片付けるよう、お前の主に伝えよ。これ以上、戯言を抜かすならこの場でその舌を切り落とす。」
「…はっはいぃ!」
冗談などでは決してないと、雪華の顔が言っているのはさすがに理解できたのだろう。男は慌てた様子で平伏してから、その場を辞したのだった。