暗黒郷(ディストピア)からの逃げ水/6
慌てて、建物の角を曲がったが、
「っ!」
「おや〜? 挟まれましたか〜。死生有命ということでしょうか」
ジリジリと前後から忍び寄る追っ手。ヒカリとルナスは背中合わせで対峙する。
「何、のんきなこと言っているんだい?」
「水は別世界への入り口だという話を以前聞いたことがあります〜。ですから、君が持っているメシアの力で僕たちは脱出です〜」
同じ話をまた持ち出す、執念深い兄。緊迫した状況のはずなのに、兄のお陰でまったくシリアスにならない。ヒカリはあきれたため息をつく。
「そんな非現実的なことを、兄さんまで言うなんて……」
「僕の特異体質で脱出してもいいんですが……。光がすぐに捕まってしまい、そちらを見知らぬ女性の力を借りて、僕が助ける〜というパターンからそろそろ抜け出したいと思いまして……」
星空が建物の間から見える外だというのに、何かの前触れみたいな無風だった。
「それが、僕のメシアに頼るだなんて。兄さんは神頼みよりも不可能なことを望んでいる」
猛吹雪を感じさせるほと冷たい表情で、ヒカリは言って返すが、ルナスはニコニコの笑みのまま、ああ言えばこう言う。
「何事もやってみないとわかりませんよ〜」
「僕は大体メシアなどという非科学的なものは信じていないし、たとえ信じていたとしても、どうやって使うのかも知らない」
ルナスはこめかみに人差し指を突き立て、小首かしげると、マゼンダ色の長い髪が肩からさらっと落ちた。
「そうですね〜? 念を込める」
「思い願うだけでは現実は変わらない――」
紺の長い髪を結わいていた細い紐がほどけて、急に中性的な雰囲気になってしまったヒカリ。長い髪の兄弟ふたりに、魔の手が迫る。
「生きていれば、何をしてもいい」
研究者たちの瞳には、人の命はもう映っていない。メシアという特殊能力――研究材料に踊らされ、目を血走らせている大人たち。
ヒカリは思い出す。聖書とかいう本に書いてあった出エシャロット記を。モーゼが奴隷解放を王に頼み続けたが、交渉は上手くいかず、海を割り奇跡を起こし、強引に王から逃げてゆくという話だ。
しかし、そんな非現実的なことが起きるはずもなく、いやそもそも期待もしておらずだが、今この時だけは起きてほしいと願うのだった。
生かして捉えられたとしても、どのみち殺される。自分の命を狙っているものから逃げようとしない者はいない。あの投下され続ける核兵器から逃げようとして、自分と同じように家族と離れ離れになった、他の子供は幸せで生きているのだろうか。
負の連鎖はいつどうやって起きて、どうやったら止められるのだろう。限られた情報しか与えられていないヒカリには答えは出なかった。
スタンガンの青白い光がバチバチと脅迫じみた奇声を上げて、近づいてくる。気を失ったら最後、次に目が覚める時は、あの世かもしれない。
その時だった。ヒカリたちが背中合わせで立つ横で、小さな扉が鉄の歪む音をさせながら開き、綺麗な女が顔をのぞかせた。
「こっちです!」
会ったこともない女なのに、ルナスはニコニコの笑みで、丁寧に頭を下げる。
「おや〜? ご親切にありがとうございます。ヒカリが先に行ってください〜」
このマゼンダ色の髪を持ち、天使のように見えるのに、悪魔も震え上がる振る舞いをするルナスに、ヒカリは疑いの眼差しを向けた。
「兄さんが譲るってことは、失敗する可能性が高いってことだろう?」
全身で白の服を着ているルナスを前にして、ヒカリは思う。誰が、白が善で、黒が悪と決めたのだと。それこそ、見た目に騙されて、本質を見落とす原因なのではと。色に善悪はそもそもないと。
語尾はゆるゆる伸びているのに、ルナスの言葉が極悪非道だった。
「疑心暗鬼ですよ〜。彼女は僕にしか眼中にありませんからね。僕が先に出てしまうと、無情にも君の前で扉はギロチンをするようにガチャンと閉まって、今日がヒカリの命日になってしまいます〜」
身も蓋もないことを言う。ある意味、一番の危険人物は兄である。
命が狙われていると言うのに、さらにそこに輪をかけて殺そうとする兄。あんまりな言動で、かえって緊迫感が薄れるというものだ。
「兄さんは人が死ぬことを楽しんでいるみたいだ」
いつの間にか硬直していた手足が逃走のために正常に動き出す。運動に向いてはいないが、瞬発力だけはあるヒカリは、研究者たちの意表をついて、横へぱっと飛ぶように向かった。
「っ!」
「あぁっ!」
「逃すな!」
ワンテンポ遅れて、追っ手が突進してくる。




