暗黒郷(ディストピア)からの逃げ水/8
――とは、弟はだまされなかった。惑星が粉々に砕け散ったとしても、この兄だけはしぶとく生きているだろう。それは間違いない。
「兄さん、いきなり何の話だい?」
「さよなら、ヒカリ……」
しかし、今回はどうも冗談ではなく、見知らぬ女が助けに来る気配もなく。ルナスはゴボゴボと泡を立てて、海底に向かって沈み始めた。
「兄さんっ! 兄さんっ!」
ヒカリが手を差し伸べても、無情にもそれをすり抜け、マゼンダ色が海の青に染められて、紫色へと変わってゆく。張り付いている服が手足を拘束して、助けようとすることを邪魔する。そうして、無慈悲にも時間切れ――大人たちの大声が響いた。
「いたぞ!」
時間がない。四面楚歌。孤立無援。気息奄々《きそくえんえん》。
(兄さんを助ける。研究者から、いやこの惑星から逃げる。ふたつを叶える方法……? 可能性の数値が低くても、これが一番成功する可能性が高い)
神経を研ぎ澄ますため、水色の冷静な瞳はそっと閉じられた。ヒカリは呪文のように何度も心の中で必死に繰り返す。
(水……が流れてゆくように、どこかにたどり着いて……)
防波堤でせき止められていた海面は波をほとんど作っていなかったが、不意にぐるぐると渦潮を作り出した。ヒカリとルナスのまわりに水はなくなり、青白い光が兄弟を包み込む。
「な、何だ?」
どよめく研究者たちも放り出して、ヒカリは心の中で、イメージを形作る。水のメシアを使おうとして。
(流れてゆくように、どこかにたどり着いて……)
青白く輝く雪のような水滴が、天へ龍が登ってゆくように舞い上がる。ヒカリとルナスの体も光に包み込まれて、海からまっすぐ上へと浮き上がってゆく。天と人が結ばれる神柱のようだった。
(たどり着いて……!)
逆巻く風の中で、ふたりの長い髪はゆらゆらと空へ向かって揺れていたが、やがて夜という裂け目から光が突然差したように、あたりを真昼よりも明るくして、大人たちは思わず、腕で目を覆った。
「うわぁぁぁっ!?!?」
大波が堤防で砕けるように、ザバーンと全身に浴びると、寝耳に水でも入れられたように、我に返った研究者たちは目を開けた。
すると、あの幻想的な青白い光も、ヒカリとルナスの姿もどこにもなく、夜の海が少し荒れたように広がっていただけだった。
「どこへ行った?」
「メシアの力か?」
「探せ!」
遠くの汽笛が何かの始まりを告げるように、ボーっと大きく響き渡った――




