第10章 民と官吏
更新:2022.10.19
「私の言うことさえ聞いていれば良いものを…」
「蓮季?」
うつ向いた蓮季の顔を覗き込もうとする黎夕。
そんな無防備な黎夕を雪は思い切り引いて下がらせた。
ガキーン!
金属同士がぶつかる。嫌な音が広場に響き渡った。
周りにいた者達が呆気に取られている中、蓮季が手にした短剣は翠によって叩き落とされた。
剣の勢いに負けて蓮季は数歩後ろに下がり、翠はすぐに雪の前に来て庇うような体勢をとる。
雪が引いた黎夕はといえば、勢いが良過ぎたせいで尻餅をついてしまっていた。そんな彼に手を貸して起こすのは綾で、彼女は黎夕を後ろに下がらせていた。
「お、お前が悪いのだ!私の言うことを聞いてさえいれば、死ぬこともなかったのだッ!」
「蓮季…」
喚き散らす蓮季を悲しむような、哀れむような目で黎夕は見つめている。
「あの世で悔やむが良い!さあ、兵たちここにいるもの達を捕らえるのだ!抵抗する者は殺しても構わんッ!!」
蓮季の言葉に黙って見守っていた兵士達は戸惑いを見せるが、彼らも弱味を握られているのか、手にした武器を構えた。
「落ちぶれたものだな…」
「何だと?」
「落ちぶれたものだと言ったのだ。蓮季。」
雪の言葉に息を飲んだのは黎夕だろう。
「死に損ないの愚民が、誰に向かって口を聞いている!」
「お前こそ、誰に向かってその口を利くのだ?」
雪が両手で外套のフードを下ろせば、蓮季は発作でも起こしたかのような顔になる。兵士達もハッとなり、武器を捨ててその場に平伏した。
その場に立ち尽くすのは、驚いている蓮季と雪華の顔を知らない空南の民だけ。
「ま、まさか…あ、あり得ない…な、なぜ?」
「先程までの威勢はどうした?雪華が相手では、声もでないのか?情けない。」
雪華の言葉に反応したのは石楠だった。慌ててこちらに向き直り平伏する。隣で呆然としていた春鈴の服を引いて自分に倣わせた。
それを雪華は目の端で捉えて、この状況でも物事の判断が出来るのだと感心していた。
そこでやっと蓮季が声をあげる。ガクガクと震える足で、なんとか立っている姿は小鹿のようで頼りない。
「ど、どう…どうして!羅芯の王がこんな場所におられるのか!?」
「どうしてか?そんなもの、民が餓死寸前だと聞きつけ、見に来たに決まっていよう。
王や官吏が民のために動くのは当然のことだろう。
…まぁ、お前は違うみたいだがな。」
「そ、そんなことは」
「ないというのか?」
雪華が冷たくすれば泣きついて来ようとする蓮季に、綾が前に出てそれを遮る。
見下すような冷たい視線が彼を射貫いたのだろう。蓮季は鷹下の雀のように身を震わせて小さくなる。
「なぜ頭を上げているのだ?陛下の御膳であるぞ!」
綾の言葉に蓮季は慌てて平伏する。
「雪華様。今回のこのような騒動に王の御手を煩わせてしまったこと、空南の官吏として、この蓮季がお詫び申し上げます。
…ですが、畏れながら申し上げさせて頂きますと、私は今回の騒動の被害者にございます。
日々、民のためにと勤めて参りました。なのに、このように恩を仇で返すようなことをされて、私は悲しく思っているのです。」
「ほう?」
「法に背く者を罰するのは、官吏としての勤めでございます。この件に関することは、私めに任せていただきたいのです。」
「法に背く者は罰する…か。」
「ええ、それは当然のことにございます。民が道を誤れば正すのが国の役目です。」
「そうか…」
「はいッ…」
その通りですと、笑顔で続けようとする蓮季の言葉を遮るように、雪華は言葉を被せる。
「では、勅任官が道を誤れば、正すのは王の役目となろう。」
その顔は間の抜けた情けないものに変わった。
「違うのか?」
「い、いえ、その通りにございます。」
「では、職務怠慢の勅任官の処分は、打ち首としよう。」
「は?そ、それはどこの勅任官でしょうか?」
「お前は自分の役職も忘れたのか?」
蓮季はどんどん青ざめていく。
「わ、私がう、打ち首?な、何かの間違いで」
「間違いではない。お前が国庫の管理を怠ったために、今回の飢饉が起こったのだ。責任は勅任官であるお前にある。」
「なっ!?雪華様!け、決して私は責務を怠ってなどおりません!」
「では、なぜ今回の飢饉が起きたのだ?」
「そ、それは民が田畑の管理を怠り、不作を招いたのが原因かと。」
よく口が回ると雪華は呆れを通り越して感心してしまう。そうやって、この蓮季は今まで勅任官としての職務を怠りながらも、誰にも咎められもせずにいたのだろうか。
「ふ、ふざけるなっ!!」
「俺たちが怠っただと!!」
静かになったのを機に、ずっと黙って成り行きを見守っていた空南の民が、怒りの声をあげた。
当然だろうと思う。昨年の不作は、民が原因ではない。気候の変動が激しかったせいなのだ。こればかりは、神に祈るしかない。
「だ、黙れ!!お前達がしっかりしていれば、こんなことには…」
「いい加減にしろッ!!」
さらに言葉を続けようとする蓮季に雪華が怒鳴り声をあげた。
「お前の周辺で金が不正に動いているのは、調べがついている。本来であれば、蓄えられていなければならない国庫が底を尽きたのは、その不正が原因だろう!
それを、民のせいにするとは、勅任官として恥を知れッ!!」
雪華は腰に指していた剣を引き抜いて、顔を上げていた蓮季の首元にピタリと当てる。
ヒッと息を飲み、その動きは止まった。
「この場で切り捨てるかッ!その方が報われる民も多いだろう!」
再び息を飲む音が聞こえて蓮季の頬に汗が伝う。
「お待ちください!!」
そこ割り込んできたのは、黎夕だった。雪華に向かって平伏する。
「どうか!それだけはご容赦ください!!」
「ふざけるな!」
「そんな奴、死ねば良いんだ!!」
口々に叫ぶ民に耳を傾けてから、雪華は鋭い視線を黎夕に向ける。
「…だそうだ。」
「はい…ですが、お待ちいただきたいのです。」
黎夕の言葉に我慢の限界だったのだろう、民が怒りの声をあげて、その場に落ちていた石などを投げつけた。それが黎夕に当たることはなかったが、民の怒りを彼は一身に受けたことだろう。
雪華が静かに手を上げればしんとその場は静まった。
「そなた達の気持ちもよく分かる。だが、そなた達の王の話しに、耳を傾けてもらえないか?
…黎夕。
民の気持ちは見ての通りだ。それでも、処罰するなと申すか?」
「いえ、処罰をしない訳ではございません。今回の事は、民の生死に関わるものです。見過ごすことは致しません。
ですが、ここで殺しても民の腹が膨れるわけではございません。ですから、この飢饉を終わらせるために蓮季には、身を粉にして働いてもらいます。
…恥ずかしい限りですが、私には蓮季のような人脈はございません。彼のその力を使いたいと考えております。」
「こやつの勅任官としての人脈を利用して、この飢饉を乗り越えようというのか?」
「は、はい。」
「処罰はどうするつもりだ?」
「この飢饉が収まりましたら、改めて裁判にかけて処罰致します。」
「ふむ。今後の働き次第で、減刑もあるかもしれないな。」
ぱあっと表情が明るくなる蓮季に雪華は続ける。
「まぁ、それは、民が決めることだ。裁判は空南の民も参加させること。これが条件だ。
…それなら、どうだろうか?」
後ろを振り向き問うと、複雑な顔をする民が映る。
「もちもろん、私も参加させてもらう。不正は絶対ない。それでもダメだろうか?」
雪華の言葉にやっと民は頷いた。だが、その顔は納得などしてないと言っている。
「黎夕、これからの事はお前に任せる。だが、民は納得した訳じゃない。民は、腸が煮えくり返るような気持ちを、堪えているのだ。それをゆめゆめ忘れるでないぞ。」
「御意」
深々と黎夕は頭を下げたのだった。