雨とバッハ/5
冷蔵庫のドアを開けて、中を見ているリョウカは、背後でそんなことが起きているとも知らず、
「何も入ってない。っていうか、一回も使ってないみたいだわね」
汚れどころか、プラスチックの無機質な匂いが広がっている。潔癖症にしては少々いきすぎな感が漂っていた。
チン!
と、電子レンジの音がして、チーズの香ばしい香りが部屋に広がる。ふたつ分手にして戻ってきたが、レンは一瞥しただけだった。
二人でテーブルを挟んで、食事を始める。冷めてゆくラザニアの隣で、レンはミネラルウォーターを飲みながら考える。斜め前の席に座る、ブラウンの髪を持ち、サバサバとした女のことを。
知らないはずなのに、知っている。知っているはずなのに、名前を聞く。
リョウカ コスタリカ――
嘘をついているようには見えない。だが、さっき初めて聞いた。しかし、耳慣れているものもある。それは、CDコンポのスピーカーからずっと途切れることのない、ストリングスとソプラノの声だ。
やはり何かがおかしい……。
食べかけのラザニアにフォークを立てかけて、クラッカーにクリームチーズとブルーベリージャムを塗りながら、リョウカは気になっていることを聞いた。
「ねぇ、これ誰の何ていう曲?」
これはよく覚えている。忘れるはずがない。どうしてだかわからないが。レンは奥行きがあり少し低めの声で答えた。
「バッハのヨハネ受難曲だ」
リョウカは視線をあちこちに向けて、聞いた曲名を頭に叩き込む。
「そう。クラシックを聞くのね」
彼女の仕草はどこかで見たことがある。初めて話したはずなのに、記憶がある。思い出せないだけで、やはりどこかで会ったのだろう。タメ口で話してくるのが、何よりの証拠だ。
向かいの席で、のんきにポタージュスープを飲んでいるリョウカに、レンは少しイラついたように聞いた。
「お前、何しにここにきた?」
タバスコを持とうとしていた手を止めて、リョウカはニッコリ微笑む。
「あたしがあなたに用事なんて、ひとつしかないじゃない?」
暗号みたいな言い方をされても困るのだ。記憶がないのだから。
「何だ?」
リョウカは薄づきの口紅を指先でそうっとなぞって、こんなことを言う。
「――セック◯」
「お前いい加減にしろ!」
テーブルを力任せに叩き、レンは小規模噴火を起こした。リョウカはミニスカートにも関わらず、足をさっと組んで片肘をテーブルにつく。
「冗談よ。仕事の話」
どうもこの女は相棒のようだ。
オレンジジュースの缶のふたを、持っていたタオルで綺麗に拭い取って、レンは開けた。柑橘系のさわやかな香りが部屋に立つ。
「どんな内容だ?」
リョウカはタバスコをラザニアに大量にかけながら、
「北西の国境近くにある、ヘッセンって村があるじゃない?」
二人の脳裏にこの国の地図が浮かび上がる。
「ん」
「あの外れにある、カスルディカ城っていう古城、廃城といっても過言じゃないわね。その広間に大きな悪魔が現れたって、話を聞いてきたのよ」
この世界には悪魔が存在する。多くの人々はそれも知らずに無防備に生きていて、いつも背中合わせの闇にいつの間にか取り込まれ、ひっそりと命を落としてゆく。そんな危険が潜んでいる日常。
「誰に聞いた?」
カフェラテのマグカップにマドラーがわりのスプーンを刺したまま、リョウカはカップを傾ける。
「昨日行ったバーのカウンターで、隣に座ってた客がバーテンダーに話してたわよ」
今は雨でにじんでしまった街並みに、レンは視線をくれる。あの裏路地にある古いジュークボックスからジャズが流れる小さなバーを思い出した。
だが、すぐに違和感は首をもたげて、銀の長い前髪をさらさらと動かし、鋭利なスミレ色の瞳は切り刻むようにリョウカに向いた。
「お前、昨日の夜は俺とずっと一緒にいたはずだ」
「あら? 夢でも見たんじゃないの?」
男と女の間で起こった意見の食い違い。レンは超不機嫌顔で、あごだけで振り返るように指図した。
「ん」
「何?」
手についたクラッカーの粉を払い、リョウカは言われた通り後ろを見て、どこかずれているクルミ色の瞳に、ピンク色をした小さなアクセサリーが映る。さっきそばに立った時に気づかなかったものだ。
「イヤリング……?」




