第6章 記憶と孤独
更新:2021.10.20
「じゃあ、今日からここが雪の部屋だ。」
夕餉を王室で食べた後、隆盛にそう言われて案内された部屋は、王室から一番近い部屋だった。
おそらく、王に使える者の寝泊まりする部屋なのだろう。造りは簡素で家具も最低限しかない。
隆盛は必要なものがあれば揃えると言ってくれたが、雪はこれでちょうど良いと思った。
広すぎない部屋で、いつもの隆盛の部屋よりも居心地が良いかもしれないと感じた。あそこは王の部屋にふさわしく、金や銀の調度品で揃えられており、目がチカチカするのだ。
隆盛も自室をあまり気に入ってはいないようで、いつも綾にもっと質素にして欲しいと頼んでは、王なのですから注目があります。と、言われてあしらわれていた。
「無理はするなよ。何かあれば、そこにある呼び鈴を鳴らしなさい。」
隆盛の視線を追うと、寝台の横に小さな鐘のようなものが置いてある。振ってみるが特に音が聞こえなかった。普通のものなら高い音が響いて、使用人を呼ぶのだが、これは違う。
これは特殊な加工がされているのだろう。その音は訓練している者にしか聞き分けられず、ある程度の距離があっても聞き取ることができるものだった。
恐らくは隆盛の元にいる隠密が駆けつけてくれるのだろうと、雪は思う。
「分かった。…大丈夫。」
雪は自分に言い聞かせるように頷いた。だが雪はそれよりも、翠の方が何やら思い詰めた様に見えて心配だった。だが、かける言葉が見つからない。こういう時どうしたら良いのかと雪は答えが見つからなかった。
そうこう雪が悩んでいるうちに、隆盛と翠は部屋を出て行ってしまい一人残された。自室なので残されたという表現は正しくないかもしれないが、雪の気持ちで言うならその表現が正しかった。静かになるとやはり寂しさは感じる。普段なら眠りにつくまで、隆盛と話をしていたから余計かもしれない。と、雪は感じる。
部屋には二つの明かりが灯っていた。隆盛が心配してニつも置いてくれたから、広くない部屋には明るすぎるくらいかもしれないと雪は思って苦笑する。
部屋に置かれた明かりは、少し特殊な形状をしている。本来なら、火の明かりは点けっぱなしにして寝るのは危険なため、必ず消して寝るのだが、隆盛が特注して硝子製の提燈を作ってくれたのだ。これなら倒れても硝子の中だけで、他に燃え移る事はない。
火が燃え続けるには空気が必要なのだけど、これは変わった構造で空気を取り込めるようになっている。そこから火が外に燃え移る事は無いということだったが、雪にもその仕組みはよく分かっていない。
今日はよく歩き回ったからだろうかなんだか瞼が重いなと、雪は目を擦る。これならすんなり寝られるのではないかと、寝台の上に寝転がった。
明かりは一つだけ点けたままにした。そんな火を眺めていたら、うとうととしてくる。揺らめくが段々光を失くすように重たい瞼が落ち、雪は眠りについた。
「どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!!ふざけるなっ!!」
突然聞こえる声に雪は慌てて飛び起きると、目の前に映るのは見覚えのある人物だった。
もうここにいるはずのないその人物に、雪は恐怖した。男は何か恨み言を呟き、雪の首に手を当てている。その目はどこを見ているのか分からず正気ではなかった。徐々に男が手に力を込めて首が絞まり、雪は息苦しくなる。
「ご…ご主人様…お…おやめ…ください。」
「口答えするな!」
さらに手に力が入り、雪の首を締め上げる。声が出せなくなり、呼吸がうまくできなくて苦しくなる。いつの間に殴られていたのか、腕には痣が見えた。足やお腹もひどく痛む。抵抗して動けば激痛が走った。
額には冷や汗が浮かび、恐怖で目からは涙がこぼれる。手は震えてしまい、男の手を振り解こうとするがうまくいかない。
なにかないかと視線だけを左右に動かすと、呼び鈴が目に入った。慌てて掴もうとするが届かず、まるで水の中でもがいているかの様な感覚だった。それでも必死に手を伸ばしてやっとの思いで、呼び鈴を手にした。だけど手に力がら入らなくて、そのまま台から落としてしまった。
「…りゅ…せ…い…助けて…」
「…い…おい!」
遠退きそうになる意識の中で、呼び掛ける声に目が覚める。すると目の前にいたはずの男は消え、何もない天井が映っている。あれだけ痛かったはずの痛みも消えて雪は戸惑う。
全てが夢だったのかとも思ったが、手が震え、息も苦しく呼吸が荒い。額からは大量の汗がにじみ出て、手足も汗ばんでいた。なのに身体は氷のように冷たく、寒気すら覚えている。
「雪。大丈夫か?」
声に雪が横へと視線を動かせば、翠が心配そうにこちらを見ている。そこで雪はやっと自分がまた発作を起こしたのだと理解した。
「…い。」
雪は翠の名前を呼ぶが声にならない。無理に出そうとすれば、息苦しくて仕方がなかった。
「ゆっくり深く息をしろ。」
翠に言われた通りにゆっくりと呼吸をしようと試みるが、喉がぜーぜーと音を立て痛み咳き込んでしまう。
「一気に吸おうとするな。少しずつ息を吸うんだ。」
翠はいつもと変わらない無感情な声なのに、雪はそれを心地よいと感じていた。乱れた心を落ち着かせてくれる。とてもゆっくりとだったが、雪の呼吸は徐々に落ち着きを取り戻していった。
「…翠。身体を起こしたい。」
雪がまだ少し震える手を伸ばせば、翠はその手を取った。反対の手で雪の背中を支えて、ゆっくりと起こしてくれる。翠の手や身体がとても温かく感じて、雪はホッとため息が漏れた。
身体を起こしてくれた翠が離れようとするのを、雪は手で掴んで止めた。離れるのが急に怖くなったのだ。そのまま翠の首元に腕を回してしがみつけば、翠の息づかいが耳元に聞こえる。
「ご、ごめんっ」
我に返った雪が慌てて手を離そうとすれば、翠がそれを引き留めた。背中に回された手に力が入り、雪の身体を抱き締めている。
「大丈夫。そばにいるから、心配するな。」
とても優しい声が耳に届いて安堵の息をつけば、涙がポロポロとこぼれて雪の頬を伝っていく。翠は離れず雪の背中をポンポンと軽く叩いてくれる。それは雪の緊張していた心を解してくれる。
こんなに泣いたのはいつ以来だろうかと思う程に、雪は声をあげて泣いたのだった。
気付けば泣いてそのまま寝てしまったようで、雪は寝台の上で目を覚ます。眠りに落ちる前の記憶を徐々に思い出して、少し頬を赤く染めながらも付き添ってくれた人物を探せば、寝台に背中を預けて座る翠が顔だけをこちらに向けていた。
しかも、ずっと彼の手を握って寝ていたのだと握っていた手を見て、雪は慌ててその手を離して恥ずかしさに俯いた。両手で自分の熱くなった頬に触れる。涙や鼻水やらで顔はかさついているし、目も腫れているのが分かった。
「ご、ごめんなさいっ。」
「もう、大丈夫か?」
翠がこちらを覗き込むように見るので、雪は視線を合わせられずにうつむいたまま頷いた。
「うん、大丈夫かな。…ありがとう。」
「そうか。」
翠がどんな顔をしているのか雪には分からなかったが、ぐいっと押し付けるように濡れた手拭いを渡してきたので、もしかしたらそれは照れ隠しなのかもしれないと雪はそんな風に感じ取った。
手渡された手拭いはまだ温かく冷えていた手をじんわりと暖めてくれた。その手拭いを広げて、顔を拭おうとすれば翠にその手を止められる。
「腫れが広がるから、拭ったらダメだ。」
「えっ?」
「押し当てるようにした方が良い。毒や傷でも同じだ。擦ると広がる。」
言われた通り押し当てるようにして、顔の涙やらを拭き取ったら少し心がスッキリとした気分になる。
「そう言えば、どうして私の部屋にいたの?」
雪が目に当てていた手拭いを少し下ろして、翠を見つめて尋ねると珍しく彼が慌てた様子を見せる。
「ああ、隆盛にでも頼まれたの?」
「いや、通りかかったら鈴の音が聞こえた。」
ああ。と雪は机に置かれた呼び鈴を見る。これは特殊な音色なのにどうして聞こえたのだろうかと、頭のどこかで疑問に思ったが何となく聞いてはいけないような気がして雪はそれ以上は質問しなかった。
「ねぇ、翠。隆盛には…」
「…言わない。」
代わりに心配だったことを聞けば、翠は言わないと言ってくれる。隆盛に心配かけたくないのだ。もしかしたら、隆盛の隠密には気付かれているかもしれないが、自分から発作のことを伝えるのは嫌だと思ったのだ。きっと隆盛はできないと雪が言えば、部屋を戻してくれるだろう。だけどそれは自分のためにならないと雪自信も分かっているのだ。
「手伝ってやるよ。」
翠の言葉はあまりにも不意打ち過ぎて、一瞬雪は理解できなかった。
「発作がなくなるまでそばにいてやる。」
理解されていないと分かったのか翠は言葉を付け足した。それは雪にとってとても心強い言葉で、とても嬉しかった。
「ありがとう。」
「…あまり無理はするなよ。」
翠がそう言えば、雪はうんと嬉しそうに頷いたのだった。
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