落日の廃城/7
「――死んだって」
そのあとどうやって仕事を抜け出し、現場まで行ったのかは覚えていない。
今みたいに、雨が闇に白く強く光る夜だった。激しく鳴り続ける雨音の中で見た風景は、刃物で自分の首を切りつけた上に、高いビルから飛び降りた恋人の死体だった。
まわりに集まっていた他の人々のひそひそ話が、雨音をかいくぐってはっきりと耳に入り込んでくる。
「自殺したって」
淡いピンクのイヤリングが濡れたアスファルトの上にバラバラに転がっていた。
レンの心の隙間に何か黒い煙のような影がすっと入り込んだ気がした。急に視界も意識も何もかもが歪み、彼は声にもならない叫びを上げて、
「あぁ……!」
そのまま、両膝を脱力したように、黒光りする路面に打ちつけた――
*
謁見の間――
小石が落ちてきたようなバチバチと窓にぶつかる雨粒。稲妻がジグザグの線を作って、近くの地面に雷光とともに地響きのように落雷し続ける。
赤い絨毯の上で、リョウカはじっと見つめていた。ストロボを炊いたような光を浴び、ドアを背にして立っているレンのロングコートが死んだように動かないのを。
「やっぱり……そうなのね」
バラバラだったパズルピースが完成するように、真相に近づいて、どこかずれているクルミ色の瞳は涙でにじんだ。
苦痛で歪んだ顔を上げ、レンは混濁した意識の中で何度か呼吸を重ね、まっすぐリョウカの横顔を見つめて、
「どういう意味だ?」
「この世界はあなたの心の中――夢。だから、以前の記憶がお互いにないのね」
リョウカは最寄駅から、この謁見の間までたどった道のりを脳裏でなぞる。
「繁栄してたみたいな街並みは、一番輝いてた記憶だったってことでしょ? 燭台に明かりがついてたり料理が残ってたのは、今でも心の中で想ってるから、違うかしら?」
瓦礫の山にあった、デパートも映画館も何もかもが、フローリアと一緒にデートに行った場所だった、今となれば。
引き裂かれそうな胸の痛みに耐えながら、苦しそうに息をするレン。だが、大切なところはそこではなかった。リョウカは静かに言葉を紡ぐ。
「私は何度も眠ると、別の世界で違う日常生活を送ってた。あなたは一度も眠らなかった。それって、あなたの意識が戻らず、現実では眠ったままなんじゃないかしら――?」
ザザーンと空が落ちてくるような雷鳴が響き、津波が押し寄せるような雨音が一層激しく窓を叩き出した――
*
――フローリアが死んだ日からの記憶はほとんどない。救えなかった。間に合わなかった。後悔ばかりの日々。
何かに操られたかのように、まわりの人間がみんな口をそろえて言う。
お前がしっかりしてなかったから、女は死んだ――
責められるばかり。いつしか、自分の心のうちにも、
「死んで罪を償え」
という言葉が朝も昼も夜もつきまとうようになった。右も左もわからなくなった人生という霧の中で、それでも肯定して、全て受け止めて、フローリアのために何が自分にできるのか。
悲しみという底なし沼に足を取られ、水面の下へ沈みそうになっては、必死にはい上がっての繰り返し。
天気のよい昼間で、レースのカーテン越しに光は部屋へ入ってきているのに、レンの心の中には陽光は差さない。魔が差したという闇に取り込まれそうな毎日。
いつしか食べる気力もなくなり、婚約指輪も自然と抜け落ちるようになった。
自身のうちから聞こえてくる声を振り払おうと、ヴァイオリンのケースから楽器を取り出し、あごではさみ、弓を構える。だが、バッハの旋律が指を震えさせ、弾けなくなっていた。
楽譜が散らばる部屋で、夜なのに明かりもつけずに、震える手を必死で抑えて、レンは閉じたまぶたの裏で、首を締められるような息苦しさを覚えた。
めまいがして、テーブルの上に置いてあったバーボンの瓶が倒れ、ビチャビチャと琥珀色の液体が音符を染めてゆく。
数日前、コンサート会場の廊下で聞いた、仕事関係者の言葉をふと思い出した。
「レン デュストピュアも終わりだろう。神の申し子とか言われてたが、あれじゃな。ワールドツアーも全てキャンセルだ――」
キャンセルした公演は膨大で、取り消しの費用も莫大で、全ては借金となり、自分へ重くのしかかり、誰も彼も離れていった。




