暗黒郷(ディストピア)からの逃げ水/7
切羽詰まった状況でも、兄はのんびりとこんなことを言う。
「ヒカリ〜、話しながら走ると、舌を噛んでご臨終ですよ〜」
「言っているそばからこれだ」
「さぁ、君が先です〜」
とうとうたどり着いた、逃走路。素早くかがみこんで、ヒカリはそこへ出て、さらに遠くへ行こうと走り出そうとしたが、目の前に広がった風景に目を疑った。
「ここはっ!」
「ヒカリ〜、どうしたんですか〜?」
後ろからルナスが出てくると、扉はキキーと悲鳴を上げてしっかりと閉まった。青い月明かりが宝石のようにキラキラと地上で光り輝く。
遠くには赤や緑のライトがゆっくりと動いていて、ボーッという螺貝を吹いたような汽笛の音が聞こえる。
「……水平線が見える。兄さん、海へと続く排水溝だ」
「溺れなければ死にませんよ〜」
「兄さん、いつ泳ぎ方を教わったんだい?」
いいところに弟は気づいた。五歳でこの惑星に来て、モルモット生活。教育などされていない。
「おや〜? 気づかれてしまいましたか〜」
実の兄にも死亡フラグが立てられていた。というか、邪悪以外の何物でもない。騙して海に沈めようとしていたのだから。ルナスはマゼンダ色の長い髪をさらっと背中で揺らして、他の逃走方法を模索しようとするが、
「それでは別の道を――」
その時だった。ヒカリの背中が押され、
「うわっ!」
叫び声を上げると、大きなしぶき上げて、ザバーンと海に転落したのは。着ていた服が海水を含み重たくなり、塩辛い水が喉をヒリヒリさせる。紺の長い髪を海面に漂わせながら、ヒカリは極悪兄に振り返った。
「今わざと押しただろう?」
ルナスは否定もせず、涼しい顔をしてこんなことを言ってのける。
「えぇ、君には潔く死んでいただこうと思いまして。君が狙われていますから、君が死ねば狙ってこなくなるという寸法です〜」
弟を盾にして、逃げようとする兄。
「何のために助けに――」
「さぁ、ヒカリ、メシアを使ってください」
文句をさえぎれた挙句が、さっきからの非科学的要求だった。溺れそうになっている、言葉が巧みに操られている。他の人なら混乱するところだろうが、ヒカリはそうはいかない。
「兄さん、なぜ強引に話を進めてるんだい?」
「おや〜? 呉牛喘月もしくは杯中蛇影でしょうか〜? ただ急いでいるだけです〜」
はぐらかしてうやむやにしようとする兄に、弟が詰めようとするが、
「何を企んで――」
さっきからやたらと被せ気味に言葉を発してくるルナスだった。人差し指をこめかみに突き立てて、小首をかしげる。
「困りましたね〜。少々手荒い方法ですが、潜在能力を引き出すためには、窮鼠猫を嚙むです〜。わざと追い詰めたんですが、こちらでは足りないみたいです〜。それでは次は即死の毒でも飲ませてみましょうか〜?」
研究者から逃げても、結局そこに待っていたのは死だった。溺れないという研究結果が出ていても、海水は飲むのだ。
「ぶつぶつ言っていないで、助けてくれ」
「こちらのようにしてみましょうか〜?」
弟の意見は亡き者にして、
「っ!」
ルナスはジャバーンと海面に白い服を浸した。
「兄さんまでなぜ、海に飛び込んだんだい?」
いつもニコニコしている兄の表情は、今はとても真剣で、声色もトーンが下がっていた。静かに、少し苦しそうに言葉を紡ぐ。
「ヒカリ、僕はもう疲れたんです。こうやって逃げる日々に。君と兄弟でいられたことは地獄へ行っても忘れません」
遺言――最後の言葉を残してゆく兄。五歳で両親とはぐれ、実験台にされそうになっては、知らない女に助けられる月日。さすがのルナスも心を病んでいたのか。




