第8章 後悔と決意
更新:2022.10.19
やはり固い寝台は寝心地が悪く、陽が出る前に目が覚めてしまったのだが、不思議なことに寒さで目が覚めることはなかった。
その理由は誰かが外套をかけてくれたからで、その誰かは天井から聞こえたくしゃみで明白だ。
「翠、起きてる?」
返事の代わりに、目の前に姿を現す翠。
「これ、ありがとう。寒かったでしょ?」
翠がかけてくれた外套を持ち主に返せば、問題ないと答えつつもそれを羽織る翠。そんな彼の手を取ると、氷のように冷たかった。
「わっ!冷たいよ!」
「…」
「昔みたいに、一緒に寝れば良かったね。」
「だ、大丈夫だっ。」
珍しく翠が慌ててる。面白くなって、雪は握った手を思いっきり引いて、ギュッと翠を抱き締めた。
「可愛いね。翠。」
じたばた踠く翠が、どんな表情をしてるのか分からないのが残念に思う。
「動かないで。これで少しは温かいでしょ?翠に風邪引かれたら困るわ。」
弟とはこう言うものなのだろうか?冷えきっていて肌に当たっている場所は冷たいのに、雪は温かい気持ちになっていた。それは昔、隆盛が頭を撫でてくれる時に感じた心の温かさとは、何かが決定的に違うのに、それが何かまでは分からない。何だかそれは一度知ったら離しがたい温かさで、雪は手に力を込める。
雪の言葉に一瞬だけ動きを止めた翠だったが、結局すぐに引き剥がされてしまう。耳まで真っ赤にした彼を見て、離さなければ良かったと雪は思ったのだった。
雪たちが広場へと赴いたのは、陽が昇り始めた頃。
彼女はその広場を見て目を疑った。
そこには昨日とほとんど同じ人数が集まっていたのだ。雪の考えでは半数残れば良い方だった。だが、それを遥かに越えた人数が残っているのだ。
驚いてその光景を眺めていたら、高秦の姿を見つけて雪は声をかける。
「おはようございます。」
「おう、雪。」
「こんなに残るのは予想外なのだけど…高秦、あなた何かしたわね?」
「なに、大したことはしてないよ。話をしただけさ。」
若僧が話をして集められる程、今回の話しは簡単ではない。何か裏があるのだろう。
「…まぁ、そう言うことにしておきましょう。」
「で、どうするんだ?」
「そうね…」
雪はこの作戦の詳細と、人員の配置を決めて説明を始める。
幸い、官吏は民が集まっても気にする様子はない。それは今まで民が国に反乱などしたことがないからだろうと、雪には予想がついていた。農民気質の強い空南の民は、穏和でのんびりとした者が多く、官吏の決めるがまま動く。国の決めたことに文句は言いつつも逆らうことはしない。
だから民の反乱など考えもしないのだろう。
だが、今は違う。
雪が声をかけたことで運命は変わった。ただ死ぬのを待つだけなんて嫌だと、若者たちが立ち上がったのだ。
――――人とは単純な生き物だ。
昔、隆盛に言われたことを雪は思い出す。
「人ってのはな、一人じゃ生きていけない。群れる動物なんだ。」
「隆盛も?」
「ああ、俺だって悩むし、他の官吏や綾に翠、お前にだって助けられている。」
「私も助けてるの?」
「ああ、そうだ。きっかけが大事なんだ。私はお前たちにそのきっかけをもらっている。」
「きっかけ?」
「そう、あと一歩を踏み出すための勇気みたいなものだ。それを他人から与えられれば、あとは勝手に動き出す。」
今、目に映る光景を見て本当にその通りだなと雪は思った。
雪が一通り作戦の説明をすると、人々は誰が何に向いているかを教えてくれ、話は難なく進んでいく。
聡明な者が多く、雪が考えた作戦よりも一段と良いものを立てることができたのだった。
「決行は五日後よ。」
そう言って雪が全員を解散させた時には、陽は既に暮れていた。
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作戦決行までの間に雪華は羅芯に戻ると、正式な形で黎夕のもとに再び訪れた。自分の部屋で雪華に平伏する黎夕は、何だかやつれた様に見える。
「ほ、本日はどのような…」
「そんなに畏まる必要はない、黎夕。ちょっと聞きたいことがあってな。
天気も良いことだ、たまには庭園でも歩きながら話すのも良さそうだ。」
そう言うと雪華は黎夕を城内の庭園へと案内させた。庭園では様々な植物が美しい花を咲かせていた。庭師の腕が良いのだろう。手入れが行き届いており、生き生きとした花々がさらに美しく見える。
そんな絵を切り取ったような、美しい庭園にいるのは雪華と黎夕だけ。綾と翠には庭園へ人が入らないよう見張ってもらっているし、官吏には席を外すように伝えていた。
逢い引きのようにも見えなくない美男美女の二人だったが、その会話には主従の関係がはっきりと見えていた。
「ここは素晴らしいな。手入れが行き届いている。」
「あ、ありがとうございます。」
「庭師の腕が良いのだな。」
「雪華様にそう言っていただけたら、庭師も本望でしょう。」
恭しく頭を下げる黎夕だったが、王室であのまま話すよりも気分転換になったようで、庭を褒めれば饒舌に花の説明をしていた。もしかしたら、彼は植物が好きなのかもしれないなと、雪は思った。
「も、申し訳ございません。私の話ばかりになってしまいました。」
「いや、構わない。それより時に黎夕。柑都は知っているな?」
「はい、我が国の奏任官ですが…」
当 たり前のように黎夕は答えるが、奏任官は勅任官が任命するもので王が把握していることは少ない。
雪華は綾に無理やり覚えさせられたので全て把握しているが、その数は多くて何度も投げ出した。その度に鬼の形相で綾に、追いかけ回されたのを思い出す。
「どうかしましたか?」
何も言わない雪華を心配そうに見つめる黎夕に「…い、いや」と、雪華は答えて恐怖の思い出を頭からかき消した。
「どのような人物だ?」
「そうですね…真面目な男です。ですが、上にあまり恵まれず、数年前にやっと奏任官に任命されたと聞いてます。」
「そうか…。確か、伴侶がいるだろう?」
「ええ、石楠という妻がおります。」
「よく知っているな。」
感心して答えれば、黎夕は複雑な顔をしてうつ向いてしまう。
「忘れたくても忘れられないのです。」
「何があった?」
「柑都と石楠には子供がいたのですが、以前に起きた飢饉で亡くなったのです。」
「飢饉?」
そんなことあったかと、雪華は首をかしげる。
「あっ、いえ…今回のような大飢饉ではないのですが、私が即位してすぐ、晴嵐の一部で食糧難がありまして…」
黎夕の歩く足が止まり、もの憂い気に空を見上げた。何かを思い出すように遠くを見つめている。
「民は助け合って生きていくのが、当たり前だと私は思っていたのですが…」
そうではなかったと、黎夕がこちらに悲しげな瞳を向けた。
「官吏が税を巻き上げているから食糧難になったのだと、民が反乱を起こしたのです。
官吏である柑都の家も襲われ、幼かった子供と母親である石楠が巻き込まれました。石楠は大怪我を負ったのですが、幸い一命は取り留めました。ですが、子供は…」
目を伏せる黎夕に、雪華も手に力が入る。
いつもそうだ。
巻き込まれるのは子供や女なのだと。
「石楠もその怪我で足を痛めたとか。生活は普通に送れるようですが。」
「そうか。」
「お話しとは、このことでございますか?」
「ああ、いや。この国の親任官について聞きたくてな。」
「親任官にございますか?」
「空南にはここ数年、親任官を任命していないのはなぜだ?」
「そ、それは…」
黎夕は急に落ち着かない様子で辺りを確認するので、誰も聞いていないから話すように促せば、黎夕は声を潜めて答える。
「勅任官が、親任官を辞めさせようと動き出したのです。」
「親任官をいじめでもしたか?」
冗談で言った言葉に黎夕は目を見張り、すぐにそれは困った表情になる。
「その通りにございます。ただ、いじめと呼ぶような、可愛いものではございません。
極めて陰湿なものでした。雪華様にお話しできるようなものではございません。」
「詳細は話さなくて良い。で、そのいじめで辞したのか?」
「ええ。その後も一人、私が推挙して親任官に着かせたのですが、同じでした。」
「それは、黎夕が王になってすぐか?」
「はい…そうですね。」
恥ずかしそうに頬を掻いて答えるあたり、黎夕は自分のせいだと思っているのだろう。
「では、特定の誰かを親任官にという推挙の話が上がったな?」
「ええ、陛下のおっしゃる通りです。」
「誰の名が上がった?」
「蓮季です。」
「だろうな。…それで、お前は蓮季を親任官にとは、考えなかったのか?」
「ええ、そのつもりは毛頭ございません。」
珍しくきっぱりと黎夕が言ったので意外に思い、雪華が黎夕を見れば居心地悪そうに視線をそらせると、近くの花に視線を移した。それは花を見ていると言うより、昔を思い出しているようなどこか遠い目。
「私は親任官を…辞めさせたことを恨んでおります。確かではございませんが、蓮季が首謀者だという噂もあります。そんな噂になるような者を、親任官にするつもりはございません。
…本当は処罰をしたかったのです。いじめる者がいなくなれば、親任官も戻ってくれるのではないかと、期待をしておりました。
ですが、私の未熟さゆえに証拠を掴むことすらできませんでした。」
悔しそうに言葉にする黎夕は、今までに見たことのない顔をしていた。温和な彼からは想像できない、人を恨む人間だけが持つ負の感情を露にしている。
それを見た雪華はその親任官が、もうこの世にいないのかもしれないと思った。
「とても優秀な親任官でした。前王の時に任命された官吏で、民のために考え行動してくれていました。至らない私の補佐として様々な仕事に勤めてくれていたのです。それなのに…!!」
「…そうであったか。辛かったな。」
「いえ、辛いのは私ではございません。」
そう言って、黎夕はとても寂しそうな辛そうな顔をする。
「…私を信じて仕えてきた者に、申し訳が立たないのです。」
花々を見ていた視線が雪華を捉える。申し訳なさそうな、寂しそうな微笑みはもう限界なのだと訴えているようにも見えた。
「それに、私が至らないせいで、雪華様まで煩わせてしまい…私は王失格です。」
本気で落ち込んでいる黎夕を見て雪華はフッと苦笑してしまい視線を外した。移した視線の先に咲き誇る花々は、今の黎夕とは真逆に見える。
そんな咲き誇る花の中に、一つの小さな花の蕾を雪は見つけた。まるでそれは目の前にいる黎夕を見ているようだった。
「黎夕、お前に王として足りないものは何だと思う?」
「…。」
花から目を離して黎夕の方を見上げると、彼は悩み答えを探している。それは足りないものがたくさんあり過ぎて、答えられないようにも見えた。
「分からないか?」
「はい、あまりにも多すぎて…」
黎夕の答えに、雪は小さく笑った。昔の自分を見ているようだったのだ。だから雪は確信をもって答えられた。
「自信だ。」
「自信?」
まさかそれだけですか?と、黎夕は言いたそうな顔をしている。
きっと、雪も隆盛に自信が足りないと言われたとき、同じ顔をしていたのだろうなと、思ったら笑えてしまう。
「そうだ。」
「知識や学ではないのですか?」
「もちろん、それもあるに越したことはないが、そんなものは必要になってから学べば良い。それにそれは官吏に任せても良いものだ。
それよりも、王は決断を迫られることが多い。それに自信を持って答えなければ、官吏はついて来ない。不安な王に誰がついて行きたいと思うだろうか。」
風か強く吹き、花々が吹き荒れる。
満開の花は、花びらを散らし舞い踊る。
その光景はとても見事で、美しかった。
そんな様子を、黎夕は見つめた。だがそれはどこか違う場所を見ているようにも見える。
「私がしっかりせねば…」
一度大きく深呼吸をして、目を閉じる黎夕は小さく呟いた。その言葉は風に乗って消えてしまった。
だけど次に雪華の方を見た黎夕の瞳に、先ほどまでの迷いは見られなかった。