番外編 翠と王
これは、1部 第6章の後のお話です。
蓮季の屋敷から逃げるように出てきた雪たちは、晴嵐を出て城へ戻るための馬車に乗り込んだ。御者台に座る翠の隣に、雪も腰をかける。
馬車に乗り込むまでに翠の手当てをしたかったのだが、何やらあとをつけられていると翠に言われて、それを撒きながら移動したために、結局ここまで手当てを出来ずにいた。
「寒いから後ろに戻った方が良い。」
「大丈夫よ。それより、腕を見せてちょうだい。」
「…。」
「翠。」
渋々といった様子で、腕を目の前に突き出した翠。その腕は腫れ上り、切り裂かれた皮膚からは血が滲んでいた。
「ねえ、どこかで休憩しない?」
「必要ない。」
「私が休みたいの。ダメかな?」
じっと翠を見つめると、彼は諦めたようにため息をついた。
「少し先に川がある。」
「そこで良いわ。」
翠が馬車を止めたのは、太陽が山に沈む頃。
高い木々に囲まれた森の道は夕日に照らされることなく、馬車を隠してくれる。
馬車から降りて森の中を少し歩くと、水の流れる音が聞こえてきた。小川も見えてくる。
雪は小走りになって川の前に行くと、水を手ですくった。ひんやりとした水が気持ちいい。
汗や泥まみれの顔を水で洗い流してから、水をすくって口に運ぶ。冷たい水は乾いたのどを潤してくれる。とても美味しかった。
ここまで緊張しっぱなしで走ったから喉がからからだったのだ。雪は満足すると、後ろに控えていた翠を手招きする。
「さっ、翠。腕を出してちょーだい。」
やっぱりか。という顔を向ける翠だが、渋々こちらにやって来る。だけど、腕は出してこない。仕方なく雪は無理やり彼の腕を取った。
まず傷口を川の水で洗った。痛そうだけど、汚れを水で落とさないと病に罹ることもあるのだ。翠は顔色一つ変えずに、黙ったまま大人しくしている。
きれいに洗い終えたら、ここに来る途中で見つけた薬草を袋から取り出し、手の中で握りつぶして揉み込む。緑色の粘りのある汁が出てくる。これが傷に効くのだ。
「滲みると思うけど、我慢してね。」
翠の腕の傷に塗り込む。さすがに痛いのだろう。眉間に皺を寄せる翠。だけど何も言わないあたりが彼らしい。
あとは布で巻くだけなのだが、調度良い布がなかったことを思い出す。何かないかと考えて思い出し、服を探る。
"確かこの辺に…"
雪が服の中から引っ張り出したのは一枚の手拭い。花の刺繍がされている。ちょっと可愛くて申し訳ないけど、他にないのだから仕方ない。諦めてもらうことにする。
遠慮なくその手拭いを翠の手当のために使った。手拭いを巻かれる間、翠は黙ったままじっとその様子を眺めていた。
"こんなん見てて楽しいのかな?うーん。"
「勉強になる。」
「あれ?翠に薬草の使い方、教えなかったっけ?」
「教わってる。」
なら何故?と悩んでいると翠は続けて答えてくれる。
「実践はあまり見ない。」
「なるほどね。……覚えた?」
コクンと頷く翠。
「それなら良かった。」
雪は川の向こう側に視線を移す。静かな沈黙が訪れて、水と風の音が世界を支配した。
雪の心はそわそわとして落ち着かない。
「…ごめんね。」
言おうかどうか悩んだ末に、雪は気づくとそう口にしていた。
「必要はない。」
返ってくるのはそんな素っ気ない言葉。
「え?」
「雪が、謝る必要はない。これは、俺の役目だ。」
「…王を守る?」
コクンと頷く翠は、確かに昔、そんなことを言ったことがある。あの時の王は隆盛だったけれど…。
陽射しが届きにくい森は少し薄暗い。だけど、それは神静で、美しかった。そんな森に目を移す雪はとても孤独な気持ちになっていた。
近くにいるのに、心だけ離れているような感覚。王となったから覚悟はしていたが、やはり寂しいものだなと思う。もう、昔のように近い距離には、立たせてもらえないのだろうか。
そんな、どうしようもできないことを思いながら、雪は翠と並んで森を少しの間、眺めていた。




