落日の廃城/6
シュピーンッッッ!
鋭いカミソリで切り裂くように、銃弾がレンの首を前からかすめて、
「っ……」
背中の廊下で壁にめり込んだ。悪魔も奏者も攻撃はしていない。それなのに、リョウカは少し離れたところで、左肩を抑え、痛みに耐えている。
レンが空いている手で首筋をそっと拭うと、水などどこにもないのに濡れていた。
さっきまで降り注いでいた赤い月影は今はどこにもなく、パリパリと雷光が龍のように分厚い雲をはう音と青白い光の中で、恐る恐る眼前に持ってきた手のひらで、べっとりと真っ赤な血が浮かび上がった。
(首が切れて……)
レンは急に息苦しくなり、足元がおぼつかなくなる。
(女が落ちて……)
焦点が合わず、ブラックアウトを繰り返し出して、同じ言葉がぐるぐると心の中で駆け巡る。
自殺したって。自殺したって自殺したって。自殺したって自殺したって自殺したって。自殺したって自殺したって自殺したって自殺したって……。
空が落ちてきたようなザザーンという雷鳴が響き、青白い閃光が走った。窓を叩き始めたスコールの音が、しけた海の荒波のように激しく押し寄せる。
銀の輝きもつ髪の奥にある脳裏で、記憶が猛スピードで巻き戻り、とうとう全て思い出した。奥行きのある少し低めの声で、レンは叫ぶ。
「フローリアっ!」
リョウカは知らない女の名前を聞いて、思わず振り返った。
鮮血が首筋から流れるのが記憶の重い扉を開ける鍵のように、レンの脳裏に悲痛という名のフィルムが早回しで再生されてゆく。
*
――澄み切った青い絵の具が染める秋空。黄色、オレンジ、赤の枯葉が風に乗せられ、実りの季節を彩る。
ダステーユ音楽堂の広い階段を、レンのロングブーツが降りようとすると、女の声が背後から引き止めた。
「あなたもバッハが好きなの?」
知り合いなどいない。関わり合いなどいらない。返事もせず去っていこうとしたが、自分の脇で階段をカタカタとヒールの音が足早に通り過ぎ、行く手をさえぎった。
妖精みたいな儚げで可愛らしい女。ブラウンの長い髪。クルミ色の瞳。背丈は百六十センチといったとこだ。
音楽堂で出演したコンサートで、パイプオルガンを弾いていた女だ。それならば多少は関係がある。
レンは鋭利なスミレ色の瞳を女に刺すように向け、愛想など不要とばかりに、超不機嫌で答えた。
「そうだ」
そんな些細なことだった、彼女と出会いは――。
広い草原に立ち、晴れ渡る空の下で、乾いた風に吹かれている。心地よくて、思わず目を閉じて、自然に身を任せる。彼女に会うと心の中はいつもそうだった。
それは恋という名の景色。気づいた時には、レンはいつの間にかそこに立っていた。
楽しく穏やかに時は過ぎ、仕事も順調。それでも人生だ。多少の困難はあったが息を潜めて、順風漫歩で進んでいたはずだった。
しかし、女の様子が少しずつおかしくなり、ある日話を切り出された。
「悪魔に取り憑かれてるの」
よく聞けば、女は霊感を持っていて、目に見えない存在と話すことがあるらしい。一日中耳元でそそのかすように、
「死ね」
とささやかれる。眠っている間も、誰かと話している間も、ずっと。それは、幻がいつしか真実へと変わってしまう、幻想心理効果――
病んでいる精神に追い討ちがかけられる。
女が何か失敗すれば、あざ笑う声が聞こえ、自尊心は容赦なく破壊される。耳をふさごうとも、体の内側から響く声から逃げることはできない。
ちょっとした喜びも、他人を踏み台にして手に入れたように見せかけられ、罪の意識という濡れ衣を着せられる。何もかもが自分が生きているせいで、まわりが傷ついてゆく――
そう信じ込ませるように仕向けられた精神病質。
一ヶ月もしないうちに、女の心は蝕まれていき、元気だった頃の面影はどこにもなくなった。
それでも愛した女だ、救いたいとレンは願った。だが、相手は目にも見えず、触れることもできない悪魔。助けるすべがないジレンマの日々。
痩せこけ、目の下にクマを作り、すっかり生気をなくした女が、決死の頼みごとをレンにした。
「一人きりでいると、気が狂いそうなの。だから、あなたと結婚をしたいの」
「わかった――」
式の準備は進み、結婚式当日まで一週間と迫った。仕事の合間にふと見た携帯電話に、コレタカからの留守番電話が入っていた。




